〜永瀬樹〜
『だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!』
...目の前の彼女はたしかにそう言った。
夕方の光が、やけに穏やかだった。駅前の通りは人もまばらで、風だけが少し冷たい。そんな静かな時間に、あまりにも彼女らしい台詞が落ちてきた。
遠山楓理は、いつも通り胸を張っていた。
迷いも、照れも、躊躇もない。
正確には照れているように見えるが、ただの見せかけだ。
まるで賞状でも渡すみたいな顔で、そう言った。
僕は一瞬、何も言えなかった。
驚いたわけじゃない。
予想していなかったわけでもない。
...ただ、あまりにも想像通りで、少しだけ笑いそうになっただけだ。
――小学六年生の頃。
あの頃、僕と遠山、...それから折原葵さんは同じクラスだった。
担任は柔らかい雰囲気の先生で、生徒の話をきちんと聞く人だった。怒鳴らないし、急かさない。教室の空気は穏やかで、どこか整っていた。その中で、折原さんはひときわ静かな存在だった。成績は常に上位。発言は簡潔で、感情に流されない。けれど冷たいわけではなく、誰に対しても同じ温度で接する。物腰は柔らかく、人当たりもいい。近づきやすいのに、踏み込みすぎればそっと線を引かれるような、そんな距離感を持っていた。
僕は、気づけば彼女に目が向くようになっていた。
きっかけは曖昧だ。グループ活動で意見が噛み合ったことか、提出物を確認し合ったことか。理由は些細だったが、話すたびに心が安らぐ感覚があった。
だから、迷惑にならない程度に、休み時間に時々話しかけた。長くは引き留めない。用事があるふりをして、少しだけ。それで十分だった。
...だが、その頃からすでに、遠山は僕のことを明らかに好いていた。
もっと正確に言えば、彼女の“初恋”はひとりに定まっていなかった。僕と、他クラスの男子の二人に、同時に同じ熱量を向けていた。
本人はきっと、矛盾だとは思っていなかったのだろう。
遠山は、ほぼ毎休み時間、僕のそばにいた。登校も下校も、自然な顔で隣に並ぶ。理由はその都度違った授業の確認、提出物の相談、どうでもいい雑談どれも断るほどのものではない。だが、確実に距離を詰めるには十分だった。
そして、僕が折原さんと話しているときも、遠山は必ずそこにいた。偶然を装って加わることもあれば、あからさまに割って入ることもあった。
「先生が呼んでたよ」
「ちょっと手伝ってほしいんだけど」
用件の真偽は曖昧だったが、彼女は迷わず僕を折原さんの前から引き離した。そのたびに、胸の奥に小さな違和感が溜まっていった。折原さんも、遠山のことを好いてはいなかった。それは僕にもわかった。視線のわずかな硬さや、沈黙の長さで。僕も同じだった。
でも、折原さんは決して態度に出さなかった。遠山が隣に立っていても、僕に対する接し方は変わらなかった。穏やかに、丁寧に、いつも通り。
それが救いだった。
同時に、僕を不安にさせた。
――僕が折原さんのところへ行くと、遠山を連れてきてしまう。
そう思うようになった。
僕の行動が、折原の時間を侵食しているのではないか。
僕の存在が、余計なものを引き寄せているのではないか。
それでも折原さんは、遠山の前で、僕に優しく接してくれた。
それが本心だと、疑わなかった。
六年生の終わりが近づいた頃、噂を耳にした。直接ではない。誰かがこぼした言葉が、遠回りして届いた。
折原は、本心では遠山を連れてくる僕のことを嫌っていたらしい、と。
さらに、担任の前で、僕についての愚痴をこぼしていた、と。
担任と折原2人で、愚痴に盛り上がっていた、と。
最初は否定した。そんなはずはない。
だが、具体的すぎる断片がいくつも重なり、ただの作り話だと切り捨てるには、妙に現実味があった。
遠山に邪魔をされ続けたのは事実だった。
僕が折原のところへ行くたびに、彼女は割り込んできた。
それは、たかが遠山の恋心の延長だった。二股に分けられたうちの、適当な軽い熱のひとつ。
