「うえぇぇええぇぇぇー……」
「ふっ、なにそれ。どんな顔」
表情筋を最大限使って苦虫を嚙み潰したような顔をする。
決してふざけたわけではなく、外でお兄ちゃんの話をしなくてはいけない状況に自然とこうなった。
だって、お兄ちゃんについて話すということは。
もしお兄ちゃんが救いようのないクズで、特徴として並べ立てられることが欠点しかないのならこうはならない。
多少なりともお世話になっているからこそネガキャン、いわゆるネガティブキャンペーンだけで終わらせてしまうのは家族としてさすがに気が引けてしまう。この上なく不本意ではあるけど。
「えっと……そのー……、まあ、極悪人ではなくて……」
「いきなり歯切れ悪いね」
「だいたい判ったよ。どんな関係なのか」朝凪くんがおかしそうに言い足した。
「じゃあ、もういい?」
「すぐ終わらせようとするね。さすがにもうちょっと教えてよ」
「うーーん……お皿洗わないし、お風呂洗えっていうし、手洗えっていうし……」
「ふっ、洗ってばっかり」
「ふはっ! 本当だ。……いやー、まあ、真面目に答えると、私が堂々としてられるのはお兄ちゃんのおかげ、かな」
「へえ」
言いながら、朝凪くんは瞼を上げてはっきりと興味を示した。
同じ兄として気になるのだろうけど、参考にするのがあの人で本当にいいのか不安になる。
「鳴上さんが堂々としてるのは、そういう性格なんだと思ってた」
「さすがに心が折れそうになることぐらいあるよ」
合唱部が休憩にでも入っているのか、歌声に代わって窓のそばにある木々の葉擦れが心地よく耳に届いた。
「ああ、そういえば」そこに朝凪くんの落ち着いた声が馴染む。「『順風満帆かって言われるとそうじゃない』って言ってたね」
——鳴上さんは思ったことない? 『なんで抵抗なく受け入れられるんだろう』って。
図星を指された昨日の私の動揺が鮮明に蘇る。
「……はあ、白状するよ。さすがに何回か壁にぶつかったことはある」
自分の呼び方以外にも、Xジェンダーがからかいの対象になったことはやっぱりあった。
「その中でも忘れられないのは、中二のとき。友達から保健室で着替えることを猛反対されたんだ」
「中学からだったんだ、保健室」
「うん。小学校のときは家から体操服で行ってよかったから」
「へえ。おれは小学校から更衣室があったな」
「学区がちがうと、結構やり方ちがうよね。——で、話戻すと、今でこそ保健室以外は女子として扱ってもらうことで線引きしてるけど、中学のときはもっとあやふやだったんだ。女子の体育に混ざるとか、グループ分けで女子としてカウントされるとか、あと、身体測定の基準値が女子になるのも嫌。かといって、男子側に入れられても困る」
そういうものをさながら家族に対するようにすべて表に出していたから、同級生の目には性自認を盾にしてわがままを押し通しているように映ったはずだ。
やがて積もり積もった鬱憤を抱えて、一人の女子生徒が仲間と連れ立って担任に直談判した。「鳴上さんだけ特別扱いするのはやめてください」と。それを先導していたのが当時私が一番仲が良いと思っていた子だった。
これは後から知ったことだけど、彼女は体型に特別強いコンプレックスを抱いていて、理想的なスタイルの同級生たちに混ざって着替えることにひどい苦痛を覚えていたらしい。自分はそれを我慢しているというのに、マイノリティを理由に保健室利用を認められている私が許せなかったのだと。
「スカート穿いてたのも、性自認は口実だと思わせる後押しになってたみたいで。私が理由をもっとしっかり説明できればよかったんだけど、当時は『好きだから』しか言えなくてさー」
「それで十分だよ」
「え?」
「“好きだから”。なにかを選ぶ理由なんて、本当はそれだけで十分」
「…………」
あのころの自分の背にそっと手を添えてもらったような気がして、心がじんわり温かくなる。
「ありがと。……でも、それだけじゃ駄目なときもあるんだよ。だって、私が性別をどう感じてるかなんて他人には証明できない。だからこそ行動がすごく重要になるのに……。それが曖昧であればあるほど信用度が下がっていくなんて当たり前のことに、当時は気付けなかった……」
「だから、“線引き”なんだ」
「うん。性自認って私が思う以上に繊細な事情として扱われてるってわかったから。このときも周りが否定できないのをいいことに、都合よく利用してるって思われてたみたいで」
タイミングよく訪れた三者面談で担任からそんな彼女の主張をやんわりと伝えられて、あのときの私は言葉が出なかった。
「だから、私から基準を提示することにした。耐えられないところを一つに絞って、そこだけ融通を利かせてもらって、他は体の性に従って過ごす。そうすれば周りも私の全部に気を回さなくて済むし、Xジェンダーについてもっと知りたければ訊いてもらえばいい」
