季節のはざまに虹を架ける

「すごい体勢だね」

 突然、目の前ににゅっと朝凪くんの顔が現れた。

「うわぁっ?!」

 椅子の上で仰け反っていた私は滑り落ちそうになる体をなんとか踏ん張って支える。

「き、来てるなら言ってよ?!」

 椅子によじ登りながら食って掛かってみるけど、

「失礼しますって言ったよ?」

 と微笑まれる始末だ。

「えぇ……聞いてない……」
「まあ、返事なかったから」

 正面に周った朝凪くんは音も立てずパイプ椅子に腰を下ろした。
 どうせ、いつも通りさっさと文庫本を取り出して、自分に対する興味関心は一切受け付けませんといった態度で読書に集中し始めるに決まってる——……
 ところが今日の彼はスクールバッグを下ろしただけで、それ以上なにもしようとしない。それどころかじっとこちらを見つめる瞳は、私の思惑などお見通しとでも言いたげだ。
 言うまでもなく、朝凪くんは私がここに来た理由をわかっている。わかっていて、私の出方を伺っている。
 そもそも今までの彼なら、たとえ私があらぬ体勢だったとしても、わざわざ声を掛けるなんてしなかった。いや、私の存在なんて視界にすら入っていなかったと言うほうが正しいかもしれない。
 いずれにせよ、今の朝凪くんは私の話を聞いてくれるつもりでいる。なら、こちらも単刀直入にいかせてもらおう。

「昨日の、あれ。考えてみたんだけど……」
「うん」
「……もう一回、チャンスほしい」
「チャンス? ……って、なんの?」
「昨日言ってた『仲良くなれない』ってやつ。本当に仲良くなれないか、再審査のチャンスをください」

 座ったままの状態で、可能な限り深く下げた頭の向こうから「審査って……」という呟きが聞こえた。これはこのまま一蹴される可能性が高い。そう覚悟していたら。

「それをしたのは鳴上さんのほうじゃない?」
「ん?」

 顔を上げるより先に首を傾げる。
 どういうことだろう。友情を育みたいと思っていたのは私のほうで、意見の食い違いを理由にそれを拒んだのは朝凪くんだ。
 「どういうこと?」ようやく上体を起こして、私は尋ねる。「私、きらわれたんだよね?」

「それはこっちの台詞だよ。おれは鳴上さんが支持する『多様性』を踏みにじるようなこと言ったんだよ? そんなやつと友達になんてなりたくないでしょ? だから、おれが鳴上さんの友達候補から落ちたと思ってたんだけど」
「じゃあ、なんで『またあした』なんて言ったの?」
「なんとなく? 鳴上さん、言われっぱなしでいるような人じゃなさそうだし」
「ええぇぇぇぇ…………」

 手も敷かずに頭から机にくずおれたら、ゴンッと大きな音が室内に響いた。
 廊下からは例のごとく合唱部の歌声が聞こえてくる。今日は昨日とは打って変わってアップテンポの爽やかな曲調だ。三つか四つに分かれている音程のどれか一つに心春がいるのだろうけど、あなたの友達は今、盛大な勘違いが発覚して額を机に打ち付けました。

「大丈夫? すごい音したけど」
「だいじょうぶじゃない……」

 体勢を戻す気力も残っていなくて、そのまま話し続ける。

「朝凪くん、わかりにくい。言葉足りない。私、『仲良くなれない』って拒絶されたのかと思って、めちゃくちゃ悩んだのに」
「勘違いさせたことは謝るよ。ただ、おれの印象なんて、とっくに地に落ちたものだと思ってたから」
「……『仲良くしたくないよね?』って、認識の擦り合わせのつもりで言ったと」
「そうだね」
「『またあした』は『どうせ来るんだろ』って意味だったと」
「まあ、そこまで挑発的ではないけど」

 なんてこった。
 額で支えていた頭がコロンと横に倒れた。天板の冷たさが頬に馴染んで気持ちいい。

「確かになんてこと言うんだとは思ったし……」
「うん」
「腹が立ったし、イラッとしたし……」
「同じじゃない?」
「うるさいよ」

 対お兄ちゃんにならともかく、うっかり学校では披露したことのない声が出てしまって慌てて咳払いで誤魔化す。
 いけない、いけない。相手は仮にも同級生だ。別に猫を被るつもりはないけど、兄に対する態度が必ずしも対外的に通用するものではないことぐらいちゃんと弁えている。
 いくら朝凪くんが兄同様いちいち鼻につく返しをしてくる人だとしても、ここは学校。家じゃない。
 気を取り直してむくりと頭を持ち上げた瞬間、頬を涼やかな風が撫で去った。
 それは同時に朝凪くんの髪もさらっていたようで、薄暗さを詰め込んだこの箱の中、指通りのよさそうな彼の髪がかすかに光を反射している。
 何度も目の当たりにした幻想的な光景。そのはずなのに、今の朝凪くんはいつもよりほんの少しだけ、このくたびれた部室に馴染んで見える。

