――――――10月が終わりを迎えようとしている今から9ヶ月ほど前、1月31日のこと――――――
〜水沢莉央〜
玄関のドアを閉めた瞬間、やっと一日が終わった気がした。
「ただいま」
リビングから返事が返ってくる。いつもの声。いつもの匂い。いつもの音。靴をそろえて、階段を上がる。今日はなんだか、少しだけ長い一日だった気がする。――理由はわかってる。教室での視線とか、廊下の空気とか、そういうものが、少しずつ変わっているから。あの告白の件から、もう一週間。遠山楓理の名前を、今日私が聞いた分では、誰も一度も口にしていない。でも、完全に消えたわけじゃない。
ドアを閉めて、自分の部屋に入る。カーテンを少しだけ閉めて、制服のままベッドに倒れ込む。天井が近い。静かだ。スマホを取り出す。
画面をつけると、未読が一件。
樹。
自然と、口元がゆるむ。
n――今日の数学結構難しかったね
それだけの短いメッセージ。たったそれだけなのに、少しだけ心が軽くなる。とりあえず打ち返す。
m――うん、最後の問題ぜんぜんわからなかった
送信。
既読がつくのは早い。たぶん、向こうも今部屋にいる。
n――僕は途中で式がどこかに消えた...
思わず小さく笑ってしまう。樹は、そういう言い方をする。大げさでもなく、自慢でもなく、ただ淡々と。
n――でも水沢さん、ノートきれいだったよね。相変わらず
その一文に、少しだけ指が止まる。見てたんだ。
m――見られてたの?
n――前の席だったから。
m――変態。
n――なにがだよw
さらっといじりを入れたのは置いといてそっか、と思う。
教室で、前後の席だっただけ。それだけなのに、妙に近く感じる瞬間がある。
m――ちゃんと解けた?
n――まあまあかな。
m――そんなこと言ってどうせ90点乗ってるんでしょ?
n――さあ...水沢さんは?
m――...半分いってないかも。
少しだけ、本音。既読がついて、少し間が空く。その数秒が、意外と長い。確かに返信しにくいの送ったな。
n――じゃあ今度、一緒に勉強やる?
胸が、ほんの少しだけ鳴る。
m――いいの?
n――うん。、僕も不安だ
樹は、いつもこうだ。上からでもなく、無理に距離を詰めるわけでもなく、自然に「一緒」を差し出してくる。
n――じゃあ、放課後少し残る?
m――明日なら大丈夫
n――わたしも
別に特別な約束じゃない。ただの勉強。スマホを胸の上に置いて、天井を見る。教室での樹の横顔を思い出す。遠山の告白を断ったあとも、特別態度が変わるわけじゃなかった。むしろ、わたしに対しては最初からずっと優しい。変わらない。それが、安心する。スマホがまた震える。
n――今日の英語のテストの長文、最後どういう意味だったかわかる?
m――家族の話のところ?
n――うん。あの主人公が、最後に選んだほう。
ベッドに寝転がったまま、天井を見つめる。
m――あれは、正解ない気がする。
n――だよね。
少し間が空いてから、
n――水沢さんなら、どっち選ぶ?
唐突な質問。でも、嫌じゃない。
m――えー...
指を止めて、考える。
m――たぶん、安全なほう。
n――そっか。
m――樹は?
n――僕も、たぶんそう。
似てるね、と打とうとして、やめる。
代わりに、
m――意外。
とだけ送った。
n――そう?
m――もっと思いきるタイプかと思ってた。
数秒。
n――僕、あんまり冒険しないよ。
その一文に、少しだけ目を細める。たしかに、そうかもしれない。教室でも、目立つことはしないし、無理に誰かに合わせたりもしない。静かで、でもちゃんとそこにいる。
m――でも、ちゃんと自分で決めてる感じする。
送ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
n――水沢さんも。
短い返事。
m――わたし?
n――うん。流されてない感じ。
布団の中で、ぎゅっと指先を握る。そんなふうに見えているんだ。
m――そんなことないよ。
n――そうかな。
少し間が空く。
それから、
n――今日さ、クラスでちょっとした言い合いがあって。
n――なんか、噂とか、誰が何言ったとか。
画面を見つめながら、胸の奥が少しだけ冷える。最近、そういう空気は、確かにある。
m――面倒だね。
n――うん。
少し長めの沈黙。
それから、
n――水沢さんって、信用してる人何人いる?
画面を持つ手が、少しだけ強くなる。
m――急だね。
n――ごめん。なんとなく聞きたくなっただけ。
なんとなく。でも、樹は本当に「なんとなく」でそれを聞く人じゃない気がする。
何かを、見透かされてる。布団に顔を半分うずめる。
信用してる人。
家族?
友達?
クラスメイト?
頭の中に、いくつかの顔が浮かんで、――消える。
考えれば考えるほど、胸が静かに冷えていく。
m――樹は?
先に聞き返す。
少し時間が空いて、
n――僕は……少ないよ?
具体的な数字は出さない。ずるい。
画面のキーボードが滲んで見える。打っては消して、打っては消す。
「いるよ」とも打てる。
「わからない」とも言える。
...でも。
指が、止まる。
「なんとなく」じゃない。どうして聞いてきたんだろう。
希望なんて持っちゃ駄目なのに。
...正直に、打つ。
m――0。
送信。
既読がつくまでの数秒が、やけに長い。
取り消したくなる。
でも、もう遅い。
静かな部屋の中、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえていた。
