〜水沢莉央〜
……寝た。結衣が眠りについてから15分前後。中学生がしっかりと眠りにつくまでにかかる時間。
私は寝ているフリをやめて目を開け、音を立てないようにそっとベッドから降りた。
厚手のカーテンの隙間から、街の細かな明かりが差し込んでいる。隣のベッドからは、結衣の規則正しい、穏やかな呼吸音が聞こえてくる。昼間、あんなに一生懸命にお土産を選び、私に笑いかけてくれた彼女の純粋さは、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。
ごめんね、結衣。明日の朝、隣が空いていることに気づいた時のあなたの顔を想像すると、胸の奥が少しだけチクリと痛む。でも、結衣には新田くんがいる。光の中に留まれる君は、そのまま光の中で笑っていればいい。
着替えは寝る前に済ませておいた。パジャマを脱ぎ捨て、下に着ていた私服の姿で、私はドアに向けて歩き出した。机に置いていたスマホ、そして最低限の小銭をポケットに押し込み、椅子にかけていた黒いパーカーを手に取る。準備は万端。
足音を殺して、四〇二号室の重いドアを慎重に開けた。カチリ、という小さな金属音が廊下の静寂に響く。心臓が跳ねたが、結衣が起きる気配はない。
深夜二時のホテルの廊下は、昼間の喧騒が嘘のように冷え切っていた。等間隔に並ぶダウンライトが、赤い絨毯にぼんやりとした円を描いている。私はエレベーターを避け、非常階段の扉を開けた。機械的な駆動音すら、今は邪魔だった。コンクリートの階段を下りるたび、自分のスニーカーが地面を叩く音が、カウントダウンのように頭の中に響く。
一階のロビーには、夜勤のフロントスタッフが一人、パソコンの画面を眺めていた。私は自動ドアのセンサーを避け、ラウンジ側の裏口へと回る。従業員用か、あるいは清掃用か。結衣がお風呂に入っている間に確認しておいたその重い扉を押し開けると、三月の鋭い夜風が容赦なく私の髪をかき乱した。
「……寒い」
小さく漏れた吐息が、白く濁って消えていく。
深夜二時を回った街は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。アスファルトを叩く自分のスニーカーの音だけが、やけに規則正しく、そして冷ややかに鼓膜を打つ。ホテルの裏口をすり抜け、誰もいない夜の帳へと踏み出したとき、私の身体を包み込んだのは、三月の鋭い冷気だった。
三十分。ここからあの場所まで、私の足で歩いてそれくらい。
結衣と入ったホテルの部屋からの景色に、その輪郭を見つけた。その23階建てのビルは、まるで世界を垂直に切り裂く楔のように立っていた。エステートビル。私と樹が、あの日、画面越しに探し当てた「消失点」。
一歩、踏み出す。 街灯のオレンジ色の光が、私の影を長く引き延ばし、そして次の光へと手渡していく。
夜の町並みは、どこか現実味を欠いていた。立ち並ぶ閉まったシャッター、無機質な信号機の点滅、時折聞こえる遠くの風の唸り。それらすべてが、私という異物をこの世界から排除しようとしているように感じられた。
樹。 歩きながら、胸の奥でその名前を呼ぶ。
一月三十一日の深夜、彼が私の「無理をしていた『大丈夫』」を剥ぎ取ったあの瞬間。私は初めて、自分以外の誰かを、自分自身の崩壊の中に招き入れた。一人で崩れるよりも、誰かと崩れかけているほうが、少しまし。その言葉に縋って、今日まで生きてこれた。彼との心中計画は、私にとって唯一の「生」への執着だった。
けれど、今日。 そば打ち体験の最中、不格好な麺を指して「きしめんじゃん」と笑い、結衣の幸せを心から喜んでいるように見えた彼の横顔。展望広場で、沈みゆく夕陽を見つめながら、浅倉くんと静かに言葉を交わしていた背中。
……気づいてしまった。 彼は、まだ「1」を持っている。 彼は絶望しているけれど、その絶望の底で、まだ誰かの体温を求めている。私のように、自分自身を壊すことでしか自分を定義できない壊れた歯車とは違う。
