六つも年下の旦那様の前で、年甲斐もなく涙を流してしまったその翌日。
墨が作った朝餉のおにぎりをしあわせそうにたいらげた眞白は、屋敷の門前で大太刀を持って蹲っていた。
「眞白様……」
「嫌、嫌だ」
蹲ったまま、いやいやと首を振る眞白。そんな彼を、墨は憐れみの目で見つめた。
「でも、そろそろ出ないと時間が……」
「嫌だ。墨さん一人残して仕事に行くなんて絶対に嫌だ。目の届くところにいてよ」
「無理ですよ。〈首切り執行人〉でないわたしは、首切り場にも入れません」
「俺が抱えてればいいんじゃないかな。……そうだ。首切り場のすぐ近くにある酒屋の奥さんは子どもを背負いながら仕事をしてたんだから、俺が駄目だってことはないよね」
「あります。それは赤ん坊だから許されてることでしょう。わたしみたいな年増を背負ってたら眞白様が変な目で見られますよ」
不満そうな色を宿した切れ長の瞳がこちらを向く。
「年増だとかは関係ないよ。俺は墨さんと離れたくないの。俺が知らない間にあなたのしあわせが見つかったらやりきれないでしょ。できるなら俺が見つけてしあわせにしたいんだ」
嘘偽りない、少年のような素直な言葉。
それを真正面から受けてしまい、墨の頬に熱が灯る。次いで、まだ慣れていない心臓の痛みに襲われた。
(少しわがままでかわいい……!)
つい眉間にしわを寄せてしまったからか、目ざとく反応した眞白が墨の顔を覗き込む。
「どうしたの、大丈夫? どこか痛い?」
「大丈夫です。何も問題ないです。元気いっぱいです」
「そんな険しい顔してるのに?」
まさか「あなたがかわいくて心臓が痛いです」なんて言えるわけもない。大丈夫、を何度も言ってどうにか切り抜ける。
(それよりも、そろそろ本当に時間がまずいんじゃ……)
昨日から始まった夫婦という関係だが、離れたくないと言ってくれるほどには気に入ってくれたようだ。悪い気はしないが、自分が原因で仕事に遅れ、眞白の信頼が失われてしまっては困る。
なんとか彼を仕事に行かせる方法はないだろうか。そう思ったとき、ふとある案が思い浮かぶ。
(本当にいけるかはわからないけど、やってみる価値はある)
墨は心配そうに眉を下げている眞白の整った顔を両手で包み込んだ。
「眞白様、」
まっすぐに彼の目を見つめて、
「いい子にお勤めへ行ってくださるなら、『いってらっしゃい』がありますよ」
「…………へ?」
「それになんと、『お帰りをお待ちしてます』もついてます」
口をぽかんと開けた眞白は、数秒後、小刻みに震えだした。
「そ、それはもしかして、帰ってきたら……」
言いたいことを理解した墨は大きくうなずく。
「もちろん、『おかえりなさい』があります」
「やっぱり!」
眞白はそう叫ぶと、名残惜しそうに墨の手に己の手を重ねた。
「嫌だけど、すっごく嫌だけど。墨さんにいってらっしゃいして欲しいから、いってくる」
「いってらっしゃい。お帰りをお待ちしてますね」
「うん」
眞白の薄い唇が、手のひらをかすめる。
艶やかなその行為に息が止まる。
「ちゃんと頑張ってきたら、また、こうして触れていい?」
「は、はい。わたしは眞白様の妻ですから」
裏返った声でどうにか告げれば、眞白は猫のように目を細めて破顔した。
何度も振り返る眞白の背中が見えなくなると、墨はふらつきながら屋敷の中に戻り、袖の広い花嫁衣裳をたくし上げた。
「…………」
棚にしまってあった雑巾を見つけ出し、水に濡らしてきつく絞る。
「…………」
そして、まるで操られている人形のように、一言も発さず掃除を始めた。床だけでなく、箪笥の隙間まできれいに磨いていく。
