「出て行け偽物‼」
大きな屋敷の門前で、鼓膜が破けんばかりの怒号が響いた。
恰幅の良い男性はこめかみに青筋を浮かべ、顔を歪ませる。怒りの色に満ちた瞳は、門前の通りに放り出された花嫁へと向いていた。
「丸っこい瞳を持った可愛らしい十五の女が嫁に来るんじゃなかったのか! 目つきが悪いし、明らかに二十越えの行き遅れを寄越しやがって! しかも顔にでかい傷もある! ちくしょう竹屋家め、舐めやがって! 話が違うぞ!」
怒りに震える男性を見ながら、顔に傷がある黒髪の花嫁――竹屋墨は小さく息をついた。
(そりゃそうでしょ。わたしはあなたの嫁になるはずだった子の姉ですから)
本来、この場にいるのは妹の春乃だった。しかし彼女はこの結婚の話を聞いた途端、
「嫌よッ‼ 三十も離れてる男性なんて‼」
涙を流して拒絶した。
墨の生家は商いで有名な竹屋家だが、現在は財政難で使用人にも暇を出す状態である。それでもまだ資金繰りが厳しく、父親が勝手に裕福なお役人と春乃の結婚を約束したのだ。
「嫌ッ、嫌よ、絶対に嫌ッ‼ 私は三つ年上の優しくて見た目麗しい殿方に嫁ぐんだからッ!」
父と義母がどれだけ宥めても、彼女はそう言うばかりで首を縦に振らなかった。
その条件は少し厳しくないだろうか、と思いながら、つぎはぎだらけの小袖をまとった墨は春乃の前に食事を置いた。すると、彼女は潤んだ瞳を墨に向け、
「お姉様に行かせればいいじゃない‼︎」
部屋の壁が震えるほどの声でそう叫んだのだ。
「そうよ‼︎ 私のふりをしてお姉様が行けばいいのよ‼︎ どうせ顔の傷のせいで嫁のもらい手なんていないでしょ‼︎ 年上のお役人様に嫁げてよかったじゃない‼︎ お姉様だってやっと女の務めを果たせてうれしいでしょう⁉︎」
――そうして、今にいたる。
案の定身代わりがばれ、情けなくも屋敷から放り出されたというわけだ。
(……このままずっと屋敷の前にいるわけにもいかない)
夫になる予定だった男性は、鼠の子一匹すら入れないよう屋敷の門を閉めてしまった。あれだけの怒っていたのだ、泣いて縋ったところで情けをかけてくれる可能性は無いに等しい。
墨はあてもなく歩き始めた。人通りが全く無かったことは不幸中の幸いだろう。汚れた花嫁衣裳を引きずって歩く女など、目を引いてしかたない。
「……さて、これからどうしよう」
生家には帰りたくない。というか、その選択肢はなしだ。
墨が前妻の娘だからと散々奴隷のように扱ってきた家に帰るなどありえない。結婚も失敗に終わったと知られれば、昔よりひどい暴力を振るわれるだろうことは容易に想像できる。
そもそも生家までの道のりは相当距離があるため、水も食料も無い中で歩くのは不可能だろう。
冷たい空気を吸い込み、墨は悶々と思考する。
今は冬だ。せめて今夜だけでも明かせる場所を見つけなければ、行き着く先は――
(――いや、いやいやいや!)
不意に襲い来る死の恐怖。それを追い払うように墨は頭を振った。
(過程はどうあれ、やっとあの家から出てこれたんだ。何としてでも生きてやる)
今まで辛いことばかりだったのだ。ようやく自由になったのだから、必ずしあわせに……しあわせに……
(……あれ?)
「…………しあわせって、なに?」
しあわせと呼べる未来が、どうやっても墨の脳内に描かれない。
(うそだ……わたし、しあわせがどんなものかも知らないの?)
一気に体温が下がったその瞬間、
ゴッ!