彼を巻き添えにしてはいけない。
死へのカウントダウンを共有し、共犯者の光を瞳に宿してくれた彼を、私の「0」に道連れにする資格なんて、私にはない。
だから、一人で行くことにした。 三月二十日ではなく、今日。彼が隣の部屋で、死の恐怖からも絶望からも解放されて眠っている間に、私だけで終わらせる。それが、私の「1」に対する、最後で唯一の、そして最低の誠実さだ。
もしかしたら、樹は私が死んだことを知って、一人で同じ道を辿ろうとしてしまうかもしれない。でも、浅倉くんや新田くんがいればその心配は不要だろう。念の為エステートビルについてから更に手を打くことにする。
住宅街を抜け、商店街に入る。街灯の数が減り、視界の先にはっきりと、あの巨大な鉄筋の影が迫ってきた。 あと、十五分。
私の左手首。絆創膏はもう貼っていないけれど、その場所には、あの日刻んだ小さな痕跡がまだ残っている気がする。誰にも見せず、誰にも触れさせず、私一人で抱え込んできた「0」の象徴。 樹と話したあの日、私は確かに「1」になりたいと願った。誰かを信じて、裏切られる恐怖を受け入れて、それでも隣にいたいと思った。
でも、それは欲張りすぎたのだ。 私は「0」のまま終わらなきゃいけない。 誰の心にも、何も残さずに。 新田くんや結衣や浅倉くん、そして樹の中に、私の記憶が「傷」として残ってしまうことさえ、本当は許されない。
足が、少しずつ重くなる。 三月の風が、パーカーを突き抜けて肌を刺す。 それでも、歩みを止めることはできない。
不意に、今日食べた蕎麦の味が、記憶の底から蘇った。不格好で、太さがバラバラで、でも確かに私たちが自分たちの手で作ったあの味。 「美味しいね」と言い合った、あの時間の温かさ。 あれは、嘘だったのだろうか。
……ううん、嘘じゃない。 あの瞬間だけは、私は確かに笑っていた。 仮面でもなく、演技でもなく、ただ一人の女の子として、みんなと同じ場所にいた。 だからこそ、これ以上は望めない。 あんなに綺麗な思い出をもらってしまったら、私はもう「0」に戻れなくなってしまう。
胸の奥が、焼けるように熱い。三月の冷たい夜気が肺に流れ込むたびに、その熱は鋭い痛みとなって全身に広がっていく。視界が不意に歪んだ。あふれ出した涙が頬を伝い、夜のアスファルトへと落ちていく。一度決壊した感情は、もう止まってはくれなかった。
――ごめん。
心の中で、その言葉が何度も、何度も、壊れたレコードのように繰り返される。
ごめんね、樹。
あなたを裏切って。 一月三十一日のあの夜、私たちは「共犯者」になったはずだった。一人で崩れるよりも、二人で崩れかけているほうが少しましだって、そう言って笑い合ったのに。あなたを私の「1」にして、私の「0」をあなたに預けたはずだった。それなのに、私は今、一人で終わろうとしている。あなたにはまだ「明日」が残っているなんて、勝手な理由をつけて。あなたを死の恐怖から救うふりをして、本当は、一緒に奈落へ落ちる勇気が持てなかっただけかもしれない。あなたが最後に見せるかもしれない絶望の表情を見るのが、怖かっただけかもしれない。
ごめん、樹。何も言わずに、約束を破って。あなたを、また本当の「0」に突き落とすような真似をして、本当にごめん。
ごめん、結衣。
あなたの隣で笑っていた私は、あなたが信じてくれた「莉央ちゃん」は、どこまでが本当で、どこまでが作り物だったんだろう。あなたは私を「大事な1」だって言ってくれたのに。私は君の眩しさに耐えられなくて、いつも心の中で境界線を引いていた。今日の昼間に食べた、あの不格好な蕎麦の味を思い出す。結衣が笑って、新田くんが騒いで、樹が静かにそこにいて。あの瞬間、私は確かに「ここが私の居場所だ」って、ほんの一瞬だけ、馬鹿みたいに錯覚してしまった。そんなはずはないのに。私は透明な存在として、静かに消えていくはずだったのに。
