〜永瀬樹〜
昼休みと午後のあいだに挟まれた、短い休み時間。教室の空気は少しだけ弛緩していて、けれど完全にはほどけきらない、そんな曖昧な温度をしている。僕は窓際の自分の席で、開きかけの本に視線を落としたまま、ページをめくるでもなく時間をやり過ごしていた。
視界の端で、水沢さんが席を立つのが見える。
いつも通りの動き。少しだけ軽やかで、無駄がない。誰が見ても「普通」に見える振る舞い。——ここまで来ると、逆に目についてしまう。
「珍しいね、ぼーっとしてるの」
顔を上げると、彼女が机の横に立っていた。
「そっちこそ。わざわざ来るなんて」
「暇だったから」
即答。間がない。僕は本を閉じて、机の上に置いた。
「さっき立花さんどこいったの?」
「委員会の人に呼ばれてた。すぐ戻ると思うけど」
そう言いながら、水沢さんは何気なく自分の左手を机に置いた。視線が、そこに落ちる。
小さな絆創膏。端が少しだけ浮いている。
「……それ」
僕が指で示すと、水沢さんは一瞬だけ視線を逸らして、それからすぐにいつもの顔に戻った。
「ああ、これ? 授業中にちょっとね。コンパスで」
軽い調子。何でもないことのように。
「つい、ってやつ」
「へえ」
僕は短く相槌を打つ。
その“つい”が、どれくらいの強さで、どんなタイミングで起きたものなのか。考えるまでもなく、答えは出ている。
「水沢さんが、授業中にそんなミスするんだ」
少しだけ間を置いてから言うと、彼女は肩をすくめた。
「たまにはあるよ。人間だし」
「そうだね」
否定はしない。ただ、そのまま受け取る気もない。教室の奥で誰かが笑っている。椅子を引く音が、やけに響く。
「……で?」
水沢さんが先に口を開いた。
「何、その言い方」
「別に」
僕は椅子の背にもたれかかる。
「嘘だな、と思っただけ」
一拍。
ほんのわずかに、彼女の表情が止まる。けれどそれも一瞬で、すぐに崩れる。いつもの、少しだけ茶化すような笑みに。
「ひど。決めつけ?」
「観察」
「やな趣味」
「情報ばっか集めてる人にそれだけは言われたくなかったな」
軽口の応酬。周りから見れば、ただの雑談にしか見えないだろう。
けれど、互いにわかっている。これはその手前の、薄い膜みたいなものだ。
「……じゃあさ」
水沢さんは机に軽く腰を預けて、少しだけ身を屈めた。
「どこが嘘っぽかったわけ?」
挑発というよりは、確認に近い声音。僕は少しだけ視線を上げて、彼女を見る。
「“つい”って言うわりに、刺す位置が綺麗すぎる。そこは痛みはあるけど出血がしづらい位置。偶然そこに刺さることもあるだろうけど、狙ってやった可能性のほうがずっと高い。」
「……なにそれ」
「無意識でやるなら、もう少しズレる。それは、狙ってる」
言葉にすると、思っていたよりも平坦だった。
水沢さんは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐く。
「……観察、ね」
「外れてる?」
問いかけると、彼女は答えない。代わりに、絆創膏の端を指でなぞった。
「仮にそうだとしてさ」
少しだけ視線を落としたまま、彼女は言う。
「それでなにか変わるの?」
その声音は、さっきまでよりもほんの少しだけ低い。
「別に」
僕は同じ言葉を返す。
踏み込む理由も、資格もない。——少なくとも、表向きには。
「ただ、」
言葉が、わずかに続く。
「雑な嘘だな、とは思った」
水沢さんが、ふっと笑う。
「褒めてる?」
「まさか」
「じゃあ今度はもうちょっと上手くやるよ」
軽く言って、彼女は体を起こした。その仕草が、ほんの少しだけいつもより遅い。
「やらないのが一番だと思うけど」
「それは却下」
間髪入れずに返ってくる。僕も、それ以上は言わない。
言ったところで、意味がないことはわかっている。
少しの沈黙。
教室のざわめきが、その隙間を埋める。
「永瀬ってさ」
不意に、水沢さんが口を開く。
「そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「気づいてるくせに、深くは来ないとこ」
言いながら、彼女は少しだけ笑った。責めているわけでも、褒めているわけでもない、中途半端な温度。
「便利でしょ」
僕は肩をすくめる。
「人に嫌われにくい」
「逆に信用もされにくいけどね」
「お互い様」
そう言うと、水沢さんは一瞬だけ目を細めた。
否定はしない。
それでいい。
チャイムが鳴る。短い休み時間の終わりを告げる音。
「じゃ、戻るね」
彼女が自分の席に戻る途中、彼女は何気なく左手をポケットに入れる。
見せないための仕草か、それともただの癖か。
...どちらでもいい。どちらでも、同じことだ。
席に座り直して、本を開く。
さっきと同じページ。けれど、もう文字を追う気はなかった。
視線だけを落としたまま、さっきの光景を反芻する。
小さな傷。雑な嘘。わずかな沈黙。
——それでも。
ああいう形でしか均衡を保てないのなら、それでも構わないと思う。
壊れない範囲で、崩れていればいい。
完全に一人で落ちるよりは、ずっとましだ。
誰にも聞こえないくらいの声で、小さく息を吐く。
その呼吸すら、どこか作り物めいていることに、今さら気づく必要もなかった。