だが、その軽さのせいで、僕は何度も大事な時間を奪われた。
そしてもし、折原がそれを理由に僕を疎ましく思っていたのだとしたら。
怒りは、まず遠山に向いた。
自分勝手な感情で踏み荒らしたことへの苛立ち。
悪びれもしなかった態度への嫌悪。
けれど同時に、周囲にも失望した。
それを面白半分で広める誰か。
遠回しに伝わる形で、わざわざ耳に入るようにする環境。
そして何より、
折原の本音に、最後まで気づけなかった自分。
あの穏やかさを、そのまま信じていた自分。
何も見抜けなかった。
本当に馬鹿だ。
誰の言葉も、誰の態度も、表面しか掬えていなかった。
その瞬間から、人の「優しさ」をそのまま受け取ることができなくなった。
笑顔の裏を探す癖がついた。
好意の裏に、別の意図があるのではないかと疑うようになった。
遠山も、折原も、周囲も。
そして、自分自身も。
信じられるものが、全部なくなった―――
夕暮れの光の中で、遠山はまだ疑っていなかった。自分が拒絶される可能性を、一度も想定していない顔。
「だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!」
――付き合ってあげる。
その言い回しが、ひどく滑稽に聞こえた。
僕はしばらく何も言わなかった。
怒りはない。動揺もない。
ただ、温度が落ちた。
「……本気で言ってるの?」
「本気に決まってるじゃん」
即答。
疑いの余地すらない声音。
僕はゆっくり息を吐く。
「...気持ち悪い」
遠山の顔から、わずかに色が抜ける。
「は?」
「その思考回路」
声は低い。感情は削ぎ落とした。いや、過去のお前にもう削ぎ落とされた。
「なんで僕が、お前を好きな前提で話が進んでる?」
「だって——」
「“だって”じゃない」
遮る。
完全に。
目の前にあるそれのことなんてもうどうでも良かった。
「僕がお前を好きだって証拠、どこにある?」
遠山は答えない。
答えられない。
「ないよな。所詮全部お前の頭の中だけの絵空事だ」
一歩、距離を詰める。
威圧する必要はない。
声だけで十分だった。
「昔からそうだ」
視線を逸らさない。
「僕が誰と話しても横に立って、割り込んで、引き剥がして、それで“好きだから”って顔してた」
淡々と事実を並べる。
「自分がやってること、理解してたか?」
沈黙。
「してないよな。理解する気もなかった」
遠山の喉が小さく鳴る。
「しかも、お前」
少しだけ声を落とす。
「僕だけですらなかっただろ?」
遠山の瞳が揺れる。
「同時に、別のやつも“好き”だった」
はっきり言う。
「そんな薄っぺらい感情で、よく人の時間奪えたな」
空気が凍る。
「僕はお前が心底嫌いだ」
言葉に迷いはない。
「昔からずっと」
遠山の呼吸が浅くなる。
「自分が中心で、自分が選ぶ側で、相手は自分を好きで当然だと思ってる」
冷たい視線を向ける。
「傲慢なんだよ」
言い切る。
「人の気持ちを勝手に決めつけて、思い通りに動かなかったら被害者ぶる」
遠山の唇が震える。
それでも僕は止めない。
「僕がお前と一緒にいる時間、どう思ってたか知ってるか?」
「苦痛だよ」
静かに落とす。
「視界に入るだけで、昔のこと思い出す」
ほんのわずかに眉を寄せる。
「自分の欲のために他人を踏み台にするやつ」
遠山の肩が小さく揺れる。
「それが、お前だ」
声は低いまま。
「僕は一度も、お前を好きになったことはない」
断言。
「これからも絶対にない」
間髪入れずに続ける。
「付き合って“あげる”?笑わせるなよ」
目を細める。
「僕がお前を選ぶ未来は、存在しない」
沈黙が落ちる。
逃げ場のない静けさ。
「自分が欲しいからって、相手も欲しがってると思うな」
冷たく、鋭く。
「僕の気持ちを勝手に書き換えるな」
最後に、抉るように告げる。
「もう二度と、僕に触れるな。視界にも入るな」
それだけ言って、視線を切る。
背後で、何かが崩れる気配がしたが、振り返らなかった。
もう、関係ない。
『だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!』
...目の前の彼女はたしかにそう言った。
夕方の光が、やけに穏やかだった。駅前の通りは人もまばらで、風だけが少し冷たい。そんな静かな時間に、あまりにも彼女らしい台詞が落ちてきた。
遠山楓理は、いつも通り胸を張っていた。
迷いも、照れも、躊躇もない。
正確には照れているように見えるが、ただの見せかけだ。
まるで賞状でも渡すみたいな顔で、そう言った。
僕は一瞬、何も言えなかった。
驚いたわけじゃない。
予想していなかったわけでもない。
...ただ、あまりにも想像通りで、少しだけ笑いそうになっただけだ。
――小学六年生の頃。
あの頃、僕と遠山、...それから折原葵さんは同じクラスだった。
担任は柔らかい雰囲気の先生で、生徒の話をきちんと聞く人だった。怒鳴らないし、急かさない。教室の空気は穏やかで、どこか整っていた。その中で、折原さんはひときわ静かな存在だった。成績は常に上位。発言は簡潔で、感情に流されない。けれど冷たいわけではなく、誰に対しても同じ温度で接する。物腰は柔らかく、人当たりもいい。近づきやすいのに、踏み込みすぎればそっと線を引かれるような、そんな距離感を持っていた。
僕は、気づけば彼女に目が向くようになっていた。
きっかけは曖昧だ。グループ活動で意見が噛み合ったことか、提出物を確認し合ったことか。理由は些細だったが、話すたびに心が安らぐ感覚があった。
だから、迷惑にならない程度に、休み時間に時々話しかけた。長くは引き留めない。用事があるふりをして、少しだけ。それで十分だった。
...だが、その頃からすでに、遠山は僕のことを明らかに好いていた。
もっと正確に言えば、彼女の“初恋”はひとりに定まっていなかった。僕と、他クラスの男子の二人に、同時に同じ熱量を向けていた。
本人はきっと、矛盾だとは思っていなかったのだろう。
遠山は、ほぼ毎休み時間、僕のそばにいた。登校も下校も、自然な顔で隣に並ぶ。理由はその都度違った授業の確認、提出物の相談、どうでもいい雑談どれも断るほどのものではない。だが、確実に距離を詰めるには十分だった。
そして、僕が折原さんと話しているときも、遠山は必ずそこにいた。偶然を装って加わることもあれば、あからさまに割って入ることもあった。
「先生が呼んでたよ」
「ちょっと手伝ってほしいんだけど」
用件の真偽は曖昧だったが、彼女は迷わず僕を折原さんの前から引き離した。そのたびに、胸の奥に小さな違和感が溜まっていった。折原さんも、遠山のことを好いてはいなかった。それは僕にもわかった。視線のわずかな硬さや、沈黙の長さで。僕も同じだった。
でも、折原さんは決して態度に出さなかった。遠山が隣に立っていても、僕に対する接し方は変わらなかった。穏やかに、丁寧に、いつも通り。
それが救いだった。
同時に、僕を不安にさせた。
――僕が折原さんのところへ行くと、遠山を連れてきてしまう。
そう思うようになった。
僕の行動が、折原の時間を侵食しているのではないか。
僕の存在が、余計なものを引き寄せているのではないか。
それでも折原さんは、遠山の前で、僕に優しく接してくれた。
それが本心だと、疑わなかった。
六年生の終わりが近づいた頃、噂を耳にした。直接ではない。誰かがこぼした言葉が、遠回りして届いた。
折原は、本心では遠山を連れてくる僕のことを嫌っていたらしい、と。
さらに、担任の前で、僕についての愚痴をこぼしていた、と。
担任と折原2人で、愚痴に盛り上がっていた、と。
最初は否定した。そんなはずはない。
だが、具体的すぎる断片がいくつも重なり、ただの作り話だと切り捨てるには、妙に現実味があった。
遠山に邪魔をされ続けたのは事実だった。
僕が折原のところへ行くたびに、彼女は割り込んできた。
それは、たかが遠山の恋心の延長だった。二股に分けられたうちの、適当な軽い熱のひとつ。