ごめん、結衣。君の真っ直ぐな善意に、最後まで嘘をつき続けて。あなたがくれた温かな思い出を、勝手に「終わりの理由」にしてしまって。
ごめん、浅倉くん。君の鋭い視線から、逃げるような真似をして。 ごめん、新田くん。君の無邪気な明るさを、眩しすぎると疎んで。 ごめん。ごめん。ごめん。
「……っ、う、ああ……」
喉の奥から、抑えきれない嗚咽が漏れた。 止まらない。涙が、後悔が、謝罪の言葉が、止めどなく溢れてくる。 謝ったって、許されるはずがない。私は裏切り者だ。樹を裏切り、結衣を欺き、自分自身の「0」という決意さえも裏切ろうとしている。
このままじゃ、歩けない。 胸に詰まったこのドロドロとした感情が、足を止めてしまう。 思考を止めたい。この「1」になってしまった自分を、今すぐ引き裂いてしまいたい。
私は、ただひたすら走り出した。
静まり返った深夜の住宅街。街灯の下を、狂ったように駆け抜ける。 肺が燃えるように熱い。足の筋肉が悲鳴を上げる。でも、構わない。もっと、もっと速く。 三月の鋭い風が、涙を横へと弾き飛ばしていく。
走る衝撃が脳に響くたびに、自分の中の「思い出」を一つずつ振り落としていく。 蕎麦の粉っぽさ。夕陽に染まった展望広場。結衣の手の温かさ。樹と交わした、あの冷たくて優しい言葉。
全部、捨てなきゃいけない。 私は「0」に戻らなきゃいけないんだ。 一人で消えるためには、誰の温もりも、誰の記憶も持っていってはいけない。
心臓の鼓動が頭を殴る。 視界が火花を散らす。 それでも私は走るのをやめない。夜の闇を切り裂いて、光の届かない場所へ。 疾走する身体が、夜の冷気と混ざり合っていく。 汗と涙が混じり合い、冷たい風にさらされて、肌が感覚を失っていく。 それが、たまらなく心地よかった。
もっと速く。もっと冷たく。 自分という存在が、この街の景色の一部になって、消えてしまえばいい。 走ることでしか、この溢れ出した「人間らしさ」を鎮める方法が分からなかった。
ごめん。 これが、私の最後で最大のわがままだ。 君たちからもらった「1」を、私はここで、自分の手で完結させる。
商店街を抜け、視界が急に開ける。 建物の影が消え、冷たい月光が私を照らした。 荒い呼吸とともに、少しだけ意識が凪いでいく。 走り抜けた後の、奇妙な静寂。 胸の奥の熱は、今はもう、ただの冷徹な重りへと変わっていた。
涙は、いつの間にか止まっていた。 頬を撫でる風が、今はただの無機質な空気として通り過ぎていく。 私は、足を緩める。 膝の震えを抑え、最後の一歩を踏み出すために。
……エステートビルのエントランスが見えてきた。 深夜のオフィスビル。一階のコンビニだけが、寒々しい白光を放っている。 私は建物の周囲を回り、非常用通路の扉を探した。
二十三階。 私と樹が、図書室の隅で、あるいは木陰で密かに調べたあの高さ。 「十分だね」と言い合った、あの非人道的な確信。
あの日々が、今の私の背中を押している。 矛盾しているけれど。 樹との心中を夢見たあの日々があったからこそ、私は今、一人でここに来ることができた。
ビルの陰に入ると、風の音が唸りを上げた。 見上げれば、ビルの頂上は夜空に溶け込んでいて、どこまでが建物でどこからが闇なのか判別がつかない。
私は一歩、エントランスへと近づく。 スニーカーがタイルを擦る音が、静寂に消えた。 心臓の鼓動が、不気味なほどに静かだ。
ごめんね、樹。 あなたは明日、目が覚めたら、私を恨むだろうか。 それとも、どこかでホッとするだろうか。 どちらでもいい。 あなたが「1」のまま、この眩しい世界で生き続けてくれるなら、私は喜んで奈落の底へ「0」を返しに行く。
私は重い自動ドアに手をかけた。 ここの先に、長旅の終着点が待っている。
冷たい風が、最後にもう一度だけ私の頬を撫でた。 私は一度だけ深く、白く濁る息を吐き、光の届かない非常階段の扉の奥へ足を踏み入れた。
