〜立花結衣〜
莉央の声は、いつも通り軽いのに、逃げ道を塞ぐみたいにまっすぐだった。
私は一瞬、言葉に詰まる。
「……今から?」
「今じゃなきゃ、いつやるの」
間髪入れずに返される。正論すぎて、何も言えない。
さっきまでの出来事で、頭の中はまだ少しだけざわついている。でも、その奥で、別の感情がゆっくりと顔を出している。
――渡すか、渡さないか。
さっきまで曖昧にしていたことが、急に現実味を帯びる。
「……いるかな」
小さく呟く。
「この時間なら、まだ残ってるんじゃない?」
莉央はあっさり言う。
その言い方は、どこか確信があるみたいで、少しだけ安心する。
「行く?」
視線を向けられる。
私はほんの少し迷ってから、頷いた。
「……行こう」
その一言で、何かが決まる。
引き返せるラインを、静かに越えた気がした。
校門をくぐると、放課後の空気が広がっていた。完全に人がいなくなる前の、少しだけ緩んだ時間。部活の声や、遠くの笑い声が、まばらに聞こえる。
隣を歩く莉央は、特に何も言わない。
それが逆に、ありがたい。
言葉をかけられたら、たぶん余計に緊張していた。
昇降口を抜けて、廊下に入る。
足音が、少しだけ大きく響く。
心臓の音と重なって、妙に意識に残る。
「……いた」
莉央が小さく言う。
視線の先。
教室の前、窓際。
新田くんと、浅倉くん、それから永瀬くんが話しているのが見える。
いつも通りの距離感。特別なことなんて、何もないみたいに見える。
でも、私にとっては、今からが違う。
足が、少しだけ止まる。
それを、莉央が軽く押すように言う。
「行きなよ」
「……うん」
一歩、踏み出す。
その瞬間、莉央がふっと横にずれた。
「え」
振り返ると、もう一歩、二歩と距離を取っている。
「じゃ、頑張って」
さらっと言う。
「え、ちょっと」
「大丈夫でしょ。ていうかいる方が辛くない?」
軽く手を振る。
「頑張れ」
その言葉だけ残して、壁際に寄る。
完全に、“一人で行け”の形。
逃げ場が、なくなる。
……でも、それでいい。
「浅倉」
永瀬くんが、ふいに声をかける。
「ん?」
浅倉くんが顔を上げる。
その視線が、私を捉えるよりもほんの少し早く、
「ちょっと来て」
永瀬くんは浅倉くんの腕を軽く引いた。
「え、なに」
「いいから。新田はここにいな」
一瞬だけ、浅倉くんがこちらを見る。
何かを察したような、でも深くは触れない視線。
音が、やけに静かに響いた。
残されたのは――私と、新田くん。
心臓が、一気に近くなる。
「……結衣?」
新田くんが、少し驚いたように言う。
「どうした?」
いつも通りの声。
その“いつも通り”が、少しだけ怖い。
私は、手に持っていた小さな袋を握り直す。
「えっと……」
言葉がうまく出てこない。
頭の中で何度も考えたはずなのに、全部どこかにいってしまう。
新田くんは、黙って待っている。
急かさない。
その静けさが、逆にありがたい。
「……あの」
一度、息を吸う。
逃げない。決めたから。
「これ」
袋を差し出す。
少しだけ震えているのが、自分でもわかる。
「バレンタイン、だから」
それだけ言う。
それ以上の言葉は、今は要らない気がした。
新田くんは、一瞬だけ目を見開く。
それから、ゆっくりと笑った。
「……ありがとな」
その声は、思っていたよりもずっと柔らかい。
受け取られる。
ちゃんと。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
「開けていい?」
「え、今?」
「だめ?」
少しだけ冗談っぽく言われて、思わず小さく笑う。
「……いいよ」
頷く。新田くんは袋を開けて、中を確認する。
「お、ちゃんとしてるじゃん」
「どういう意味?」
「いや、なんか結衣っぽいなって」
そう言って笑う。
その言葉に、少しだけ救われる。
「……迷ったけどね」
ぽつりと漏れる。
「渡すかどうか」
新田くんは少しだけ首をかしげる。
「なんで」
「いろいろあって」
曖昧にする。
全部を言う必要はない。
今は、この瞬間だけでいい。
「でも、渡してよかった」
そう続けると、
「そりゃよかった」
新田くんはあっさり言う。
その軽さが、ちょうどいい。
重くならない。
無理に意味を持たせない。
ただ、今のやり取りだけが、そこにある。
「ホワイトデー、期待していい?」
少しだけ意地悪に言ってみる。
「どうだろうな」
「え」
「まあ、ちゃんと考える」
笑いながら言う。
その曖昧さも、嫌じゃない。
全部決まっていないほうが、自然だから。
少しの沈黙。
でも、さっきまでとは違って、重くない。
「じゃあ、私行くね」
「おう」
短く返ってくる。
それで十分。
教室を出ると、少し離れたところに莉央がいるのが見える。
壁にもたれて、こちらを見ている。
目が合うと、ほんの少しだけ笑った。
私は小さく息を吐く。
肩の力が、抜ける。
さっきまでの不安も、迷いも、全部どこかに薄れていく。
――渡せた。
それだけで、今日は十分だと思った。
廊下の窓から差し込む光が、少しだけ柔らかくなっている。
バレンタイン。
特別な一日。
でも、終わってみれば、ただのひとつの出来事。
だけど、それでも、その“ひとつ”は、ちゃんと自分の中に残るから。
私は莉央のほうへ歩き出す。
もう迷いはない。
静かに、でも確かに。
また少し、前に進めた気がした。
