『Friends』 〜 一年間の黙示録 〜

〜立花結衣〜


――結衣らしい早さで、少しだけ動いてみればいい。

あの言葉は、静かな灯りみたいに胸の奥に残っている。急がなくていい。でも、止まったままでいてはいけない。
昼休み。チャイムの余韻が廊下に溶けて、人の流れがゆっくりと形を変えていく。私は友だちと別れて、ひとりで廊下を歩いていた。窓から入る光が白くて、春が近い匂いがする。
曲がり角の向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。心臓が、わかりやすく跳ねる。数メートル先。声をかけようと思えば、かけられる距離。

――どうする?

前の私なら、そのまま通り過ぎていたと思う。
でも今日は、ほんの少しだけ。

「新田くん」
自分の声が、思ったよりも静かに響いた。
彼が振り向く。少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。
「お、結衣。どうした?」
その“どうした?”が、特別に聞こえるのは、きっと私のせいだ。
「今、移動中?」
「うん。教室戻るとこ」
廊下の端に自然と並ぶ。人の流れが私たちを追い越していく。一歩、呼吸を整える。
「この前、話せて嬉しかったなって」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなる。新田くんは少し目を丸くして、それから照れたように視線を逸らした。
「……俺も」
短い。でも、ちゃんと届く。
「結衣といるとさ、落ち着くんだよな」
「え?」
「なんか、ちゃんと色々話聞いてくれるし」
まっすぐな言葉に、息が詰まりそうになる。私は特別なことなんてしていない。ただ、彼の言葉を受け取っているだけ。でも、それがいいと言ってくれる。
「ありがとう」
声が少しだけ小さくなる。廊下の窓から差す光が、彼の横顔を照らす。いつもの明るい雰囲気とは少し違う、やわらかい表情。私たちは他愛もない雑談を続けた。

「また話そーぜ」
さらっと言うのに、目は少しだけ本気だ。胸が、きゅっとなる。
「うん。私ももっと話したい」
言えた。ほんの少しだけ、踏み出せた。
一瞬、視線が絡む。長くはない。でも、確かに何かが通った気がする。
「じゃあ、次の授業やばいから戻るわ」
「うん、またね」
彼が手を軽く上げて去っていく。背中を見送りながら、私はその場に立ち尽くす。
大きなことは何も起きていない。告白も、約束もない。でも、ちゃんと一歩。

私らしい早さで。

窓ガラスに映る自分の顔は、少しだけ赤い。それでも、どこか嬉しそうだった。
怖さは消えていない。けれど、怖いままでも進めることを、今日知った。