2025年1月8日 投稿
年が明けました。年末年始の間もこの件のことが頭から離れませんでした。年越しそばを食べたはずですが、味を覚えていません。食事はしている。たぶんしている。でもこの数週間、何を食べたか具体的に思い出せることが少ない。資料のコピーを何度も読み返していました。夜中に目が覚めて、そのまま机に向かって資料を広げていることが何度かありました。桐生氏の字を読んでいると、不思議と時間の感覚がなくなります。気がつくと二時間、三時間が経っている。
元日の朝、洗面台で顔を洗って鏡を見上げたとき、奇妙な感覚がありました。水滴で曇った鏡に映る自分の顔の輪郭がぼやけている。タオルで拭いて、もう一度見ました。今度ははっきり映っている。でも一瞬、自分の顔だという確信が持てなかった。見慣れた顔のはずなのに、知らない人の顔を見ているような感覚。数秒で戻りました。正月の冷えた空気のせいだと思います。
今回は桐生氏の第四通と第五通を紹介します。最後の二通です。
第四通。平成二十二年十一月七日付、「抗議文」。宛先はs山市長。A4用紙五枚。これまでで最も長い書面です。
内容は工事による被害の詳細、市への要望が全て無視されてきた経緯、補助金の使途に関する疑義です。切実ですが、これまでの抗議文の延長上にある。宿泊者数が四割減少しても、まだ営業を続けている。この人の執念のようなものを感じます。全文を載せると長くなるので、核心部分だけ引用します。
"けれども、私は一人ではありません。山際さんも、野口さんも、藤川さんも、私と同じ思いでいてくれています。あの湖のそばで暮らしてきた者として、同じ痛みを感じてくれています。みなさんが声を上げてくれたことで、私は自分が間違っていないと思うことができました。この場所を守りたい。ただそれだけのことが、なぜこれほど難しいのか。"
市の回答はこれまでと同じ定型文。桐生氏は七年間、同じ壁に向かって声を上げ続けていたことになります。
この回の資料を読んでいるとき、奇妙なことがありました。深夜、桐生氏の文書を読んでいて、ふと気がつくと自分がノートに何か書いていました。ペンを握っている。ノートを見ると、「ここにいます」と一行だけ書いてある。自分の字です。でも書いた記憶がない。いつペンを握ったのかも覚えていない。気がついたら書いていた。
疲れているのだと思います。夜中に資料を読むのはやめたほうがいいのかもしれません。
次に第五通。平成二十五年六月二十日付。最後の「抗議文」です。A4用紙二枚。第四通が五枚だったのに対して、二枚。相変わらず、筆圧の強い、角ばった字です。全文を載せます。
"抗議文
s山市長 ████ 殿
平成二十五年三月三十一日をもって、丸子湖ホテルは廃業いたしました。
昭和五十八年の開業から三十年。私の人生のすべてをこの場所に注ぎました。その結果がこれです。
新規施設の誘致、不当な是正勧告、長年にわたる工事、そして客足の途絶。市がやってきたことの帰結です。
廃業届は提出済みです。ただし、土地と建物は私の所有であり、今後も手放すつもりはありません。この場所に、私が何をされたかの記録を残します。
山際さん。野口さん。藤川さん。みなさんには感謝しています。みなさんがいなければ、私はもっと早くに折れていたと思います。みなさんの声は、私の声でした。
平成25年6月20日 桐生誠"
三十年の全てが、この二枚に収まっている。読んでいて、何も言えなくなりました。第一通の意見書の「お願いですから、それを奪わないでください」から、ここに至るまでの八年間。最初はお願いだった。それが要望になり、抗議になり、最後は廃業の報告になった。
「この場所に、私が何をされたかの記録を残します」。これがあの看板のことだと思います。「全責任はs山市の悪政にある」。あの看板は、三十年間の最後に残したものだった。
それと、最後の段落について。桐生氏は三人の名前を一人ずつ挙げて感謝しています。この人にとって、三人の存在がどれほど大きかったかが伝わってきます。
これで、開示文書に含まれていた桐生氏の書面は全て紹介しました。平成十七年から平成二十五年までの八年間。五通の書面と、一枚の看板。それが桐生誠という人物が残したものです。
全部読み終えて、コピーの束をクリアファイルに戻しました。百枚ほどの紙の束が、テーブルの上に一つにまとまる。この中に八年間が入っている。桐生氏の八年間と、山際氏と野口氏と藤川氏の意見書と、市の定型的な回答書の繰り返しと。手に持つとずっしり重いのですが、八年間の重さに比べたら紙の重さなんて何でもない。
