〜立花結衣〜
誰も気づいていないけれど、私はあれを知っている。私はあの現場を目撃している。
――え、結衣? いやいや。冗談でしょ?
――あの子のちょっとはいいとこあるしれないけど、地味じゃん!
――絶対そのうち飽きるって!
――は?どこがいいの?あんなの、目立たないし、取り柄もないし。
...遠山楓理さん。賑やかで、元気で、少し変わった人だとは思っていたけれど、私はあの時怖くてたまらなかった。
稀に、あまり話さない人が私の陰口を言っているのはたまに耳にしたけれど、話す人にここまで言われた経験は、今までに一度もなかった。最初は、新田くんが周りの空気に流されてしまうんじゃないかと、胸の奥がひどく冷えた。
笑って、適当に相槌を打って、何事もなかったみたいにやり過ごしてしまうのかもしれない、と。
そうなったとしても責められない、と頭では分かっていたのに、どこかで勝手に期待している自分がいて、それが怖かった。
けれど、彼は違った。
少しだけ間を置いて、それから、はっきりとした声で「やめろ」と言った。普段よりも顔が真剣で、私はその時初めてそんな新田くんを見た。軽く笑って受け流すこともできたはずなのに、そうしなかったこと。その選び方が、静かに胸に残った。
救われた、という言葉は大げさかもしれない。それでも、あの瞬間、確かに私はひとりじゃなかった。張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけて、呼吸がしやすくなったのを覚えている。
彼がいてくれて、本当に、良かった。
一週間ほど前、新田くんと過ごしたあの時間は、今も静かに私の中に息づいている。思い出そうとしなくても、ふとした拍子に輪郭を持って浮かび上がる。触れれば消えてしまいそうなのに、確かにそこにある感触。まるで、指先に残る微かな温度みたいに。
――あのときの私は、ちゃんと私だっただろうか。
問いかけても、明確な答えは返ってこない。ただ、あの時間の中で交わした視線や言葉の断片が、やわらかく胸の奥に沈んでいるだけ。それで充分な気もしているし、どこか物足りない気もしている。完璧じゃなくていい、と頭では分かっているのに、どうしても少しだけ欲張りになる。もう少しだけ、近づけたんじゃないか。もう一歩だけ、踏み込めたんじゃないか。そんな“もしも”が、静かに揺れている。
でも――
あの日の空気は、嘘がなかった。
それだけは、はっきりと言える。
昼休み。チャイムの余韻が、まだ校舎のどこかに残っている。ざわめきはあるのに、不思議と輪郭のぼやけた時間。私は窓際に立って、グラウンドをぼんやりと見下ろしていた。春の光が白くて、少しだけ眩しい。振り向いた廊下側の視界の端には、また違う人の流れが映る。
――いる。
意識するよりも先に、見つけてしまう。見慣れた後ろ姿。歩き方で、もう分かるようになってしまったことが、少しだけ可笑しい。胸の奥が、静かに揺れる。
――どうする?
問いは、前よりも軽い。以前なら、そのまま視線を逸らしていたはずだ。気づかなかったふりをして、やり過ごしていたはず。
でも今日は。
ほんの少しだけ、違う。足が、自然に動く。考えるより先に、一歩分だけ距離を詰める。その“たった一歩”が、こんなにもはっきりと自覚できることに、少し驚く。
「新田くん」
呼んだ声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼が振り向く。一瞬の間。それから、いつもの少し無防備な表情に戻る。
「あ、結衣」
名前を呼ばれる。それだけで、空気がわずかに変わる気がするのは、きっと気のせいじゃない。
「珍しいじゃん。どうした?」
軽い調子。でも、その奥にある温度を、私はもう少しだけ知っている気がする。
「ううん、ちょっと見かけたから声掛けただけ」
言葉は平静。でも、心の奥はほんの少しだけ速く動いている。
「そっか」
彼はそれ以上踏み込まず、隣に並ぶ。歩幅が自然と揃う。この“自然さ”が、少しだけ嬉しい。
廊下の窓から差し込む光が、床に細長く伸びている。その上を、私たちはゆっくりと歩く。
沈黙が、怖くない。
それが、前と違う。
「この前さ」
ふと、彼が口を開く。
「楽しかったな」
短い言葉。だけど、不思議と重みがある。胸の奥が、静かにほどける。
「……うん、私も」
声は小さくなったけれど、確かに届いた感覚があった。
それ以上、何かを付け足す必要はない気がした。あの日のことを細かくなぞるより、この一言のほうが、ずっと正確に全部を含んでいる気がするから。
彼は少しだけ視線を前に戻して、続ける。
「なんかさ、結衣といると、変に気使わなくていいっていうか」
少し言葉を探すような間。
「……楽なんだよな」
その言い方が、少しだけ不器用で、でも真っ直ぐで。
胸が、きゅっと締まる。
“楽”という言葉の中に、どれだけの意味が含まれているのか、考えすぎるのはよくないと分かっている。それでも、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「それ、褒めてる?」