「学校の制度のほとんどが性別二元論に基づいてるから、その前提に当てはまらない以上、不自由が生じるのは自然なことだけど……。それでも一つに絞った理由は?」
「みんな何かしら不自由は感じてるでしょ? 私だけあれもこれもっていうのは、さすがにわがままかなって。ちなみに、着替えを選んだのは一番発生頻度が高いから」
「確かに、あんまり要求が多いと、中学の二の舞になりかねないか」
「そういうこと。どう、名案じゃない?」
上手に「待て」ができたときのまあちさながら褒められることを期待しての発言だったけど、朝凪くんから返ってきたのは「そうだね」の一言だった。
まあ、別に、私は朝凪くんのペットじゃないし、空振ったところで恥ずかしくなんかない。ただ、あまりにも真剣に聞いてくれるものだから、少し空気を変えたいと思っただけで。
「それで、どうしたの?」
「あ、うん。二学期もあと少しのタイミングだったから、進級するまでは教室で着替えることになったんだけど……。やっぱり“女子の中にいる自分”に耐えられなくて、途中からは一人になるのを待って急いで着替えてた。昼休みだとそれでもいいんだけど、中休みは間に合わないから授業に遅刻しまくってたなー」
あははっと笑ってみたけど、朝凪くんはやっぱり流されてくれない。
もう諦めて、私も真面目に話そう。
「……担任と、あと両親とも相談して、学年が上がっても結局保健室は使わないことにした。生徒数がそこまで多くなかったから、直談判した子たち全員とクラスを離すことができなくて」
「じゃあ、ずっと最後に着替えてたの?」
「うん。でも、やっていくうちにどんどん早く着替えられるようになって、最終的には中休みでも遅刻しなくなったから、そこまで授業に支障はなかったよ」
中三で仲良くなった子たちは息せき切って間に合わせてくる私を笑って盛り上げてくれるような子だったから、二年生の出来事をほぼ引きずることなく新生活を楽しむことができたのは幸いだった。
「それ、授業が持久走だと苦しいね」
「そうだ、持久走!! あれは本っ当に地獄だった!! 始まる時点ですでに半分ぐらい体力消耗してるのに、『まだ走らせるの?!』って文句言ってたもん」
「ふっ、言いそう」
「ちょっと、どういう意味」
張り詰めていた空気にようやく余裕ができた気がして、胸を撫で下ろす。
「ふっ、なにそれ。どんな顔」
表情筋を最大限使って苦虫を嚙み潰したような顔をする。
決してふざけたわけではなく、外でお兄ちゃんの話をしなくてはいけない状況に自然とこうなった。
だって、お兄ちゃんについて話すということは。
もしお兄ちゃんが救いようのないクズで、特徴として並べ立てられることが欠点しかないのならこうはならない。
多少なりともお世話になっているからこそネガキャン、いわゆるネガティブキャンペーンだけで終わらせてしまうのは家族としてさすがに気が引けてしまう。この上なく不本意ではあるけど。
「えっと……そのー……、まあ、極悪人ではなくて……」
「いきなり歯切れ悪いね」
「だいたい判ったよ。どんな関係なのか」朝凪くんがおかしそうに言い足した。
「じゃあ、もういい?」
「すぐ終わらせようとするね。さすがにもうちょっと教えてよ」
「うーーん……お皿洗わないし、お風呂洗えっていうし、手洗えっていうし……」
「ふっ、洗ってばっかり」
「ふはっ! 本当だ。……いやー、まあ、真面目に答えると、私が堂々としてられるのはお兄ちゃんのおかげ、かな」
「へえ」
言いながら、朝凪くんは瞼を上げてはっきりと興味を示した。
同じ兄として気になるのだろうけど、参考にするのがあの人で本当にいいのか不安になる。
「鳴上さんが堂々としてるのは、そういう性格なんだと思ってた」
「さすがに心が折れそうになることぐらいあるよ」
合唱部が休憩にでも入っているのか、歌声に代わって窓のそばにある木々の葉擦れが心地よく耳に届いた。
「ああ、そういえば」そこに朝凪くんの落ち着いた声が馴染む。「『順風満帆かって言われるとそうじゃない』って言ってたね」
——鳴上さんは思ったことない? 『なんで抵抗なく受け入れられるんだろう』って。
図星を指された昨日の私の動揺が鮮明に蘇る。
「……はあ、白状するよ。さすがに何回か壁にぶつかったことはある」
自分の呼び方以外にも、Xジェンダーがからかいの対象になったことはやっぱりあった。
「その中でも忘れられないのは、中二のとき。友達から保健室で着替えることを猛反対されたんだ」
「中学からだったんだ、保健室」
「うん。小学校のときは家から体操服で行ってよかったから」
「へえ。おれは小学校から更衣室があったな」
