昼休みの食堂は言わば戦場だ。
券売機の前にできる長蛇の列、それを耐え抜いた先で待ち受ける受取口付近のすし詰め状態、その混雑は注文した品を手に席を目指す生徒の行く手を阻む大きな壁となる。
なんて、たまには元文藝部らしく目の前の状況を描写したところで、おばちゃんのたくましい声が私の番号を呼び上げた。発券してから十分も経たずの提供。怒涛の注文数に対するおばちゃんたちの対応力は計り知れない。
「お待たせ」
案の定もみくちゃにされながら戦利品とともに席へ向かうと、先に座っていた佐寄心春が私に気付いてスマホをテーブルに伏せた。
くすみピンクのスマホケースは背面がクリア素材になっていて、そこには彼女が推している女性アイドルのトレーディングカードが挟まれている。
「おつかれさまっ! 今日は時間かかったね」
心春が盛りを迎えた花のような笑顔で言った。
「ほんとだよ。圧がすごすぎて、息するのもやっとだった」
鼻をくすぐったデミグラスソースの香りに、思わず舌舐めずりしてしまいそうになる。その気持ちをグッとこらえて先にトレイをテーブルに置くと、背後の席に座る人に気をつけながら心春の正面の椅子を引いた。
すると、まだ座りきらないうちに「あの混雑に挑もうと思えるのがすごいよ!」と感心したように言われる。
「『なんでこんなに苦労してんだろ』とは自分でも思うんだけどさ。でも、美味しいんだよ。並んででも食べたくなる」
「美味しいのはわかるんだけどなぁ。あの人混み見ると萎えちゃって。だいたい生徒数に対して小さすぎない? この食堂」
「それは思う。そのくせ日替わりメニュー充実してるし、ちゃんと美味しいからいつも混んでるっていう」
「混んでなければなぁ。もう購買でいっかってなっちゃうもん」
彼女の前には透明のビニール袋で個包装されたクリームパンとあんドーナツが置いてある。どちらも食堂の隣りにある購買で売られていて、自販機で買ったであろうカフェオレをお供に楽しむつもりらしい。
ダイエットのため菓子パンは週一度に制限しているという。私にそう言ったときと同じように、「あおいちゃんはまたハンバーグだね」と大きな目を細めて笑った。
「……昨日もハンバーグだっけ?」
「そうだよ。ハンバーグ以外見たことないもん」
「それはさすがに盛ってない?」
「ふふっ、まあ、ちょっと盛ってるけど。でも、ハンバーグのときがあおいちゃん一番いい顔して戻って来るよ?」
「なにそれ?! 恥ずかしいんだけど?!」
「ええ、恥ずかしくないよ! わたしもハンバーグ好きだもん。あおいちゃんは何ハンバーグが一番好き?」
「デミグラスソース一択だね」
トレイに乗った戦利品を持ち上げて、ニヤリと口角を上げてみせる。
「彼氏と同じだ!」
「あの男子校行ってる人だよね。確か、中学が同じなんだっけ?」
「うん、もうすぐ二年記念日で……あっ! じゃあ今度みんなでハンバーグ食べに行こうよ! 文野くんも呼んで。ダブルデート」
カフェオレをストローで吸い上げながら、心春が空いているほうの手で作ったピースサインの指をちょんちょんと数回曲げた。ブレザーからはみ出たセーターの袖口が手のひらの大半を隠しているから、関節の存在感が薄い指の細さがより強調されている。
付き合って半年になる文野涼介と心春は同じ中学出身で、心春の彼氏とも顔見知りだと涼介から聞いている。まだ知り合って数週間ほどの心春とも上手くやれているし、話に聞く限り彼氏も悪い人ではなさそう。
だから仮にダブルデートが実現したとして、同窓の集まりに混ざることにそれほど抵抗感はない。だけど——
「……涼介の予定がなー。大会前で忙しそうなんだよ」
「そっかぁ。じゃあ、すぐには無理かなぁ」
「せっかくだし私たちは行こうよ」
「行こ行こ! 美味しいお店探すね!」
平皿に乗った付け合せのサラダにお箸を運ぼうとしたけど、テニスでやられた腕に力が入らなくて上手くいかない。さっきの現代文もペンを持つ手が小刻みに震えていた。
プチトマトに的を絞りようやく掴もうとしたところで、またもや正面から「あっ!」と高い声が上がり反射的に身を震わせる。
