「失礼しまーす」
保健室の扉をそろりと開くと、養護教諭の青木先生が「お疲れ様。鳴上さん」と笑顔を返してくれた。
先生が声量を絞っていないということは、つまり今ここで休んでいる生徒はいないということ。ひそひそする必要もないので、「めっちゃ疲れましたー」と縋るような声を返しながら後ろ手で扉を引く。
戸先のゴムが戸当たりで鈍い音を立てると同時に、授業中特有の校舎の静けさがプツンと背後から消えた。
「今、二年生の女子は硬式テニスよね」
綿のように疲れた私を見てクスクス笑いながら青木先生が尋ねた。
「そうです。ラケットは重いしボールは強いしで、もう腕がだるすぎて使い物にならなくて。あと、久しぶりに全力で走ったから膝が笑ってます」
「わかるわ。先生もラケット競技苦手だったから」
小柄で白衣に着られている感じが可愛らしい先生はおそらく五十代前後。笑うと眼鏡の奥で目がなくなるところがその柔和な印象に拍車をかけている。
私はまだ経験がないけど、体調不良のときに先生に迎え入れてもらえたらホッとすること間違いない。
「しかも、今日はテニス部の子と当たっちゃって。しごかれましたよ」
「あら、それは大変ね」
「もー、笑いごとじゃないですよ! 素人相手に本気で来るとか鬼です、鬼! 仲良くなかったら絶対訴えてる」
文句を垂れながら先生の横を通り過ぎ、部屋の奥へ進む。
二つ並んだベッドの一方の足元側にあるカゴから畳まれた制服を取り出すと、一段落したところで「じゃあ、着替えまーす」と淡いピンク色のカーテンを引いた。
学校指定の紺色のジャージを脱いで、白い半袖の体操着に手をかける。
「鳴上葵です。実はXジェンダーを自認していて、その中でも性別の概念がない無性が一番近いかなって思ってます。でも体は女性なので、普段は女性として扱ってもらって大丈夫です」
高校生活初日にあった自己紹介で私はそう高らかに宣言した。
一瞬、教室が小さくざわついたけど、それもほんの数秒のこと。やっぱり多くの先人が多様性の概念を広めてくれたおかげなのか、否定的な眼差しはひとつも感じなかった。
高校ではあらかじめ全員の前で公表しておこう——そう決意と覚悟を持って挑んだものの、白状すると心臓がひっくり返ってしまうんじゃないかってほどに早鐘を打っていた。
だから、上々の出だしに背中を押された感覚をこのときの私は確かに抱いた。
「ただ——」
自己紹介には続きがあった。
「どうしても女子更衣室で着替えることだけは抵抗があるので、保健室で着替えさせてもらいます。先生にも相談して許可をもらっているので、理解してもらえると嬉しいです。もし、この対応に不満があったら先生を通して教えてください。あと、質問があったらいつでも訊いてもらって大丈夫です。一年間、よろしくお願いします」
さすがに面食らったのか拍手の入りはまばらだった。
それでも何人かが先導するようにしっかりとした拍手を送ってくれたおかげで、強い反発に晒されることなく無事に自己紹介を終えることができた。
よかった。本当によかった。一世一代を使うにはまだ早すぎるのかもしれないけど、私にとってはそれに匹敵するほどの大勝負だったから、やっと人心地がついて身体が瞬く間にふやけていくのを実感していた。
緊張の余波でしばらくは心臓が打つ手を緩めてくれなかったものの、幸先の良いスタートを切ることができたのは間違いない。持ち帰った朗報に家族もとても喜んでくれた。
唐突なカムアウトにもかかわらず、今のところ不満の声は届いていない。一年生の間も同じ自己紹介をした数週間前からも、担任の先生にも直接確認してみたけど、本当に一つも上がっていないとのことだった。
「クラスの大半に反対されて早々に孤立。最終的に不登校」という最悪の事態も想定していたから、このまま卒業まで毎日元気に登校できることをただただ願うばかりである。
「ありがとうございました」
着替えを終えてお礼を伝えると、青木先生が「そういえば」と切り出した。
「鳴上さんと同じように、保健室で着替えたいって子が一年生にもいてね」
「えっ?! 本当ですか?!」
「あなたの存在を担任の先生から聞いて相談に来てくれたの。あなたからあらかじめ自分のことは好きに話していいって言ってもらっていたから、自己紹介でクラスメイトに公表したことも伝えたのだけれど、とても感動していたわよ」