重く、鈍い音が、頭の中から聞こえたような気がした。
「あ、え……?」
後頭部がやけに熱い。身体も意思に反して傾いていく。
視界の端に拳ほどの石を持った男二人が映ったことで、墨は背後から殴られたのだと理解した。が、気づいた同時に彼女の意識は途切れたのだった。
大きな屋敷の門前で、鼓膜が破けんばかりの怒号が響いた。
恰幅の良い男性はこめかみに青筋を浮かべ、顔を歪ませる。怒りの色に満ちた瞳は、門前の通りに放り出された花嫁へと向いていた。
「丸っこい瞳を持った可愛らしい十五の女が嫁に来るんじゃなかったのか! 目つきが悪いし、明らかに二十越えの行き遅れを寄越しやがって! しかも顔にでかい傷もある! ちくしょう竹屋家め、舐めやがって! 話が違うぞ!」
怒りに震える男性を見ながら、顔に傷がある黒髪の花嫁――竹屋墨は小さく息をついた。
(そりゃそうでしょ。わたしはあなたの嫁になるはずだった子の姉ですから)
本来、この場にいるのは妹の春乃だった。しかし彼女はこの結婚の話を聞いた途端、
「嫌よッ‼ 三十も離れてる男性なんて‼」
涙を流して拒絶した。
墨の生家は商いで有名な竹屋家だが、現在は財政難で使用人にも暇を出す状態である。それでもまだ資金繰りが厳しく、父親が勝手に裕福なお役人と春乃の結婚を約束したのだ。
「嫌ッ、嫌よ、絶対に嫌ッ‼ 私は三つ年上の優しくて見た目麗しい殿方に嫁ぐんだからッ!」
父と義母がどれだけ宥めても、彼女はそう言うばかりで首を縦に振らなかった。
その条件は少し厳しくないだろうか、と思いながら、つぎはぎだらけの小袖をまとった墨は春乃の前に食事を置いた。すると、彼女は潤んだ瞳を墨に向け、
「お姉様に行かせればいいじゃない‼︎」
部屋の壁が震えるほどの声でそう叫んだのだ。
「そうよ‼︎ 私のふりをしてお姉様が行けばいいのよ‼︎ どうせ顔の傷のせいで嫁のもらい手なんていないでしょ‼︎ 年上のお役人様に嫁げてよかったじゃない‼︎ お姉様だってやっと女の務めを果たせてうれしいでしょう⁉︎」
――そうして、今にいたる。
案の定身代わりがばれ、情けなくも屋敷から放り出されたというわけだ。
(……このままずっと屋敷の前にいるわけにもいかない)
夫になる予定だった男性は、鼠の子一匹すら入れないよう屋敷の門を閉めてしまった。あれだけの怒っていたのだ、泣いて縋ったところで情けをかけてくれる可能性は無いに等しい。
墨はあてもなく歩き始めた。人通りが全く無かったことは不幸中の幸いだろう。汚れた花嫁衣裳を引きずって歩く女など、目を引いてしかたない。
「……さて、これからどうしよう」
生家には帰りたくない。というか、その選択肢はなしだ。
墨が前妻の娘だからと散々奴隷のように扱ってきた家に帰るなどありえない。結婚も失敗に終わったと知られれば、昔よりひどい暴力を振るわれるだろうことは容易に想像できる。
そもそも生家までの道のりは相当距離があるため、水も食料も無い中で歩くのは不可能だろう。
冷たい空気を吸い込み、墨は悶々と思考する。
今は冬だ。せめて今夜だけでも明かせる場所を見つけなければ、行き着く先は――
(――いや、いやいやいや!)
不意に襲い来る死の恐怖。それを追い払うように墨は頭を振った。
(過程はどうあれ、やっとあの家から出てこれたんだ。何としてでも生きてやる)
今まで辛いことばかりだったのだ。ようやく自由になったのだから、必ずしあわせに……しあわせに……
(……あれ?)
「…………しあわせって、なに?」
しあわせと呼べる未来が、どうやっても墨の脳内に描かれない。
(うそだ……わたし、しあわせがどんなものかも知らないの?)
一気に体温が下がったその瞬間、
ゴッ!
重く、鈍い音が、頭の中から聞こえたような気がした。
「あ、え……?」
後頭部がやけに熱い。身体も意思に反して傾いていく。
視界の端に拳ほどの石を持った男二人が映ったことで、墨は背後から殴られたのだと理解した。が、気づいた同時に彼女の意識は途切れたのだった。