……寝た。結衣が眠りについてから15分前後。中学生がしっかりと眠りにつくまでにかかる時間。
私は寝ているフリをやめて目を開け、音を立てないようにそっとベッドから降りた。
厚手のカーテンの隙間から、街の細かな明かりが差し込んでいる。隣のベッドからは、結衣の規則正しい、穏やかな呼吸音が聞こえてくる。昼間、あんなに一生懸命にお土産を選び、私に笑いかけてくれた彼女の純粋さは、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。
ごめんね、結衣。明日の朝、隣が空いていることに気づいた時のあなたの顔を想像すると、胸の奥が少しだけチクリと痛む。でも、結衣には新田くんがいる。光の中に留まれる君は、そのまま光の中で笑っていればいい。
着替えは寝る前に済ませておいた。パジャマを脱ぎ捨て、下に着ていた私服の姿で、私はドアに向けて歩き出した。机に置いていたスマホ、そして最低限の小銭をポケットに押し込み、椅子にかけていた黒いパーカーを手に取る。準備は万端。
足音を殺して、四〇二号室の重いドアを慎重に開けた。カチリ、という小さな金属音が廊下の静寂に響く。心臓が跳ねたが、結衣が起きる気配はない。
深夜二時のホテルの廊下は、昼間の喧騒が嘘のように冷え切っていた。等間隔に並ぶダウンライトが、赤い絨毯にぼんやりとした円を描いている。私はエレベーターを避け、非常階段の扉を開けた。機械的な駆動音すら、今は邪魔だった。コンクリートの階段を下りるたび、自分のスニーカーが地面を叩く音が、カウントダウンのように頭の中に響く。
一階のロビーには、夜勤のフロントスタッフが一人、パソコンの画面を眺めていた。私は自動ドアのセンサーを避け、ラウンジ側の裏口へと回る。従業員用か、あるいは清掃用か。結衣がお風呂に入っている間に確認しておいたその重い扉を押し開けると、三月の鋭い夜風が容赦なく私の髪をかき乱した。
「……寒い」
小さく漏れた吐息が、白く濁って消えていく。
深夜二時を回った街は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。アスファルトを叩く自分のスニーカーの音だけが、やけに規則正しく、そして冷ややかに鼓膜を打つ。ホテルの裏口をすり抜け、誰もいない夜の帳へと踏み出したとき、私の身体を包み込んだのは、三月の鋭い冷気だった。
三十分。ここからあの場所まで、私の足で歩いてそれくらい。
結衣と入ったホテルの部屋からの景色に、その輪郭を見つけた。その23階建てのビルは、まるで世界を垂直に切り裂く楔のように立っていた。エステートビル。私と樹が、あの日、画面越しに探し当てた「消失点」。
一歩、踏み出す。 街灯のオレンジ色の光が、私の影を長く引き延ばし、そして次の光へと手渡していく。
夜の町並みは、どこか現実味を欠いていた。立ち並ぶ閉まったシャッター、無機質な信号機の点滅、時折聞こえる遠くの風の唸り。それらすべてが、私という異物をこの世界から排除しようとしているように感じられた。
樹。 歩きながら、胸の奥でその名前を呼ぶ。
一月三十一日の深夜、彼が私の「無理をしていた『大丈夫』」を剥ぎ取ったあの瞬間。私は初めて、自分以外の誰かを、自分自身の崩壊の中に招き入れた。一人で崩れるよりも、誰かと崩れかけているほうが、少しまし。その言葉に縋って、今日まで生きてこれた。彼との心中計画は、私にとって唯一の「生」への執着だった。
けれど、今日。 そば打ち体験の最中、不格好な麺を指して「きしめんじゃん」と笑い、結衣の幸せを心から喜んでいるように見えた彼の横顔。展望広場で、沈みゆく夕陽を見つめながら、浅倉くんと静かに言葉を交わしていた背中。
……気づいてしまった。 彼は、まだ「1」を持っている。 彼は絶望しているけれど、その絶望の底で、まだ誰かの体温を求めている。私のように、自分自身を壊すことでしか自分を定義できない壊れた歯車とは違う。