莉央の声は、いつも通り軽いのに、逃げ道を塞ぐみたいにまっすぐだった。
私は一瞬、言葉に詰まる。
「……今から?」
「今じゃなきゃ、いつやるの」
間髪入れずに返される。正論すぎて、何も言えない。
さっきまでの出来事で、頭の中はまだ少しだけざわついている。でも、その奥で、別の感情がゆっくりと顔を出している。
――渡すか、渡さないか。
さっきまで曖昧にしていたことが、急に現実味を帯びる。
「……いるかな」
小さく呟く。
「この時間なら、まだ残ってるんじゃない?」
莉央はあっさり言う。
その言い方は、どこか確信があるみたいで、少しだけ安心する。
「行く?」
視線を向けられる。
私はほんの少し迷ってから、頷いた。
「……行こう」
その一言で、何かが決まる。
引き返せるラインを、静かに越えた気がした。
校門をくぐると、放課後の空気が広がっていた。完全に人がいなくなる前の、少しだけ緩んだ時間。部活の声や、遠くの笑い声が、まばらに聞こえる。
隣を歩く莉央は、特に何も言わない。
それが逆に、ありがたい。
言葉をかけられたら、たぶん余計に緊張していた。
昇降口を抜けて、廊下に入る。
足音が、少しだけ大きく響く。
心臓の音と重なって、妙に意識に残る。
「……いた」
莉央が小さく言う。
視線の先。
教室の前、窓際。
新田くんと、浅倉くん、それから永瀬くんが話しているのが見える。
いつも通りの距離感。特別なことなんて、何もないみたいに見える。
でも、私にとっては、今からが違う。
足が、少しだけ止まる。
それを、莉央が軽く押すように言う。
「行きなよ」
「……うん」
一歩、踏み出す。
その瞬間、莉央がふっと横にずれた。
「え」
振り返ると、もう一歩、二歩と距離を取っている。
「じゃ、頑張って」
さらっと言う。
「え、ちょっと」
「大丈夫でしょ。ていうかいる方が辛くない?」
軽く手を振る。
「頑張れ」
その言葉だけ残して、壁際に寄る。
完全に、“一人で行け”の形。
逃げ場が、なくなる。
……でも、それでいい。
「浅倉」
永瀬くんが、ふいに声をかける。
「ん?」
浅倉くんが顔を上げる。
その視線が、私を捉えるよりもほんの少し早く、
「ちょっと来て」
永瀬くんは浅倉くんの腕を軽く引いた。
「え、なに」
「いいから。新田はここにいな」
一瞬だけ、浅倉くんがこちらを見る。
何かを察したような、でも深くは触れない視線。
音が、やけに静かに響いた。
残されたのは――私と、新田くん。
心臓が、一気に近くなる。
「……結衣?」
新田くんが、少し驚いたように言う。
「どうした?」
いつも通りの声。
その“いつも通り”が、少しだけ怖い。
私は、手に持っていた小さな袋を握り直す。
「えっと……」
言葉がうまく出てこない。
頭の中で何度も考えたはずなのに、全部どこかにいってしまう。
新田くんは、黙って待っている。
急かさない。
その静けさが、逆にありがたい。
「……あの」
一度、息を吸う。
逃げない。決めたから。
「これ」
袋を差し出す。
少しだけ震えているのが、自分でもわかる。
「バレンタイン、だから」
それだけ言う。
それ以上の言葉は、今は要らない気がした。
新田くんは、一瞬だけ目を見開く。
それから、ゆっくりと笑った。
「……ありがとな」
その声は、思っていたよりもずっと柔らかい。
受け取られる。
ちゃんと。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
「開けていい?」
「え、今?」
「だめ?」
少しだけ冗談っぽく言われて、思わず小さく笑う。
「……いいよ」
頷く。新田くんは袋を開けて、中を確認する。
「お、ちゃんとしてるじゃん」
「どういう意味?」
「いや、なんか結衣っぽいなって」
そう言って笑う。
その言葉に、少しだけ救われる。
「……迷ったけどね」
ぽつりと漏れる。
「渡すかどうか」
新田くんは少しだけ首をかしげる。
「なんで」
「いろいろあって」
曖昧にする。
全部を言う必要はない。
今は、この瞬間だけでいい。
「でも、渡してよかった」
そう続けると、
「そりゃよかった」
新田くんはあっさり言う。
その軽さが、ちょうどいい。
重くならない。
無理に意味を持たせない。
ただ、今のやり取りだけが、そこにある。
「ホワイトデー、期待していい?」
少しだけ意地悪に言ってみる。
「どうだろうな」
「え」
「まあ、ちゃんと考える」
笑いながら言う。
その曖昧さも、嫌じゃない。
全部決まっていないほうが、自然だから。
少しの沈黙。
でも、さっきまでとは違って、重くない。
「じゃあ、私行くね」
「おう」
短く返ってくる。
それで十分。
教室を出ると、少し離れたところに莉央がいるのが見える。
壁にもたれて、こちらを見ている。
目が合うと、ほんの少しだけ笑った。
私は小さく息を吐く。
肩の力が、抜ける。
さっきまでの不安も、迷いも、全部どこかに薄れていく。
――渡せた。
それだけで、今日は十分だと思った。
廊下の窓から差し込む光が、少しだけ柔らかくなっている。
バレンタイン。
特別な一日。
でも、終わってみれば、ただのひとつの出来事。
だけど、それでも、その“ひとつ”は、ちゃんと自分の中に残るから。
私は莉央のほうへ歩き出す。
もう迷いはない。
静かに、でも確かに。
また少し、前に進めた気がした。