昼休みと午後のあいだに挟まれた、短い休み時間。教室の空気は少しだけ弛緩していて、けれど完全にはほどけきらない、そんな曖昧な温度をしている。僕は窓際の自分の席で、開きかけの本に視線を落としたまま、ページをめくるでもなく時間をやり過ごしていた。
視界の端で、水沢さんが席を立つのが見える。
いつも通りの動き。少しだけ軽やかで、無駄がない。誰が見ても「普通」に見える振る舞い。——ここまで来ると、逆に目についてしまう。
「珍しいね、ぼーっとしてるの」
顔を上げると、彼女が机の横に立っていた。
「そっちこそ。わざわざ来るなんて」
「暇だったから」
即答。間がない。僕は本を閉じて、机の上に置いた。
「さっき立花さんどこいったの?」
「委員会の人に呼ばれてた。すぐ戻ると思うけど」
そう言いながら、水沢さんは何気なく自分の左手を机に置いた。視線が、そこに落ちる。
小さな絆創膏。端が少しだけ浮いている。
「……それ」
僕が指で示すと、水沢さんは一瞬だけ視線を逸らして、それからすぐにいつもの顔に戻った。
「ああ、これ? 授業中にちょっとね。コンパスで」
軽い調子。何でもないことのように。
「つい、ってやつ」
「へえ」
僕は短く相槌を打つ。
その“つい”が、どれくらいの強さで、どんなタイミングで起きたものなのか。考えるまでもなく、答えは出ている。
「水沢さんが、授業中にそんなミスするんだ」
少しだけ間を置いてから言うと、彼女は肩をすくめた。
「たまにはあるよ。人間だし」
「そうだね」
否定はしない。ただ、そのまま受け取る気もない。教室の奥で誰かが笑っている。椅子を引く音が、やけに響く。
「……で?」
水沢さんが先に口を開いた。
「何、その言い方」
「別に」
僕は椅子の背にもたれかかる。
「嘘だな、と思っただけ」
一拍。
ほんのわずかに、彼女の表情が止まる。けれどそれも一瞬で、すぐに崩れる。いつもの、少しだけ茶化すような笑みに。
「ひど。決めつけ?」
「観察」
「やな趣味」
「情報ばっか集めてる人にそれだけは言われたくなかったな」
軽口の応酬。周りから見れば、ただの雑談にしか見えないだろう。
けれど、互いにわかっている。これはその手前の、薄い膜みたいなものだ。
「……じゃあさ」
水沢さんは机に軽く腰を預けて、少しだけ身を屈めた。
「どこが嘘っぽかったわけ?」
挑発というよりは、確認に近い声音。僕は少しだけ視線を上げて、彼女を見る。
「“つい”って言うわりに、刺す位置が綺麗すぎる。そこは痛みはあるけど出血がしづらい位置。偶然そこに刺さることもあるだろうけど、狙ってやった可能性のほうがずっと高い。」
「……なにそれ」
「無意識でやるなら、もう少しズレる。それは、狙ってる」
言葉にすると、思っていたよりも平坦だった。
水沢さんは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐く。
「……観察、ね」
「外れてる?」
問いかけると、彼女は答えない。代わりに、絆創膏の端を指でなぞった。
「仮にそうだとしてさ」
少しだけ視線を落としたまま、彼女は言う。
「それでなにか変わるの?」
その声音は、さっきまでよりもほんの少しだけ低い。
「別に」
僕は同じ言葉を返す。
踏み込む理由も、資格もない。——少なくとも、表向きには。
「ただ、」
言葉が、わずかに続く。
「雑な嘘だな、とは思った」
水沢さんが、ふっと笑う。
「褒めてる?」
「まさか」
「じゃあ今度はもうちょっと上手くやるよ」
軽く言って、彼女は体を起こした。その仕草が、ほんの少しだけいつもより遅い。
「やらないのが一番だと思うけど」
「それは却下」
間髪入れずに返ってくる。僕も、それ以上は言わない。
言ったところで、意味がないことはわかっている。
少しの沈黙。
教室のざわめきが、その隙間を埋める。
「永瀬ってさ」
不意に、水沢さんが口を開く。
「そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「気づいてるくせに、深くは来ないとこ」
言いながら、彼女は少しだけ笑った。責めているわけでも、褒めているわけでもない、中途半端な温度。
「便利でしょ」
僕は肩をすくめる。
「人に嫌われにくい」
「逆に信用もされにくいけどね」
「お互い様」
そう言うと、水沢さんは一瞬だけ目を細めた。
否定はしない。
それでいい。
チャイムが鳴る。短い休み時間の終わりを告げる音。
「じゃ、戻るね」
彼女が自分の席に戻る途中、彼女は何気なく左手をポケットに入れる。
見せないための仕草か、それともただの癖か。
...どちらでもいい。どちらでも、同じことだ。
席に座り直して、本を開く。
さっきと同じページ。けれど、もう文字を追う気はなかった。
視線だけを落としたまま、さっきの光景を反芻する。
小さな傷。雑な嘘。わずかな沈黙。
——それでも。
ああいう形でしか均衡を保てないのなら、それでも構わないと思う。
壊れない範囲で、崩れていればいい。
完全に一人で落ちるよりは、ずっとましだ。
誰にも聞こえないくらいの声で、小さく息を吐く。
その呼吸すら、どこか作り物めいていることに、今さら気づく必要もなかった。