ほんの少しだけ、冗談めかして聞いてみる。
彼は一瞬だけこちらを見て、笑う。
「めちゃくちゃ褒めてる」
その即答に、不意を突かれる。
「そっか」
それ以上、うまく言葉が続かない。でも、それでいい気がした。
廊下の先が、ゆるやかに明るくなる。人の気配が少しずつ増えていく。
この時間が、終わりに近づいていることを、どこかで感じる。
――もう少しだけ。
そんな気持ちが、心の奥に静かに浮かぶ。
でも、それを無理に引き止めることはしない。
「またさ」
彼が軽く言う。
「時間合ったら、どっか行こうぜ」
さりげない言葉。だけど、逃さないように大事に受け取る。
「うん」
今度は、迷わずに頷けた。
「私も、行きたい」
言えた。
ほんの少し前の私なら、飲み込んでいたかもしれない言葉。
それをちゃんと外に出せたことが、自分でも分かる。
一瞬、視線が重なる。
長くはない。でも、確かに何かが通った感覚。
「じゃ、俺こっちだから」
彼が軽く手を上げる。
「うん、またね」
背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
追いかけることはしない。ただ、その背中を目で追う。
完全に見えなくなるまでではなく、少し見えなくなったところで、そっと視線を外す。
――これでいい。
胸の奥で、小さく思う。
大きな変化なんてない。劇的な何かが起きたわけでもない。でも、確かに少しだけ前に進んでいる。
窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけやわらいで見える。
怖さがなくなったわけじゃない。今でも、踏み出す瞬間には少しだけ躊躇いがある。
それでも。
怖さと一緒に、進めるようになってきている。
あの日の余韻は、まだ消えていない。でも、それに縋るのではなく、ちゃんと今の自分の足で立っている感覚がある。
指先に残る温度を確かめるみたいに、私はそっと胸の奥に触れる。
――次は、もう少しだけ。
私らしい早さで。
ゆっくりと、でも確かに。
前に進んでいく。
誰も気づいていないけれど、私はあれを知っている。私はあの現場を目撃している。
――え、結衣? いやいや。冗談でしょ?
――あの子のちょっとはいいとこあるしれないけど、地味じゃん!
――絶対そのうち飽きるって!
――は?どこがいいの?あんなの、目立たないし、取り柄もないし。
...遠山楓理さん。賑やかで、元気で、少し変わった人だとは思っていたけれど、私はあの時怖くてたまらなかった。
稀に、あまり話さない人が私の陰口を言っているのはたまに耳にしたけれど、話す人にここまで言われた経験は、今までに一度もなかった。最初は、新田くんが周りの空気に流されてしまうんじゃないかと、胸の奥がひどく冷えた。
笑って、適当に相槌を打って、何事もなかったみたいにやり過ごしてしまうのかもしれない、と。
そうなったとしても責められない、と頭では分かっていたのに、どこかで勝手に期待している自分がいて、それが怖かった。
けれど、彼は違った。
少しだけ間を置いて、それから、はっきりとした声で「やめろ」と言った。普段よりも顔が真剣で、私はその時初めてそんな新田くんを見た。軽く笑って受け流すこともできたはずなのに、そうしなかったこと。その選び方が、静かに胸に残った。
救われた、という言葉は大げさかもしれない。それでも、あの瞬間、確かに私はひとりじゃなかった。張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけて、呼吸がしやすくなったのを覚えている。
彼がいてくれて、本当に、良かった。
一週間ほど前、新田くんと過ごしたあの時間は、今も静かに私の中に息づいている。思い出そうとしなくても、ふとした拍子に輪郭を持って浮かび上がる。触れれば消えてしまいそうなのに、確かにそこにある感触。まるで、指先に残る微かな温度みたいに。
――あのときの私は、ちゃんと私だっただろうか。
問いかけても、明確な答えは返ってこない。ただ、あの時間の中で交わした視線や言葉の断片が、やわらかく胸の奥に沈んでいるだけ。それで充分な気もしているし、どこか物足りない気もしている。完璧じゃなくていい、と頭では分かっているのに、どうしても少しだけ欲張りになる。もう少しだけ、近づけたんじゃないか。もう一歩だけ、踏み込めたんじゃないか。そんな“もしも”が、静かに揺れている。
でも――
あの日の空気は、嘘がなかった。
それだけは、はっきりと言える。
昼休み。チャイムの余韻が、まだ校舎のどこかに残っている。ざわめきはあるのに、不思議と輪郭のぼやけた時間。私は窓際に立って、グラウンドをぼんやりと見下ろしていた。春の光が白くて、少しだけ眩しい。振り向いた廊下側の視界の端には、また違う人の流れが映る。
――いる。
意識するよりも先に、見つけてしまう。見慣れた後ろ姿。歩き方で、もう分かるようになってしまったことが、少しだけ可笑しい。胸の奥が、静かに揺れる。
――どうする?
