季節のはざまに虹を架ける

「まだ来てない……よねぇぇぇぇぇ」

 静まり返った室内にやかましい嘆息が吸い込まれていく。同時に入口の扉の引手からするりと手が離れ落ちた。しなびた葉のように戸当りに体を預けて、残っていた空気をもう一度ため息として吐き出す。
 朝凪くんと話をしよう——見事食堂での遭遇を免れたことでさらに勢い込んだ私の熱量は、職員室の壁に設置された保管箱の中で悠然と私を迎えた部室の鍵にみるみる吸い取られてしまった。
 鍵があるということはつまり一番乗りであるということ。

「いつも先に来てるのに、なんで今日に限って……」

 がっくりと項垂れたまま職員室を後にした私の姿は入ったときとは別人のようだったにちがいない。
 『またあした』って言ったのに。辺りを満たす静けさが、無関係を決め込んでいるこの場の意思表示に思えてだんだん惨めになってきた。
 普通教室のある本館とちがって特別教室の入った別館は、グラウンドや体育館から離れていることもあってひっそりとした場所だ。階上の音楽室にいる合唱部が活動を始めない限り、ただの無機質な空間でしかない。
 その点、別館の、さらには空き教室の並んだ二階の角に、人の目から隠れるように位置するこの一室は少し異質な存在と言える。

「とりあえず窓。窓開けよう」

 閉め切るとたちまちくすんでしまうこの部屋の空気をなんとかしなくては。
 古びた紙特有の匂いはともかくとして、その感慨深さを台無しにしてしまう埃っぽさは、長時間ここに居座ることを考えても可能な限り排除しておきたい。
 扉は開けたままにして長机にリュックを置くと、入口の向こう正面にある唯一の窓を全開にして風を通す。
 その場で一度大きく息を吸い、じっくり外を味わった。
 今日の空気は昨日と比べてとても爽やかだ。吸い込んだときに気管につっかかる感じが少なくて、肺の空気が新鮮なそれに入れ替わる感覚をより強く実感できる気がする。

「ふぅ……」

 出鼻を挫かれたせいでなにもやる気が起きなくて、パイプ椅子に背中から倒れ込んだ。
 仰いだ天井は窓からの自然光でおぼろげに照らされてはいるものの、全体的にどこか暗い印象が拭えない。どれだけたくさん外気を取り込んだところで、ずいぶん前に役目を終えたこの場所は、まるでそうあるべきだというようにとても控えめだ。
 せっかく別館の中では音楽室と並んで使い込まれた場所なのだから、もっと優遇されてもいいのに。そう思うけど、この時代にデジタルの気配をほとんど感じられないのでは、現役を掲げるのはあまり現実的ではないのかもしれない。
 文藝部に正式に廃部が言い渡されたのは、この春のこと。
 比較的活動に参加していた先輩二人が卒業し、一学年上の一人は顔も見たことがない。そして一学年下からは入部希望者が一人も出なかった。
 現状、部員は私たち二人と一学年上の一人を含めた三人で、規定に定められた最低所属人数五名に未達。それが廃部の理由だった。
 では、春まではここも活気に満ちていたのかと言われるとそういうわけでもない。私が入部した時点ですでに文藝部は、この場所は、とっくに全盛期を過ぎていた。
 それを象徴するものは、なにも向かいにある本棚だけじゃない。私の背後だって負けていないのだ。老朽化した学習机は漂う隠居感がすごくて、上に乗っているプロジェクターなんて埃のカバーがかけられているように見える。
 床にじかに横たえられているスクリーンや大判の世界地図に至っては、私を含めた歴代の元文藝部員たちの靴の跡が記念の足形のように重なっている。
 部屋の隅にある段ボールには端のよれた筒状の模造紙がいくつか身を寄せるように刺さっているし、キャスター付き黒板に貼られた文藝部のプリントの日付は私が小学校を卒業した年で止まっている。

「——え?! 卒業まで部室使っていいんですか?!」

 それは顧問から廃部を告げられたときのこと。私は職員室だということを忘れて歓喜の声を上げた。
 
「うん。他に用途もないからね。使用時と下校時に必ず報告に来てくれれば、好きに使っていいよ」

 御年いくつかのおじいちゃん先生に対して、名ばかりの顧問にしては上出来の提案だ、と何様な感想すら浮かんでしまうほどありがたい提案。
 「ありがとうございますっ!」その語勢と等しく、私は弾かれたように頭を下げた。

「そういえば、朝凪くんも使いたいと言っていたから。仲良くね」
「えっ?! 朝凪くん?!」
「ん? うん。というより、廃部後も使わせてくれないかと提案してきたのは彼だよ」

 まるで独り言のようにそう言ってのけると、おじいちゃん顧問は骨董市にでも行かないと手に入らないような、いかにもな湯呑みからズズッと音を立てて緑茶をすすった。
 これ以上伝えることはないようで、そのまま老眼鏡と思しき眼鏡を掛けて手元のプリントを読み始めてしまったから、私も食い下がることはできなかったけど。
 まさか朝凪くんが部室を使いたいと言い出すなんて。
 これまでの彼の態度からして文藝部には仕方なく顔を出しているのだと思っていたから、まるで部活に思い入れでもあるような行動に驚かずにはいられない。

「……あれ? でも……」

 どうして“仕方なく顔を出す”必要があったのだろう。
 だって、文藝部は完全自由参加。行きたい人が職員室から鍵を取って、好きな時間まで部室で好きなものを読んで、最終下校時刻を待たなくても好きな時間に帰っていい。
 つまり、廃部になる前から活動内容は今とほとんど変わらなかった。
 全盛期は定められた活動日に文学や言葉の理解を深める企画が実施されたり、文化祭で部誌を出したりと、運動部にも負けず劣らず賑わっていたみたいだけど、少なくとも私が入部してからの一年間はそういった類の活動は一切ない。
 本棚に端にまとめられている部誌や、学期ごとに作成されていたらしい活動報告。紙面を埋め尽くす生き生きとした手書きの文章は、本当に同じ部活だったのかと疑いたくなる。
 部誌の最後のページに載っている写真には学ランやセーラー服を着た生徒がたくさん写っていて、部員数も当時と今とでは天と地ほどの差があることが伺えるのだ。
 言葉を選ばずに言うと、完全に廃れてしまったこの場所をそれでも使いたいと思ったということは。
 もしかして朝凪くんは——