その一瞬の隙を見逃すことなく華麗に身を翻した艷やかな赤い実は、そのままデミグラスソースの沼に沈んでいった。
ドレッシング以外のものが付いた野菜——もっとも苦手とするコラボレーションの出現に私はたちまち絶望する。トマトは好きだからなおさらだ。
だけどなにやらこそこそと顔を近づけてきた心春の一言によって、瞬く間にプチトマトなど眼中から消え失せた。
「朝凪くんだ。やっぱりいつ見てもきれいだよね」
心春の視線は私の右斜め後ろ辺りに向いている。
青木先生のおかげであらかた気持ちの整理がついたとはいえ、まだ二人の間で折り合いがついたわけじゃない。鉢合わせは避けたいので絶対に振り返らないと決意する。
位置的には購買や自販機のほうになるから、わざわざ混雑した食堂で食べなくても教室へ持ち帰って自席で悠々と召し上がっていただきたい。間違っても席を探してこちらに来ることがないよう強く願った。
「同じ部活だけど話したことないって言ってたよね?」
「へっ?! ……ああ、うん。えーっと、昨日ちょっと喋った……かな?」
話したことまで隠す必要はないので正直に伝える。
悪霊退散さながらの強力な念を送っていたからしどろもどろになったけど、心春は特に気にしていないようで「え? 仲良くなったの?! 朝凪くんって人嫌いで有名だよね?!」と前のめりに質問攻めてきた。
「仲良く……とまではいかないけど、意外と話しやすい人ではあったよ」
ただし、“口達者で思考がちょっと独特な人”という注釈が付くけど。
「それ、あおいちゃんだからじゃない?」
「え? どういう意味?」
「あおいちゃん、話しやすいから。積極的だけど強引じゃないっていうのかな? 分け隔てなく接してくれるし、つい喋りたくなっちゃうんだよ」
トスッと胸にハートの矢が刺さる音がした。
私が少女漫画家ならこういう子をヒロインにする。そんな理想の人物がくれたあまりにも真っ直ぐな言葉に友人としてときめきを抑えられない。
心春はというと、絶賛感動中の友人のことなどお構いなしにクリームパンの封を開けていた。そして次の瞬間にはその小さな口でパンにかぶり付いており、艶のあるボブヘアが咀嚼に合わせてしなやかに揺れている。
形のちがう数種類のヘアピンでねじった前髪を留めていることで、あどけなさの残る表情が惜しげもなく露わになるのは彼氏の入れ知恵らしい。
知恵を授けた本人は限定的な場面を想定していたはずだから、まさか彼女が自分の助言に素直に従った結果、こんなにも人の集まる場所でそのチャームポイントを無自覚に振りまいているだなんて思いも寄らないだろう。
「そんな風に思ってくれてたんだ」
「うん。だからわたしお昼一緒に食べよって——」
「心春」
突然、馴染みのない声が友人を呼んだ。
「今、ちょっといい?」
顔を上げると二人の女子生徒が心春のそばに立っている。
一人はなんとなく見覚えがあった。確か心春と同じコーラス部の子で、放課後に心春を教室まで迎えに来ているところを何度か見かけたことがある。進級とともにパートリーダーを任された子で、心春も同じパートだと言っていたような。
「あおいちゃん、ちょっとごめんね」
「全然大丈夫だよ」
「ありがとう! ——どうしたの? なにかあった?」
「今日の部活なんだけど、最初に——」
先ほどまで花のような笑顔を浮かべていた心春の表情が、一転して真剣なものに変わる。
私は静かに視線を外して、ハンバーグを一切れ口に放り込んだ。部活のことはわからないし、あまりじっと見ていては早く終わるよう催促していると思わせてしまうかもしれない。
「——じゃあ、それで先輩たちにも伝えておく」
「うん、ありがとね!」
私を気遣って手短に済ませてくれたパートリーダーさんの隣で、彼女の友人であろう女子生徒がとうとう私に視線を固定した。二人が話している間もチラチラ視線は感じていたから、なにか言いたいことでもあるのだろうとは思っていたけど。
すると予想通り、友人さんが意を決した様子で口を開いた。