問いは、前よりも軽い。以前なら、そのまま視線を逸らしていたはずだ。気づかなかったふりをして、やり過ごしていたはず。
でも今日は。
ほんの少しだけ、違う。足が、自然に動く。考えるより先に、一歩分だけ距離を詰める。その“たった一歩”が、こんなにもはっきりと自覚できることに、少し驚く。
「新田くん」
呼んだ声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼が振り向く。一瞬の間。それから、いつもの少し無防備な表情に戻る。
「あ、結衣」
名前を呼ばれる。それだけで、空気がわずかに変わる気がするのは、きっと気のせいじゃない。
「珍しいじゃん。どうした?」
軽い調子。でも、その奥にある温度を、私はもう少しだけ知っている気がする。
「ううん、ちょっと見かけたから声掛けただけ」
言葉は平静。でも、心の奥はほんの少しだけ速く動いている。
「そっか」
彼はそれ以上踏み込まず、隣に並ぶ。歩幅が自然と揃う。この“自然さ”が、少しだけ嬉しい。
廊下の窓から差し込む光が、床に細長く伸びている。その上を、私たちはゆっくりと歩く。
沈黙が、怖くない。
それが、前と違う。
「この前さ」
ふと、彼が口を開く。
「楽しかったな」
短い言葉。だけど、不思議と重みがある。胸の奥が、静かにほどける。
「……うん、私も」
声は小さくなったけれど、確かに届いた感覚があった。
それ以上、何かを付け足す必要はない気がした。あの日のことを細かくなぞるより、この一言のほうが、ずっと正確に全部を含んでいる気がするから。
彼は少しだけ視線を前に戻して、続ける。
「なんかさ、結衣といると、変に気使わなくていいっていうか」
少し言葉を探すような間。
「……楽なんだよな」
その言い方が、少しだけ不器用で、でも真っ直ぐで。
胸が、きゅっと締まる。
“楽”という言葉の中に、どれだけの意味が含まれているのか、考えすぎるのはよくないと分かっている。それでも、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「それ、褒めてる?」
ほんの少しだけ、冗談めかして聞いてみる。
彼は一瞬だけこちらを見て、笑う。
「めちゃくちゃ褒めてる」
その即答に、不意を突かれる。
「そっか」
それ以上、うまく言葉が続かない。でも、それでいい気がした。
廊下の先が、ゆるやかに明るくなる。人の気配が少しずつ増えていく。
この時間が、終わりに近づいていることを、どこかで感じる。
――もう少しだけ。
そんな気持ちが、心の奥に静かに浮かぶ。
でも、それを無理に引き止めることはしない。
「またさ」
彼が軽く言う。
「時間合ったら、どっか行こうぜ」
さりげない言葉。だけど、逃さないように大事に受け取る。
「うん」
今度は、迷わずに頷けた。
「私も、行きたい」
言えた。
ほんの少し前の私なら、飲み込んでいたかもしれない言葉。
それをちゃんと外に出せたことが、自分でも分かる。
一瞬、視線が重なる。
長くはない。でも、確かに何かが通った感覚。
「じゃ、俺こっちだから」
彼が軽く手を上げる。
「うん、またね」
背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
追いかけることはしない。ただ、その背中を目で追う。
完全に見えなくなるまでではなく、少し見えなくなったところで、そっと視線を外す。
――これでいい。
胸の奥で、小さく思う。
大きな変化なんてない。劇的な何かが起きたわけでもない。でも、確かに少しだけ前に進んでいる。
窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけやわらいで見える。
怖さがなくなったわけじゃない。今でも、踏み出す瞬間には少しだけ躊躇いがある。
それでも。
怖さと一緒に、進めるようになってきている。
あの日の余韻は、まだ消えていない。でも、それに縋るのではなく、ちゃんと今の自分の足で立っている感覚がある。
指先に残る温度を確かめるみたいに、私はそっと胸の奥に触れる。
――次は、もう少しだけ。
私らしい早さで。
ゆっくりと、でも確かに。
前に進んでいく。