彼を巻き添えにしてはいけない。
死へのカウントダウンを共有し、共犯者の光を瞳に宿してくれた彼を、私の「0」に道連れにする資格なんて、私にはない。
だから、一人で行くことにした。 三月二十日ではなく、今日。彼が隣の部屋で、死の恐怖からも絶望からも解放されて眠っている間に、私だけで終わらせる。それが、私の「1」に対する、最後で唯一の、そして最低の誠実さだ。
もしかしたら、樹は私が死んだことを知って、一人で同じ道を辿ろうとしてしまうかもしれない。でも、浅倉くんや新田くんがいればその心配は不要だろう。念の為エステートビルについてから更に手を打くことにする。
住宅街を抜け、商店街に入る。街灯の数が減り、視界の先にはっきりと、あの巨大な鉄筋の影が迫ってきた。 あと、十五分。
私の左手首。絆創膏はもう貼っていないけれど、その場所には、あの日刻んだ小さな痕跡がまだ残っている気がする。誰にも見せず、誰にも触れさせず、私一人で抱え込んできた「0」の象徴。 樹と話したあの日、私は確かに「1」になりたいと願った。誰かを信じて、裏切られる恐怖を受け入れて、それでも隣にいたいと思った。
でも、それは欲張りすぎたのだ。 私は「0」のまま終わらなきゃいけない。 誰の心にも、何も残さずに。 新田くんや結衣や浅倉くん、そして樹の中に、私の記憶が「傷」として残ってしまうことさえ、本当は許されない。
足が、少しずつ重くなる。 三月の風が、パーカーを突き抜けて肌を刺す。 それでも、歩みを止めることはできない。
不意に、今日食べた蕎麦の味が、記憶の底から蘇った。不格好で、太さがバラバラで、でも確かに私たちが自分たちの手で作ったあの味。 「美味しいね」と言い合った、あの時間の温かさ。 あれは、嘘だったのだろうか。
……ううん、嘘じゃない。 あの瞬間だけは、私は確かに笑っていた。 仮面でもなく、演技でもなく、ただ一人の女の子として、みんなと同じ場所にいた。 だからこそ、これ以上は望めない。 あんなに綺麗な思い出をもらってしまったら、私はもう「0」に戻れなくなってしまう。
胸の奥が、焼けるように熱い。三月の冷たい夜気が肺に流れ込むたびに、その熱は鋭い痛みとなって全身に広がっていく。視界が不意に歪んだ。あふれ出した涙が頬を伝い、夜のアスファルトへと落ちていく。一度決壊した感情は、もう止まってはくれなかった。
――ごめん。
心の中で、その言葉が何度も、何度も、壊れたレコードのように繰り返される。
ごめんね、樹。
あなたを裏切って。 一月三十一日のあの夜、私たちは「共犯者」になったはずだった。一人で崩れるよりも、二人で崩れかけているほうが少しましだって、そう言って笑い合ったのに。あなたを私の「1」にして、私の「0」をあなたに預けたはずだった。それなのに、私は今、一人で終わろうとしている。あなたにはまだ「明日」が残っているなんて、勝手な理由をつけて。あなたを死の恐怖から救うふりをして、本当は、一緒に奈落へ落ちる勇気が持てなかっただけかもしれない。あなたが最後に見せるかもしれない絶望の表情を見るのが、怖かっただけかもしれない。
ごめん、樹。何も言わずに、約束を破って。あなたを、また本当の「0」に突き落とすような真似をして、本当にごめん。
ごめん、結衣。
あなたの隣で笑っていた私は、あなたが信じてくれた「莉央ちゃん」は、どこまでが本当で、どこまでが作り物だったんだろう。あなたは私を「大事な1」だって言ってくれたのに。私は君の眩しさに耐えられなくて、いつも心の中で境界線を引いていた。今日の昼間に食べた、あの不格好な蕎麦の味を思い出す。結衣が笑って、新田くんが騒いで、樹が静かにそこにいて。あの瞬間、私は確かに「ここが私の居場所だ」って、ほんの一瞬だけ、馬鹿みたいに錯覚してしまった。そんなはずはないのに。私は透明な存在として、静かに消えていくはずだったのに。
