『Friends』 〜 一年間の黙示録 〜

〜水沢莉央〜


午後の光が石畳の上に長い影を落としている。観光客の喧騒が遠くで波のように引いては返し、時折、土産物屋の軒先に吊るされた風鈴が、季節外れの、けれど澄んだ音を鳴らしていた。 私は隣を歩く結衣の歩幅に合わせて、ゆっくりと坂道を下る。
「……莉央ちゃん、見て。あの根付、すごく可愛い」
結衣が足を止めたのは、古びた木造の雑貨屋の前だった。彼女の指差す先には、小さな狐の面を模したガラス細工が並んでいる。淡い橙色の光を透かして、それはまるで生きているかのように艶やかに輝いていた。
「本当だね。結衣に似合いそう」
「え、私? どちらかというと……新田くんとかが好きそうかなって」
結衣は少しだけ照れくさそうに笑い、それから愛おしそうにその小さなガラス細工を見つめた。
彼女の表情は、六月に初めて会った頃とは劇的に変わっている。あの頃の、どこか怯えるように周囲を伺っていた彼女はもういない。
自分の「好き」を素直に口にし、誰かを信じることの熱を知った人の顔だ。

...それは、私という住人から見れば、あまりにも眩しすぎる光景だった。
「……そっか。新田なら、きっと大喜びで鞄につけるだろうね」
私はいつものように、柔らかく目を細めて微笑む。 誰に対しても同じ距離で、同じ角度で、完璧に調整された振る舞い。それを維持している限り、私の領域は守られる。誰にも踏み込ませず、誰も特別にしない。その境界線こそが、私がこの世界で息をするための唯一の手段だった。

けれど、結衣はときどき、その境界線のすぐそばまで無邪気に歩み寄ってくる。
「莉央ちゃん。……ありがとう」
不意に、結衣が私の目を見て言った。その瞳には、一点の曇りもない信頼が宿っている。
「何が?」
「……私、莉央が隣にいてくれたから、ここまで歩いてこれた気がするの。新田くんへの気持ちも、自分自身のことも。莉央が、私のペースをずっと守ってくれたから」
胸の奥が、冷たい針で突かれたようにチクりと痛んだ。
結衣は知らない。
私が彼女の隣にいたのは、彼女を守りたかったからじゃない。

ただ、彼女の無垢な輝きを眺めることで、自分の中にある空虚を誤魔化そうとしていただけだ。

そして―― 一月三十一日のあの日、私が樹という唯一の「1」を手に入れてしまったことも。

あの深夜。画面越しに樹と交わした言葉が、私の「0」を壊してしまった。
『弱音を言える相手を選んだ時点で、もう0じゃない』 樹が放ったその言葉に射抜かれ、私は初めて、一人で崩れるよりも誰かと崩れかけている方が「まし」だと思えるようになった。
私にとって、樹は世界でたった一人の例外であり、唯一の「1」だ。

けれど、それ以外の全てに対しては、私の警戒は一ミリも解けていない。
結衣に対しても、浅倉くんに対しても、私は依然として「誰にでも優しい水沢莉央」という壁を隔てて接している。
この「1」という数字は、まだ誰にも公開していない、私と樹だけの密やかな契約。

「……結衣は、自分の力で歩いたんだよ。私は、ただ横にいただけ」
私は努めて平坦な声で返す。嘘ではない。私はいつだって、ただの傍観者でありたかった。
私たちは店を離れ、さらに細い路地へと入り込む。 修学旅行という名の人道的な茶番劇も、あと少しで終わる。この街の美しい風景も、友人たちの笑い声も、私にとってはすべて三月二十日という「長旅の終わりの景色」に過ぎない。

「……あ、樹くんたち」
結衣が指差す先。 川向こうの橋の上を、樹と浅倉くんが並んで歩いているのが見えた。 浅倉くんは熱心にカメラを構え、樹はいつもの冷めた瞳で、けれど心なしか穏やかな表情で景色を眺めている。
目が合った。
距離があるから、表情までははっきり見えない。 けれど、私にはわかる。 樹の瞳の奥にある、私だけが知っている「共犯者」の光。

――あと少し。

私たちは、この穏やかな茶番劇を最後まで演じきる。
誰にも悟られず、誰にも邪魔されず。
「1」という唯一の拠り所を握りしめたまま、二人で静かに幕を下ろす。

「みんなで合流して、向こうのアイス食べない?」
結衣が私の手を引く。 三月の陽光が、彼女の背中をキラキラと照らしている。 私はその光に目を細めながら、しっかりと彼女の手を握り返した。