「ねえ、Xジェンダーって公表してる子だよね?」
「うん。そうだよ」
予想していたこともあって食事の手を止めていたから返答に窮することはなかった。
「ずっと気になってたんだけど、スラックスじゃないんだ?」
口に出してから自身の言動を客観視したのか、
「あっ……、ごめん。もしかして、かなり失礼なこと訊いてる……?」
と続ける声に先ほどまでの勢いはない。「本当にずっと気になってたから、『今しかない!』って先走っちゃって……」と最終的にしおれてしまった。
すっかり落ち込んでしまったようで見ていられず、私は気持ち大げさに口角を上げて「大丈夫!」と首を左右に振った。
「人によると思うけど、私は大歓迎なタイプ。クラスでもなんでも訊いてって言ってるし」
「そっか、よかった……!」
安堵の気持ちがそのまま顔に出ているところを見るに、素直な子なんだと思う。
「単刀直入すぎるでしょ!」とパートリーダーさんに小突かれてうなだれている様子からも、勢い余って訊いてしまったことを心の底から反省していることが伝わってくる。
おもしろ半分とか貶すつもりなんてなくて、ただ純粋にわからないことをわかるようになりたいと思っての行動だったのだろう。
だからこそここで私が事情を濁したりしたら、向き合おうとしてくれている彼女に失礼だ。そもそもジェンダーを公表したのも、なんでも訊いてと言ったのも私なのだから。
「制服はスカートのほうが雰囲気が好きなんだよね。採寸のときにスラックスも試してみたんだけど、体型のせいもあるのかな? 自分の着ている姿、あんまり気に入らなくて」
「そうなんだ。じゃあ、中学も?」
「うん、ずっとスカート」
中高ともに選択肢の一つとしてスラックスも導入されていたし、それを選んでいる子だって何人か見てきた。でも私はジャケットにシャツ、そしてスカートという組み合わせが醸し出すクラシカルな雰囲気がとても好きだ。
街で見かけるセーラー服も気になるけど、多分私はジャケット特有のフォーマル感に心をくすぐられるのだと思う。
正直好みに合ったとしか言いようがないから、これ以上説明するのは難しい。
実際にお兄ちゃんの学ランを着て、採寸のときの姿見に映った自分も見て。それらを経てもっとも心躍るのが今の組み合わせだった、ということになる。
「そっかぁ。“Xジェンダーはスラックス”って勝手に思い込んでたから、なんでスカートなんだろうって疑問だったんだよね」
「一括りにXジェンダーって言っても細分化されるから、いろいろな格好の人がいるんじゃないかな」
「細分化?」
「うん。男性と女性の真ん中にいる人とか、両方を持っている人とか。日によって変る人もいるみたい」
「そんなにたくさんあるんだ。……えーっと、あなたもなにか具体的な認識? があるの?」
「私はどっちの感覚もないっていうのが一番近い気がしてて。それもあって昔から性別基準で選択してこなかったんだよね。服も気に入ったものを選んでるから、体型に合えばメンズも着るよ」
「そうなんだ! なんかスッキリした! 教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
立ち去る二人に手を振っていると、先に向き直った心春が「あおいちゃん、心広いなぁ」とため息を吐いた。
「なに、藪から棒に」
「だって名前も知らない人に性自認について根掘り葉掘り訊かれて、嫌な顔一つせずに答えちゃうんだもん」
「悪意なさそうだったよ、あの子」
「それはそうだけど。仲良くなってもいないのに、プライベートな話したくなくない?」
「まあ、なんでも包み隠さずとはいかないけど……。公表してるのは私だし、さっきも一般的な分類と自分のことをちょっと伝えただけだから。まあ、大丈夫かなって」
「ええー……」
あどけなさの残る顔立ちが不服そうに歪んだ。
そんな友人とは対照的に、私はこういう場面でもれなく申し訳なさを抱く。
Xジェンダーとしての選択が男女どちらかに寄ると、今回のように周りの人を混乱させてしまうからだ。