ごめん、結衣。君の真っ直ぐな善意に、最後まで嘘をつき続けて。あなたがくれた温かな思い出を、勝手に「終わりの理由」にしてしまって。
ごめん、浅倉くん。君の鋭い視線から、逃げるような真似をして。 ごめん、新田くん。君の無邪気な明るさを、眩しすぎると疎んで。 ごめん。ごめん。ごめん。
「……っ、う、ああ……」
喉の奥から、抑えきれない嗚咽が漏れた。 止まらない。涙が、後悔が、謝罪の言葉が、止めどなく溢れてくる。 謝ったって、許されるはずがない。私は裏切り者だ。樹を裏切り、結衣を欺き、自分自身の「0」という決意さえも裏切ろうとしている。
このままじゃ、歩けない。 胸に詰まったこのドロドロとした感情が、足を止めてしまう。 思考を止めたい。この「1」になってしまった自分を、今すぐ引き裂いてしまいたい。
私は、ただひたすら走り出した。
静まり返った深夜の住宅街。街灯の下を、狂ったように駆け抜ける。 肺が燃えるように熱い。足の筋肉が悲鳴を上げる。でも、構わない。もっと、もっと速く。 三月の鋭い風が、涙を横へと弾き飛ばしていく。
走る衝撃が脳に響くたびに、自分の中の「思い出」を一つずつ振り落としていく。 蕎麦の粉っぽさ。夕陽に染まった展望広場。結衣の手の温かさ。樹と交わした、あの冷たくて優しい言葉。
全部、捨てなきゃいけない。 私は「0」に戻らなきゃいけないんだ。 一人で消えるためには、誰の温もりも、誰の記憶も持っていってはいけない。
心臓の鼓動が頭を殴る。 視界が火花を散らす。 それでも私は走るのをやめない。夜の闇を切り裂いて、光の届かない場所へ。 疾走する身体が、夜の冷気と混ざり合っていく。 汗と涙が混じり合い、冷たい風にさらされて、肌が感覚を失っていく。 それが、たまらなく心地よかった。
もっと速く。もっと冷たく。 自分という存在が、この街の景色の一部になって、消えてしまえばいい。 走ることでしか、この溢れ出した「人間らしさ」を鎮める方法が分からなかった。
ごめん。 これが、私の最後で最大のわがままだ。 君たちからもらった「1」を、私はここで、自分の手で完結させる。
商店街を抜け、視界が急に開ける。 建物の影が消え、冷たい月光が私を照らした。 荒い呼吸とともに、少しだけ意識が凪いでいく。 走り抜けた後の、奇妙な静寂。 胸の奥の熱は、今はもう、ただの冷徹な重りへと変わっていた。
涙は、いつの間にか止まっていた。 頬を撫でる風が、今はただの無機質な空気として通り過ぎていく。 私は、足を緩める。 膝の震えを抑え、最後の一歩を踏み出すために。
……エステートビルのエントランスが見えてきた。 深夜のオフィスビル。一階のコンビニだけが、寒々しい白光を放っている。 私は建物の周囲を回り、非常用通路の扉を探した。
二十三階。 私と樹が、図書室の隅で、あるいは木陰で密かに調べたあの高さ。 「十分だね」と言い合った、あの非人道的な確信。
あの日々が、今の私の背中を押している。 矛盾しているけれど。 樹との心中を夢見たあの日々があったからこそ、私は今、一人でここに来ることができた。
ビルの陰に入ると、風の音が唸りを上げた。 見上げれば、ビルの頂上は夜空に溶け込んでいて、どこまでが建物でどこからが闇なのか判別がつかない。
私は一歩、エントランスへと近づく。 スニーカーがタイルを擦る音が、静寂に消えた。 心臓の鼓動が、不気味なほどに静かだ。
ごめんね、樹。 あなたは明日、目が覚めたら、私を恨むだろうか。 それとも、どこかでホッとするだろうか。 どちらでもいい。 あなたが「1」のまま、この眩しい世界で生き続けてくれるなら、私は喜んで奈落の底へ「0」を返しに行く。
私は重い自動ドアに手をかけた。 ここの先に、長旅の終着点が待っている。
冷たい風が、最後にもう一度だけ私の頬を撫でた。 私は一度だけ深く、白く濁る息を吐き、光の届かない非常階段の扉の奥へ足を踏み入れた。