だが、その軽さのせいで、僕は何度も大事な時間を奪われた。
そしてもし、折原がそれを理由に僕を疎ましく思っていたのだとしたら。
怒りは、まず遠山に向いた。
自分勝手な感情で踏み荒らしたことへの苛立ち。
悪びれもしなかった態度への嫌悪。
けれど同時に、周囲にも失望した。
それを面白半分で広める誰か。
遠回しに伝わる形で、わざわざ耳に入るようにする環境。
そして何より、
折原の本音に、最後まで気づけなかった自分。
あの穏やかさを、そのまま信じていた自分。
何も見抜けなかった。
本当に馬鹿だ。
誰の言葉も、誰の態度も、表面しか掬えていなかった。
その瞬間から、人の「優しさ」をそのまま受け取ることができなくなった。
笑顔の裏を探す癖がついた。
好意の裏に、別の意図があるのではないかと疑うようになった。
遠山も、折原も、周囲も。
そして、自分自身も。
信じられるものが、全部なくなった―――
夕暮れの光の中で、遠山はまだ疑っていなかった。自分が拒絶される可能性を、一度も想定していない顔。
「だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!」
――付き合ってあげる。
その言い回しが、ひどく滑稽に聞こえた。
僕はしばらく何も言わなかった。
怒りはない。動揺もない。
ただ、温度が落ちた。
「……本気で言ってるの?」
「本気に決まってるじゃん」
即答。
疑いの余地すらない声音。
僕はゆっくり息を吐く。
「...気持ち悪い」
遠山の顔から、わずかに色が抜ける。
「は?」
「その思考回路」
声は低い。感情は削ぎ落とした。いや、過去のお前にもう削ぎ落とされた。
「なんで僕が、お前を好きな前提で話が進んでる?」
「だって——」
「“だって”じゃない」
遮る。
完全に。
目の前にあるそれのことなんてもうどうでも良かった。
「僕がお前を好きだって証拠、どこにある?」
遠山は答えない。
答えられない。
「ないよな。所詮全部お前の頭の中だけの絵空事だ」
一歩、距離を詰める。
威圧する必要はない。
声だけで十分だった。
「昔からそうだ」
視線を逸らさない。
「僕が誰と話しても横に立って、割り込んで、引き剥がして、それで“好きだから”って顔してた」
淡々と事実を並べる。
「自分がやってること、理解してたか?」
沈黙。
「してないよな。理解する気もなかった」
遠山の喉が小さく鳴る。
「しかも、お前」
少しだけ声を落とす。
「僕だけですらなかっただろ?」
遠山の瞳が揺れる。
「同時に、別のやつも“好き”だった」
はっきり言う。
「そんな薄っぺらい感情で、よく人の時間奪えたな」
空気が凍る。
「僕はお前が心底嫌いだ」
言葉に迷いはない。
「昔からずっと」
遠山の呼吸が浅くなる。
「自分が中心で、自分が選ぶ側で、相手は自分を好きで当然だと思ってる」
冷たい視線を向ける。
「傲慢なんだよ」
言い切る。
「人の気持ちを勝手に決めつけて、思い通りに動かなかったら被害者ぶる」
遠山の唇が震える。
それでも僕は止めない。
「僕がお前と一緒にいる時間、どう思ってたか知ってるか?」
「苦痛だよ」
静かに落とす。
「視界に入るだけで、昔のこと思い出す」
ほんのわずかに眉を寄せる。
「自分の欲のために他人を踏み台にするやつ」
遠山の肩が小さく揺れる。
「それが、お前だ」
声は低いまま。
「僕は一度も、お前を好きになったことはない」
断言。
「これからも絶対にない」
間髪入れずに続ける。
「付き合って“あげる”?笑わせるなよ」
目を細める。
「僕がお前を選ぶ未来は、存在しない」
沈黙が落ちる。
逃げ場のない静けさ。
「自分が欲しいからって、相手も欲しがってると思うな」
冷たく、鋭く。
「僕の気持ちを勝手に書き換えるな」
最後に、抉るように告げる。
「もう二度と、僕に触れるな。視界にも入るな」
それだけ言って、視線を切る。
背後で、何かが崩れる気配がしたが、振り返らなかった。
もう、関係ない。