実際、スカートを選んだ理由を訊かれるのだって今日が初めてじゃない。中学に上がって制服を着るようになると、この手の質問をされる機会はぐっと増えた。
小学生のときはなにを着てもなにも言われなかったのに、こと制服になると事情がちがってくるらしい。Xジェンダーがスカートを穿いている状況は人によっては疑問の対象になり得るようだった。
「そういえば心春はなにも思わなかったの? 私がスカート穿いてること」
「ん? ああ、『女の子として扱って』って自己紹介で言ってたでしょ。だから、スカート穿いてるのかなぁって勝手に納得してたよ。全然理由ちがってたけどね」
「あっはは。そうだね、単に好みだからでした」
心春のように自分なりに理解してくれる人もたくさんいる。
だけど私は先ほどの彼女のように、素直に知りたいと思ってくれる人にもできる限り応えたい。
それがわがままを受け入れてもらう以上、私がやるべきことだと思うから。
「あっ! 返事来てるっ!!」
突然、心春がスマホの画面を見ながら目を輝かせた。
「彼氏がね、しばらく毎日迎えに来てくれるんだって」
「えっ?! 毎日?!」
「ほら、朝礼で先生が言ってたでしょ? 不審者の話。あれ、うちから結構近いの」
「そうなの?! 反対方向だから、あんまり気にしてなかった」
「もー! ちゃんと気をつけて?! 女子高生なんて簡単に狙われるんだからね?!」
「あー……ねっ」
「でね、怖いねって話してたら、心配だから送ってくれるって! あっ! あおいちゃんも文野くんにお願いしようよ!」
「いやー、涼介は反対方向だし、いつもサッカー部の人たちと帰ってるから迷惑だよ。私はバスですぐだから大丈夫」
「えぇー!」
唇を尖らせながらもスマホの画面になにやら打ち込んでいるうちに、心春の表情はとても甘いものになっていった。
食べ終えて教室に戻ったところで、涼介から【帰り、送るよ】と連絡が来ていたけど、【反対方向だし、バスですぐだから】とまた誤魔化してしまった。
券売機の前にできる長蛇の列、それを耐え抜いた先で待ち受ける受取口付近のすし詰め状態、その混雑は注文した品を手に席を目指す生徒の行く手を阻む大きな壁となる。
なんて、たまには元文藝部らしく目の前の状況を描写したところで、おばちゃんのたくましい声が私の番号を呼び上げた。発券してから十分も経たずの提供。怒涛の注文数に対するおばちゃんたちの対応力は計り知れない。
「お待たせ」
案の定もみくちゃにされながら戦利品とともに席へ向かうと、先に座っていた佐寄心春が私に気付いてスマホをテーブルに伏せた。
くすみピンクのスマホケースは背面がクリア素材になっていて、そこには彼女が推している女性アイドルのトレーディングカードが挟まれている。
「おつかれさまっ! 今日は時間かかったね」
心春が盛りを迎えた花のような笑顔で言った。
「ほんとだよ。圧がすごすぎて、息するのもやっとだった」
鼻をくすぐったデミグラスソースの香りに、思わず舌舐めずりしてしまいそうになる。その気持ちをグッとこらえて先にトレイをテーブルに置くと、背後の席に座る人に気をつけながら心春の正面の椅子を引いた。
すると、まだ座りきらないうちに「あの混雑に挑もうと思えるのがすごいよ!」と感心したように言われる。
「『なんでこんなに苦労してんだろ』とは自分でも思うんだけどさ。でも、美味しいんだよ。並んででも食べたくなる」
「美味しいのはわかるんだけどなぁ。あの人混み見ると萎えちゃって。だいたい生徒数に対して小さすぎない? この食堂」
「それは思う。そのくせ日替わりメニュー充実してるし、ちゃんと美味しいからいつも混んでるっていう」
「混んでなければなぁ。もう購買でいっかってなっちゃうもん」
彼女の前には透明のビニール袋で個包装されたクリームパンとあんドーナツが置いてある。どちらも食堂の隣りにある購買で売られていて、自販機で買ったであろうカフェオレをお供に楽しむつもりらしい。