どれほどやっていたのか。太陽が真上に昇ったころ、墨はようやく動きを止めた。冷たい水に濡れて赤くなった手のひらを見つめる。
(……まだ唇の感触が残ってる気がする)
別れ際にかすめていった、眞白の薄い唇。その温度が、かさつきが、まだ残っている気がしたのだ。
忘れるためにも無心で屋敷の掃除をしたが、全く効果はない。むしろ何度も反芻してしまう始末である。
六つ年下とは思えないほどの色気を持っているのに、子どもらしいわがままな一面もある己の旦那様に思わずため息がもれた。
(初めてのことばかりで身がもたない)
とはいえ、彼のことばかり考えているわけにもいかない。
墨は頭を振り、無理やり別のことに思考を移した。
それにしても、と辺りを見回す。木造一階建て、しんとした冷気が漂う屋敷の一室。
「あまりにも物が少ないな」
広い屋敷なだけあって部屋数は多いが、そのどれもに空気がこもっており、家具が置かれていなかった。長い間足を踏み入れていないことは容易に想像できる。
唯一生活感を感じられたのは、昨日眞白と共に食事をした居間だけだ。墨にあてがってくれた寝床にも家具は置かれていなかったし、もしかしたら本当に居間だけで生活を完結させているのかもしれない。
そんなことが可能なのだろうか。そう思うもすぐに眞白ならできるだろう、と納得してしまう。
野菜を生のまま食べていた人だ。まだ短い付き合いだが、頓着しない性格であることは十分理解している。
ふと昨日のことを思い出して、ある考えが頭に浮かんだ。
こんな自分を知りたいと言ってくれた、しあわせにすると言ってくれた。その言葉にも、期限があるのではないだろうか。
彼が頓着しないのは、良くも悪くも全てのものに対してだろう。でなければきっと、〈首切り執行人〉でいられはしない。
そもそも、眞白との夫婦関係はお互いに利があるからこそ成り立っていることだ。片や、家族が欲しい男。片や、行く場所が無い女。
眞白は墨を尊重し、欲しい言葉をくれるだけ。
手のひらに残っていた感触が、ふっと消え失せる。
彼に本当の想い人ができたとき、形だけの妻である墨はお払い箱だ。また、何もなくなってしまう。家具すらないこの部屋のように。
(でも、そのときがくるまでは精一杯妻の役目を果たそう)
傷ありがある女の涙を、彼は拭ってくれた。それに対する感謝を示したい。
そして、必ず来るであろうその日に、笑顔で祝福してやるのだ。
墨が作った朝餉のおにぎりをしあわせそうにたいらげた眞白は、屋敷の門前で大太刀を持って蹲っていた。
「眞白様……」
「嫌、嫌だ」
蹲ったまま、いやいやと首を振る眞白。そんな彼を、墨は憐れみの目で見つめた。
「でも、そろそろ出ないと時間が……」
「嫌だ。墨さん一人残して仕事に行くなんて絶対に嫌だ。目の届くところにいてよ」
「無理ですよ。〈首切り執行人〉でないわたしは、首切り場にも入れません」
「俺が抱えてればいいんじゃないかな。……そうだ。首切り場のすぐ近くにある酒屋の奥さんは子どもを背負いながら仕事をしてたんだから、俺が駄目だってことはないよね」
「あります。それは赤ん坊だから許されてることでしょう。わたしみたいな年増を背負ってたら眞白様が変な目で見られますよ」
不満そうな色を宿した切れ長の瞳がこちらを向く。
「年増だとかは関係ないよ。俺は墨さんと離れたくないの。俺が知らない間にあなたのしあわせが見つかったらやりきれないでしょ。できるなら俺が見つけてしあわせにしたいんだ」
嘘偽りない、少年のような素直な言葉。
それを真正面から受けてしまい、墨の頬に熱が灯る。次いで、まだ慣れていない心臓の痛みに襲われた。
(少しわがままでかわいい……!)