「それにしても」

 どこか弾んだその声音に反射的に胸が騒いだ。

「友達になりたいって思ってくれてたんだ?」
「……なんの話でしょう」

 私はサッと目を逸らす。

「再審査してほしいってことは、おれと仲良くなりたいって思ってくれてるってことでしょ?」
「記憶にございません」
「拒絶されたと思って、悩んでくれたんだよね?」
「そんなこと言いましたっけ」
「ねえ」
「うるさいよ」

 とうとう昨日同様、年相応の笑い声をお見舞いされた。それはじっとり睨んだところで止まるはずもなく。

「いい低音」
「お兄ちゃん以外、披露したの初めてだよ」

 皮肉のつもりで言ったのに、「へえ、お兄さんがいるんだ」なんて普通に返されてしまって負けた心地にさせられる。
 「……朝凪くんは?」対抗心をこれでもかというほど乗せてやった。

「おれは妹」
「へえ、さぞかし優しいお兄ちゃんなんでしょうね」
「まさか。いないほうがよかったよ」
「え……?」

 ただの軽口のつもりが、予想外の言葉に耳を疑った。 
 私だって外でお兄ちゃんの文句はたくさん言ってきたし、お兄ちゃんだって友達に「あの生意気が」と散々言いふらしていた。
 だからこそ、わかる。これは冗談じゃない。
 やってしまった。てっきり私とお兄ちゃんみたいな距離感だと思ったから、憎まれ口の一つでも叩いてくるのだと予想していたけど、朝凪くんにとってはそうじゃなかったんだ。

「おれ、人と関わるの向いてないから」

 嘘か真か、朝凪くんはあっけらかんとしている。

「ごめん……」
「鳴上さんは悪くないよ。おれ自身の素質の話」
「でも……」
「だから、せっかくだけど再審査はお断りするね。鳴上さんの時間を無駄にしたくない」

 どこか諦めたような微笑みに、胸がぎゅっと強く締め付けられる。
 よほどつらい経験をしたかもしれない。そう勘繰ってしまいたくなるほど、朝凪くんは人と関わることにうんざりしているように見える。
 『人と関わるの向いてない』だなんて、少なくとも私はそうは思わない。
 実際の彼は(てら)いなく接してくれる人で、言葉の節々からこちらへの配慮を感じるし、冗談を挟むタイミングもきちんと弁えている。
 そもそも優しい一面を目の当たりにしたのだってなにも昨日が初めてじゃない。
 高一のときに朝凪くんを好きだったあの子は体調不良でうずくまっていたところを偶然朝凪くんが見つけて、保健室まで付き添ってくれたことがきっかけだった。
 ジュースがこぼれて悲惨な状態になった先輩の教科書を、一緒にティッシュで拭いていたのだって見たことがある。
 確かに壁はあったけど部内の誰も彼をきらっていなかったのは、壁があってもなお感じ取ることのできる魅力が朝凪くんにちゃんとあったから。
 そうでなければ、さすがの私も“近い立場”だけを理由に特別視したりなんてしない。

「——……っ!」

 なんだか、どんどん悔しくなってきて私は唇を嚙んだ。
 どうして朝凪くんは『時間を無駄に』なんて言ってしまうほど、自分の価値を見誤ってしまっているんだろう。
 本当は温かい人なのにすべてに蓋をして、分厚い壁に自分を閉じ込めて。なにがそこまで彼を追い込んだのだろう。
 でも、今私がその理由を訊いたところで正直に話してもらえるとは思えない。雰囲気からして本人にその気がないのは明らかで、ここで説得を試みたとしてすぐに心を開いてくれるほど簡単な話ではないのだと思う。
 悔しいけど、私はまだその話を聞くに値する関係性を彼と築けていない。それが朝凪くんにとっての、今の私との距離感なのだ。
 それでも気付いてほしい。自分の魅力に。気付いて、もっと自分を大切にしてほしい。
 なら、やっぱり私にできることはもっと話すこと。打ち明けるに相応しい人間かどうか、その判断材料をできるだけたくさん朝凪くんに提示すること。ただそれだけだ。
 まずは私が性自認を公表すると決めたきっかけでも話そう——そう思っていたら。

「どんな人なの?」
「え?」
「お兄さん。参考までに教えてよ」
 
 朝凪くんの興味はまさかのお兄ちゃんに向いていた。