ただ、全てを通して読んだ後に、一つだけ心に残っていることがあります。桐生氏の最後の抗議文の最後の一文。
「みなさんの声は、私の声でした」
この一文の意味を考えました。感謝の言葉なのだと思います。自分と同じことを感じてくれた人がいた。自分の代わりに声を上げてくれた人がいた。だから「みなさんの声は、私の声だった」。そういう意味なのだと思います。
そう思うのですが、何かが引っかかります。この一文を読むと、体のどこかが反応する。感情ではなく、もっと身体的な反応。理由のわからない鳥肌。「みなさんの声は、私の声でした」。普通の感謝の表現とは少し違う気がする。なぜ「みなさんの声は、私にとって心強かった」ではなく、「私の声でした」なのか。同一視が強すぎないか。他人の声を「私の声」と言い切ることの意味は——
考えすぎだと思います。疲れているのだと思います。
次回は、この件に関する市議会の議事録を確認できたので、そちらを紹介します。市議会で丸子湖の開発計画が議論された記録があるかもしれません。
コメント欄
名無しの旅人 2025/01/08 21:30 最後の抗議文、つらいですね。三十年かけて築いたものが二枚の紙に収まってしまう。
地方行政ウォッチャー 2025/01/09 07:45 七年間にわたって同じ趣旨の回答を繰り返す行政の対応は、記録として見ると相当ひどいですね。制度として回答義務があるだけで、内容を変える気がない。
s山在住 2025/01/09 18:22 久しぶりにコメントします。桐生さんが廃業したのは聞いてましたけど、こんな経緯だったとは知りませんでした。あの抗議文の最後の一行、なんかすごく寂しいですね。
sss 2025/01/09 23:55 全部読みました。桐生さんの気持ちを考えると胸が痛いです。
管理人 2025/01/10 08:20 ここまでの資料を整理してみると、桐生氏が声を上げ続けた八年間は、行政にとっては「処理すべき案件」の一つでしかなかったのかもしれません。その非対称さがつらいです。
年が明けました。年末年始の間もこの件のことが頭から離れませんでした。年越しそばを食べたはずですが、味を覚えていません。食事はしている。たぶんしている。でもこの数週間、何を食べたか具体的に思い出せることが少ない。資料のコピーを何度も読み返していました。夜中に目が覚めて、そのまま机に向かって資料を広げていることが何度かありました。桐生氏の字を読んでいると、不思議と時間の感覚がなくなります。気がつくと二時間、三時間が経っている。
元日の朝、洗面台で顔を洗って鏡を見上げたとき、奇妙な感覚がありました。水滴で曇った鏡に映る自分の顔の輪郭がぼやけている。タオルで拭いて、もう一度見ました。今度ははっきり映っている。でも一瞬、自分の顔だという確信が持てなかった。見慣れた顔のはずなのに、知らない人の顔を見ているような感覚。数秒で戻りました。正月の冷えた空気のせいだと思います。
今回は桐生氏の第四通と第五通を紹介します。最後の二通です。
第四通。平成二十二年十一月七日付、「抗議文」。宛先はs山市長。A4用紙五枚。これまでで最も長い書面です。
内容は工事による被害の詳細、市への要望が全て無視されてきた経緯、補助金の使途に関する疑義です。切実ですが、これまでの抗議文の延長上にある。宿泊者数が四割減少しても、まだ営業を続けている。この人の執念のようなものを感じます。全文を載せると長くなるので、核心部分だけ引用します。
"けれども、私は一人ではありません。山際さんも、野口さんも、藤川さんも、私と同じ思いでいてくれています。あの湖のそばで暮らしてきた者として、同じ痛みを感じてくれています。みなさんが声を上げてくれたことで、私は自分が間違っていないと思うことができました。この場所を守りたい。ただそれだけのことが、なぜこれほど難しいのか。"
市の回答はこれまでと同じ定型文。桐生氏は七年間、同じ壁に向かって声を上げ続けていたことになります。
この回の資料を読んでいるとき、奇妙なことがありました。深夜、桐生氏の文書を読んでいて、ふと気がつくと自分がノートに何か書いていました。ペンを握っている。ノートを見ると、「ここにいます」と一行だけ書いてある。自分の字です。でも書いた記憶がない。いつペンを握ったのかも覚えていない。気がついたら書いていた。