つい眉間にしわを寄せてしまったからか、目ざとく反応した眞白が墨の顔を覗き込む。
「どうしたの、大丈夫? どこか痛い?」
「大丈夫です。何も問題ないです。元気いっぱいです」
「そんな険しい顔してるのに?」
まさか「あなたがかわいくて心臓が痛いです」なんて言えるわけもない。大丈夫、を何度も言ってどうにか切り抜ける。
(それよりも、そろそろ本当に時間がまずいんじゃ……)
昨日から始まった夫婦という関係だが、離れたくないと言ってくれるほどには気に入ってくれたようだ。悪い気はしないが、自分が原因で仕事に遅れ、眞白の信頼が失われてしまっては困る。
なんとか彼を仕事に行かせる方法はないだろうか。そう思ったとき、ふとある案が思い浮かぶ。
(本当にいけるかはわからないけど、やってみる価値はある)
墨は心配そうに眉を下げている眞白の整った顔を両手で包み込んだ。
「眞白様、」
まっすぐに彼の目を見つめて、
「いい子にお勤めへ行ってくださるなら、『いってらっしゃい』がありますよ」
「…………へ?」
「それになんと、『お帰りをお待ちしてます』もついてます」
口をぽかんと開けた眞白は、数秒後、小刻みに震えだした。
「そ、それはもしかして、帰ってきたら……」
言いたいことを理解した墨は大きくうなずく。
「もちろん、『おかえりなさい』があります」
「やっぱり!」
眞白はそう叫ぶと、名残惜しそうに墨の手に己の手を重ねた。
「嫌だけど、すっごく嫌だけど。墨さんにいってらっしゃいして欲しいから、いってくる」
「いってらっしゃい。お帰りをお待ちしてますね」
「うん」
眞白の薄い唇が、手のひらをかすめる。
艶やかなその行為に息が止まる。
「ちゃんと頑張ってきたら、また、こうして触れていい?」
「は、はい。わたしは眞白様の妻ですから」
裏返った声でどうにか告げれば、眞白は猫のように目を細めて破顔した。
何度も振り返る眞白の背中が見えなくなると、墨はふらつきながら屋敷の中に戻り、袖の広い花嫁衣裳をたくし上げた。
「…………」
棚にしまってあった雑巾を見つけ出し、水に濡らしてきつく絞る。
「…………」
そして、まるで操られている人形のように、一言も発さず掃除を始めた。床だけでなく、箪笥の隙間まできれいに磨いていく。
どれほどやっていたのか。太陽が真上に昇ったころ、墨はようやく動きを止めた。冷たい水に濡れて赤くなった手のひらを見つめる。
(……まだ唇の感触が残ってる気がする)
別れ際にかすめていった、眞白の薄い唇。その温度が、かさつきが、まだ残っている気がしたのだ。
忘れるためにも無心で屋敷の掃除をしたが、全く効果はない。むしろ何度も反芻してしまう始末である。
六つ年下とは思えないほどの色気を持っているのに、子どもらしいわがままな一面もある己の旦那様に思わずため息がもれた。
(初めてのことばかりで身がもたない)
とはいえ、彼のことばかり考えているわけにもいかない。
墨は頭を振り、無理やり別のことに思考を移した。
それにしても、と辺りを見回す。木造一階建て、しんとした冷気が漂う屋敷の一室。
「あまりにも物が少ないな」
広い屋敷なだけあって部屋数は多いが、そのどれもに空気がこもっており、家具が置かれていなかった。長い間足を踏み入れていないことは容易に想像できる。
唯一生活感を感じられたのは、昨日眞白と共に食事をした居間だけだ。墨にあてがってくれた寝床にも家具は置かれていなかったし、もしかしたら本当に居間だけで生活を完結させているのかもしれない。
そんなことが可能なのだろうか。そう思うもすぐに眞白ならできるだろう、と納得してしまう。
野菜を生のまま食べていた人だ。まだ短い付き合いだが、頓着しない性格であることは十分理解している。
ふと昨日のことを思い出して、ある考えが頭に浮かんだ。
こんな自分を知りたいと言ってくれた、しあわせにすると言ってくれた。その言葉にも、期限があるのではないだろうか。
彼が頓着しないのは、良くも悪くも全てのものに対してだろう。でなければきっと、〈首切り執行人〉でいられはしない。
そもそも、眞白との夫婦関係はお互いに利があるからこそ成り立っていることだ。片や、家族が欲しい男。片や、行く場所が無い女。
眞白は墨を尊重し、欲しい言葉をくれるだけ。
手のひらに残っていた感触が、ふっと消え失せる。
彼に本当の想い人ができたとき、形だけの妻である墨はお払い箱だ。また、何もなくなってしまう。家具すらないこの部屋のように。
(でも、そのときがくるまでは精一杯妻の役目を果たそう)
傷ありがある女の涙を、彼は拭ってくれた。それに対する感謝を示したい。
そして、必ず来るであろうその日に、笑顔で祝福してやるのだ。