ダイエットのため菓子パンは週一度に制限しているという。私にそう言ったときと同じように、「あおいちゃんはまたハンバーグだね」と大きな目を細めて笑った。
「……昨日もハンバーグだっけ?」
「そうだよ。ハンバーグ以外見たことないもん」
「それはさすがに盛ってない?」
「ふふっ、まあ、ちょっと盛ってるけど。でも、ハンバーグのときがあおいちゃん一番いい顔して戻って来るよ?」
「なにそれ?! 恥ずかしいんだけど?!」
「ええ、恥ずかしくないよ! わたしもハンバーグ好きだもん。あおいちゃんは何ハンバーグが一番好き?」
「デミグラスソース一択だね」
トレイに乗った戦利品を持ち上げて、ニヤリと口角を上げてみせる。
「彼氏と同じだ!」
「あの男子校行ってる人だよね。確か、中学が同じなんだっけ?」
「うん、もうすぐ二年記念日で……あっ! じゃあ今度みんなでハンバーグ食べに行こうよ! 文野くんも呼んで。ダブルデート」
カフェオレをストローで吸い上げながら、心春が空いているほうの手で作ったピースサインの指をちょんちょんと数回曲げた。ブレザーからはみ出たセーターの袖口が手のひらの大半を隠しているから、関節の存在感が薄い指の細さがより強調されている。
付き合って半年になる文野涼介と心春は同じ中学出身で、心春の彼氏とも顔見知りだと涼介から聞いている。まだ知り合って数週間ほどの心春とも上手くやれているし、話に聞く限り彼氏も悪い人ではなさそう。
だから仮にダブルデートが実現したとして、同窓の集まりに混ざることにそれほど抵抗感はない。だけど——
「……涼介の予定がなー。大会前で忙しそうなんだよ」
「そっかぁ。じゃあ、すぐには無理かなぁ」
「せっかくだし私たちは行こうよ」
「行こ行こ! 美味しいお店探すね!」
平皿に乗った付け合せのサラダにお箸を運ぼうとしたけど、テニスでやられた腕に力が入らなくて上手くいかない。さっきの現代文もペンを持つ手が小刻みに震えていた。
プチトマトに的を絞りようやく掴もうとしたところで、またもや正面から「あっ!」と高い声が上がり反射的に身を震わせる。
その一瞬の隙を見逃すことなく華麗に身を翻した艷やかな赤い実は、そのままデミグラスソースの沼に沈んでいった。
ドレッシング以外のものが付いた野菜——もっとも苦手とするコラボレーションの出現に私はたちまち絶望する。トマトは好きだからなおさらだ。
だけどなにやらこそこそと顔を近づけてきた心春の一言によって、瞬く間にプチトマトなど眼中から消え失せた。
「朝凪くんだ。やっぱりいつ見てもきれいだよね」
心春の視線は私の右斜め後ろ辺りに向いている。
青木先生のおかげであらかた気持ちの整理がついたとはいえ、まだ二人の間で折り合いがついたわけじゃない。鉢合わせは避けたいので絶対に振り返らないと決意する。
位置的には購買や自販機のほうになるから、わざわざ混雑した食堂で食べなくても教室へ持ち帰って自席で悠々と召し上がっていただきたい。間違っても席を探してこちらに来ることがないよう強く願った。
「同じ部活だけど話したことないって言ってたよね?」
「へっ?! ……ああ、うん。えーっと、昨日ちょっと喋った……かな?」
話したことまで隠す必要はないので正直に伝える。
悪霊退散さながらの強力な念を送っていたからしどろもどろになったけど、心春は特に気にしていないようで「え? 仲良くなったの?! 朝凪くんって人嫌いで有名だよね?!」と前のめりに質問攻めてきた。
「仲良く……とまではいかないけど、意外と話しやすい人ではあったよ」
ただし、“口達者で思考がちょっと独特な人”という注釈が付くけど。
「それ、あおいちゃんだからじゃない?」
「え? どういう意味?」
「あおいちゃん、話しやすいから。積極的だけど強引じゃないっていうのかな? 分け隔てなく接してくれるし、つい喋りたくなっちゃうんだよ」
トスッと胸にハートの矢が刺さる音がした。
私が少女漫画家ならこういう子をヒロインにする。そんな理想の人物がくれたあまりにも真っ直ぐな言葉に友人としてときめきを抑えられない。