「学区がちがうと、結構やり方ちがうよね。——で、話戻すと、今でこそ保健室以外は女子として扱ってもらうことで線引きしてるけど、中学のときはもっとあやふやだったんだ。女子の体育に混ざるとか、グループ分けで女子としてカウントされるとか、あと、身体測定の基準値が女子になるのも嫌。かといって、男子側に入れられても困る」
そういうものをさながら家族に対するようにすべて表に出していたから、同級生の目には性自認を盾にしてわがままを押し通しているように映ったはずだ。
やがて積もり積もった鬱憤を抱えて、一人の女子生徒が仲間と連れ立って担任に直談判した。「鳴上さんだけ特別扱いするのはやめてください」と。それを先導していたのが当時私が一番仲が良いと思っていた子だった。
これは後から知ったことだけど、彼女は体型に特別強いコンプレックスを抱いていて、理想的なスタイルの同級生たちに混ざって着替えることにひどい苦痛を覚えていたらしい。自分はそれを我慢しているというのに、マイノリティを理由に保健室利用を認められている私が許せなかったのだと。
「スカート穿いてたのも、性自認は口実だと思わせる後押しになってたみたいで。私が理由をもっとしっかり説明できればよかったんだけど、当時は『好きだから』しか言えなくてさー」
「それで十分だよ」
「え?」
「“好きだから”。なにかを選ぶ理由なんて、本当はそれだけで十分」
「…………」
あのころの自分の背にそっと手を添えてもらったような気がして、心がじんわり温かくなる。
「ありがと。……でも、それだけじゃ駄目なときもあるんだよ。だって、私が性別をどう感じてるかなんて他人には証明できない。だからこそ行動がすごく重要になるのに……。それが曖昧であればあるほど信用度が下がっていくなんて当たり前のことに、当時は気付けなかった……」
「だから、“線引き”なんだ」
「うん。性自認って私が思う以上に繊細な事情として扱われてるってわかったから。このときも周りが否定できないのをいいことに、都合よく利用してるって思われてたみたいで」
タイミングよく訪れた三者面談で担任からそんな彼女の主張をやんわりと伝えられて、あのときの私は言葉が出なかった。
「だから、私から基準を提示することにした。耐えられないところを一つに絞って、そこだけ融通を利かせてもらって、他は体の性に従って過ごす。そうすれば周りも私の全部に気を回さなくて済むし、Xジェンダーについてもっと知りたければ訊いてもらえばいい」
「学校の制度のほとんどが性別二元論に基づいてるから、その前提に当てはまらない以上、不自由が生じるのは自然なことだけど……。それでも一つに絞った理由は?」
「みんな何かしら不自由は感じてるでしょ? 私だけあれもこれもっていうのは、さすがにわがままかなって。ちなみに、着替えを選んだのは一番発生頻度が高いから」
「確かに、あんまり要求が多いと、中学の二の舞になりかねないか」
「そういうこと。どう、名案じゃない?」
上手に「待て」ができたときのまあちさながら褒められることを期待しての発言だったけど、朝凪くんから返ってきたのは「そうだね」の一言だった。
まあ、別に、私は朝凪くんのペットじゃないし、空振ったところで恥ずかしくなんかない。ただ、あまりにも真剣に聞いてくれるものだから、少し空気を変えたいと思っただけで。
「それで、どうしたの?」
「あ、うん。二学期もあと少しのタイミングだったから、進級するまでは教室で着替えることになったんだけど……。やっぱり“女子の中にいる自分”に耐えられなくて、途中からは一人になるのを待って急いで着替えてた。昼休みだとそれでもいいんだけど、中休みは間に合わないから授業に遅刻しまくってたなー」
あははっと笑ってみたけど、朝凪くんはやっぱり流されてくれない。
もう諦めて、私も真面目に話そう。
「……担任と、あと両親とも相談して、学年が上がっても結局保健室は使わないことにした。生徒数がそこまで多くなかったから、直談判した子たち全員とクラスを離すことができなくて」
「じゃあ、ずっと最後に着替えてたの?」
「うん。でも、やっていくうちにどんどん早く着替えられるようになって、最終的には中休みでも遅刻しなくなったから、そこまで授業に支障はなかったよ」
中三で仲良くなった子たちは息せき切って間に合わせてくる私を笑って盛り上げてくれるような子だったから、二年生の出来事をほぼ引きずることなく新生活を楽しむことができたのは幸いだった。
「それ、授業が持久走だと苦しいね」
「そうだ、持久走!! あれは本っ当に地獄だった!! 始まる時点ですでに半分ぐらい体力消耗してるのに、『まだ走らせるの?!』って文句言ってたもん」
「ふっ、言いそう」
「ちょっと、どういう意味」
張り詰めていた空気にようやく余裕ができた気がして、胸を撫で下ろす。