疲れているのだと思います。夜中に資料を読むのはやめたほうがいいのかもしれません。
次に第五通。平成二十五年六月二十日付。最後の「抗議文」です。A4用紙二枚。第四通が五枚だったのに対して、二枚。相変わらず、筆圧の強い、角ばった字です。全文を載せます。
"抗議文
s山市長 ████ 殿
平成二十五年三月三十一日をもって、丸子湖ホテルは廃業いたしました。
昭和五十八年の開業から三十年。私の人生のすべてをこの場所に注ぎました。その結果がこれです。
新規施設の誘致、不当な是正勧告、長年にわたる工事、そして客足の途絶。市がやってきたことの帰結です。
廃業届は提出済みです。ただし、土地と建物は私の所有であり、今後も手放すつもりはありません。この場所に、私が何をされたかの記録を残します。
山際さん。野口さん。藤川さん。みなさんには感謝しています。みなさんがいなければ、私はもっと早くに折れていたと思います。みなさんの声は、私の声でした。
平成25年6月20日 桐生誠"
三十年の全てが、この二枚に収まっている。読んでいて、何も言えなくなりました。第一通の意見書の「お願いですから、それを奪わないでください」から、ここに至るまでの八年間。最初はお願いだった。それが要望になり、抗議になり、最後は廃業の報告になった。
「この場所に、私が何をされたかの記録を残します」。これがあの看板のことだと思います。「全責任はs山市の悪政にある」。あの看板は、三十年間の最後に残したものだった。
それと、最後の段落について。桐生氏は三人の名前を一人ずつ挙げて感謝しています。この人にとって、三人の存在がどれほど大きかったかが伝わってきます。
これで、開示文書に含まれていた桐生氏の書面は全て紹介しました。平成十七年から平成二十五年までの八年間。五通の書面と、一枚の看板。それが桐生誠という人物が残したものです。
全部読み終えて、コピーの束をクリアファイルに戻しました。百枚ほどの紙の束が、テーブルの上に一つにまとまる。この中に八年間が入っている。桐生氏の八年間と、山際氏と野口氏と藤川氏の意見書と、市の定型的な回答書の繰り返しと。手に持つとずっしり重いのですが、八年間の重さに比べたら紙の重さなんて何でもない。
ただ、全てを通して読んだ後に、一つだけ心に残っていることがあります。桐生氏の最後の抗議文の最後の一文。
「みなさんの声は、私の声でした」
この一文の意味を考えました。感謝の言葉なのだと思います。自分と同じことを感じてくれた人がいた。自分の代わりに声を上げてくれた人がいた。だから「みなさんの声は、私の声だった」。そういう意味なのだと思います。
そう思うのですが、何かが引っかかります。この一文を読むと、体のどこかが反応する。感情ではなく、もっと身体的な反応。理由のわからない鳥肌。「みなさんの声は、私の声でした」。普通の感謝の表現とは少し違う気がする。なぜ「みなさんの声は、私にとって心強かった」ではなく、「私の声でした」なのか。同一視が強すぎないか。他人の声を「私の声」と言い切ることの意味は——
考えすぎだと思います。疲れているのだと思います。
次回は、この件に関する市議会の議事録を確認できたので、そちらを紹介します。市議会で丸子湖の開発計画が議論された記録があるかもしれません。
コメント欄
名無しの旅人 2025/01/08 21:30 最後の抗議文、つらいですね。三十年かけて築いたものが二枚の紙に収まってしまう。
地方行政ウォッチャー 2025/01/09 07:45 七年間にわたって同じ趣旨の回答を繰り返す行政の対応は、記録として見ると相当ひどいですね。制度として回答義務があるだけで、内容を変える気がない。
s山在住 2025/01/09 18:22 久しぶりにコメントします。桐生さんが廃業したのは聞いてましたけど、こんな経緯だったとは知りませんでした。あの抗議文の最後の一行、なんかすごく寂しいですね。
sss 2025/01/09 23:55 全部読みました。桐生さんの気持ちを考えると胸が痛いです。
管理人 2025/01/10 08:20 ここまでの資料を整理してみると、桐生氏が声を上げ続けた八年間は、行政にとっては「処理すべき案件」の一つでしかなかったのかもしれません。その非対称さがつらいです。