心春はというと、絶賛感動中の友人のことなどお構いなしにクリームパンの封を開けていた。そして次の瞬間にはその小さな口でパンにかぶり付いており、艶のあるボブヘアが咀嚼に合わせてしなやかに揺れている。
形のちがう数種類のヘアピンでねじった前髪を留めていることで、あどけなさの残る表情が惜しげもなく露わになるのは彼氏の入れ知恵らしい。
知恵を授けた本人は限定的な場面を想定していたはずだから、まさか彼女が自分の助言に素直に従った結果、こんなにも人の集まる場所でそのチャームポイントを無自覚に振りまいているだなんて思いも寄らないだろう。
「そんな風に思ってくれてたんだ」
「うん。だからわたしお昼一緒に食べよって——」
「心春」
突然、馴染みのない声が友人を呼んだ。
「今、ちょっといい?」
顔を上げると二人の女子生徒が心春のそばに立っている。
一人はなんとなく見覚えがあった。確か心春と同じコーラス部の子で、放課後に心春を教室まで迎えに来ているところを何度か見かけたことがある。進級とともにパートリーダーを任された子で、心春も同じパートだと言っていたような。
「あおいちゃん、ちょっとごめんね」
「全然大丈夫だよ」
「ありがとう! ——どうしたの? なにかあった?」
「今日の部活なんだけど、最初に——」
先ほどまで花のような笑顔を浮かべていた心春の表情が、一転して真剣なものに変わる。
私は静かに視線を外して、ハンバーグを一切れ口に放り込んだ。部活のことはわからないし、あまりじっと見ていては早く終わるよう催促していると思わせてしまうかもしれない。
「——じゃあ、それで先輩たちにも伝えておく」
「うん、ありがとね!」
私を気遣って手短に済ませてくれたパートリーダーさんの隣で、彼女の友人であろう女子生徒がとうとう私に視線を固定した。二人が話している間もチラチラ視線は感じていたから、なにか言いたいことでもあるのだろうとは思っていたけど。
すると予想通り、友人さんが意を決した様子で口を開いた。
「ねえ、Xジェンダーって公表してる子だよね?」
「うん。そうだよ」
予想していたこともあって食事の手を止めていたから返答に窮することはなかった。
「ずっと気になってたんだけど、スラックスじゃないんだ?」
口に出してから自身の言動を客観視したのか、
「あっ……、ごめん。もしかして、かなり失礼なこと訊いてる……?」
と続ける声に先ほどまでの勢いはない。「本当にずっと気になってたから、『今しかない!』って先走っちゃって……」と最終的にしおれてしまった。
すっかり落ち込んでしまったようで見ていられず、私は気持ち大げさに口角を上げて「大丈夫!」と首を左右に振った。
「人によると思うけど、私は大歓迎なタイプ。クラスでもなんでも訊いてって言ってるし」
「そっか、よかった……!」
安堵の気持ちがそのまま顔に出ているところを見るに、素直な子なんだと思う。
「単刀直入すぎるでしょ!」とパートリーダーさんに小突かれてうなだれている様子からも、勢い余って訊いてしまったことを心の底から反省していることが伝わってくる。
おもしろ半分とか貶すつもりなんてなくて、ただ純粋にわからないことをわかるようになりたいと思っての行動だったのだろう。
だからこそここで私が事情を濁したりしたら、向き合おうとしてくれている彼女に失礼だ。そもそもジェンダーを公表したのも、なんでも訊いてと言ったのも私なのだから。
「制服はスカートのほうが雰囲気が好きなんだよね。採寸のときにスラックスも試してみたんだけど、体型のせいもあるのかな? 自分の着ている姿、あんまり気に入らなくて」
「そうなんだ。じゃあ、中学も?」
「うん、ずっとスカート」
中高ともに選択肢の一つとしてスラックスも導入されていたし、それを選んでいる子だって何人か見てきた。でも私はジャケットにシャツ、そしてスカートという組み合わせが醸し出すクラシカルな雰囲気がとても好きだ。
街で見かけるセーラー服も気になるけど、多分私はジャケット特有のフォーマル感に心をくすぐられるのだと思う。
正直好みに合ったとしか言いようがないから、これ以上説明するのは難しい。
実際にお兄ちゃんの学ランを着て、採寸のときの姿見に映った自分も見て。それらを経てもっとも心躍るのが今の組み合わせだった、ということになる。
「そっかぁ。“Xジェンダーはスラックス”って勝手に思い込んでたから、なんでスカートなんだろうって疑問だったんだよね」
「一括りにXジェンダーって言っても細分化されるから、いろいろな格好の人がいるんじゃないかな」
「細分化?」
「うん。男性と女性の真ん中にいる人とか、両方を持っている人とか。日によって変る人もいるみたい」
「そんなにたくさんあるんだ。……えーっと、あなたもなにか具体的な認識? があるの?」
「私はどっちの感覚もないっていうのが一番近い気がしてて。それもあって昔から性別基準で選択してこなかったんだよね。服も気に入ったものを選んでるから、体型に合えばメンズも着るよ」
「そうなんだ! なんかスッキリした! 教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
立ち去る二人に手を振っていると、先に向き直った心春が「あおいちゃん、心広いなぁ」とため息を吐いた。
「なに、藪から棒に」
「だって名前も知らない人に性自認について根掘り葉掘り訊かれて、嫌な顔一つせずに答えちゃうんだもん」
「悪意なさそうだったよ、あの子」
「それはそうだけど。仲良くなってもいないのに、プライベートな話したくなくない?」
「まあ、なんでも包み隠さずとはいかないけど……。公表してるのは私だし、さっきも一般的な分類と自分のことをちょっと伝えただけだから。まあ、大丈夫かなって」
「ええー……」
あどけなさの残る顔立ちが不服そうに歪んだ。
そんな友人とは対照的に、私はこういう場面でもれなく申し訳なさを抱く。
Xジェンダーとしての選択が男女どちらかに寄ると、今回のように周りの人を混乱させてしまうからだ。
実際、スカートを選んだ理由を訊かれるのだって今日が初めてじゃない。中学に上がって制服を着るようになると、この手の質問をされる機会はぐっと増えた。
小学生のときはなにを着てもなにも言われなかったのに、こと制服になると事情がちがってくるらしい。Xジェンダーがスカートを穿いている状況は人によっては疑問の対象になり得るようだった。
「そういえば心春はなにも思わなかったの? 私がスカート穿いてること」
「ん? ああ、『女の子として扱って』って自己紹介で言ってたでしょ。だから、スカート穿いてるのかなぁって勝手に納得してたよ。全然理由ちがってたけどね」
「あっはは。そうだね、単に好みだからでした」
心春のように自分なりに理解してくれる人もたくさんいる。
だけど私は先ほどの彼女のように、素直に知りたいと思ってくれる人にもできる限り応えたい。
それがわがままを受け入れてもらう以上、私がやるべきことだと思うから。
「あっ! 返事来てるっ!!」
突然、心春がスマホの画面を見ながら目を輝かせた。
「彼氏がね、しばらく毎日迎えに来てくれるんだって」
「えっ?! 毎日?!」
「ほら、朝礼で先生が言ってたでしょ? 不審者の話。あれ、うちから結構近いの」
「そうなの?! 反対方向だから、あんまり気にしてなかった」
「もー! ちゃんと気をつけて?! 女子高生なんて簡単に狙われるんだからね?!」
「あー……ねっ」
「でね、怖いねって話してたら、心配だから送ってくれるって! あっ! あおいちゃんも文野くんにお願いしようよ!」
「いやー、涼介は反対方向だし、いつもサッカー部の人たちと帰ってるから迷惑だよ。私はバスですぐだから大丈夫」
「えぇー!」
唇を尖らせながらもスマホの画面になにやら打ち込んでいるうちに、心春の表情はとても甘いものになっていった。
食べ終えて教室に戻ったところで、涼介から【帰り、送るよ】と連絡が来ていたけど、【反対方向だし、バスですぐだから】とまた誤魔化してしまった。