「感動?」
「自分は隠すことしか頭になかったから、堂々としていてかっこいいって」
「ええ……かなり嬉しいかも……!」
公表してからというもの、「わがままを聞いてもらっている」という意識をずっと念頭に置いて過ごしてきたから、私の行動を真っ直ぐ評価してもらえるのはとても力になる。
公表したのは自分の意志だから、後悔なんてもちろん一ミリもしていない。それでも褒めてもらえるのは素直に嬉しい。
ところが能天気な私に灸を据えるように、「だけど……」と先生は表情を曇らせた。
「『同じことはできない』って、悲しそうな表情をしていたわ」
「そう、ですか……」
「まだ詳しくは聞いていないけど、あまり自分の性自認を良く思っていないみたいなの」
「そう……ですか……」
中学生のときに改めて調べた性的マイノリティの世界。
そのとき見た世界の広さがさながら私の浅はかさの象徴のように感じられて、激しい羞恥心に襲われたことをよく憶えている。
同時に理解ある家族のもとに生まれ落ちて、柔軟な感性を持った友達に出会って、そのおかげで自分の性自認に誇りを持てることがどれだけ恵まれたことなのかを強く実感した。
「私が出しゃばるのはちがいますよね?」
「慎重な子に見えたから様子を見つつ、かしら?」
「ですよね……」
力ない足取りで入口近くにある丸椅子まで移動すると、しぼんでいく風船のように腰を下ろした。
「どうすればいいんでしょう……」
「誤解しないでね。あなたが役に立たないって言ってるんじゃないの。ただ——」
「あ、それはわかってます。変なこと言っちゃってすみません。……実は昨日、ちょっと同級生と言い合いになっちゃって……」
膝に乗せていた体操服の入った巾着袋を両手で挟んでは意味もなく潰す。
「それでもやもやしてるせいかな? やるせなさにいつもよりダメージ食らっちゃっただけです……」
「仲直りがしたいのかしら。鳴上さんは」
「仲直り……っていうか……」
放り出した脚を軽く引いたら、保健室用の青いスリッパだけがその場に残ってしまった。
「喧嘩したわけでもないんです。ただ意見が合わなくて、だけどお互い一歩も譲らなくて、でも相手はそれでいいと思ってる……」
「鳴上さんは?」
「え?」
「鳴上さんはどう思っているの?」
「私? 私は……」
数ある感情の中で、今心を占めているものは——
「悲しい、です……」
そうだ、私は悲しかった。ううん、今だって。私は昨日からずっと悲しいんだ。
もう顔も見たくないと思えたならきっと楽だった。
それなのに私は朝凪くんの一言をずるずる引きずって、あの部屋に行く正当性を必死に探して。まあちの散歩をおざなりにしてしまうほど、私は朝凪くんが私に関心がないことに傷ついていたんだ。
「同級生の子は取り合ってもくれない人なのかしら?」
先生の問いにぶんぶんと首を大きく横に振る。
「優しい人なはずなんです。とっつきにくいと思ってたけど、実は誠実で……。あと、意外と話しやすい人でした。会話のテンポとか言葉の選び方が私好みっていうか。いつもよりちょっとだけ語彙力が増えるような、そんな感覚になれる相手だと……思ったんです……。多様性の話になるまでは……」
「多様性?」
「はい。なんか、その人はあんまり大事だと思ってないみたいで……」
「そう……」
顔を上げると、いつのまにか事務机の奥にある窓のそばに移動していた先生がにっこりと微笑んだ。
「私も興味があるわ。鳴上さんが多様性をどう捉えているのか」
「え゙っ」
「あら? 訊いちゃいけなかったかしら」
「そういうわけじゃ……」
視線を彷徨わせながら、なにか温もりが欲しくて両手で自分の首筋に触れる。
多様性という言葉が大々的に使われるようになったのはもうずいぶん前のはずなのに、どうして私は今さらこんなにも頭を悩ませているのだろう。
これまでも蔑ろにしていたつもりはないけど、昨日の朝凪くんとのやり取りでずいぶん心許ないものに落ちぶれてしまった。私がずっと多様性だと思っていたものは本当に正しかったのか、と。
「うーん……」
だけど改めて問われると、きちんと考えたことがない気がしてきた。
漠然と大事なものだという認識はあったけど、自分なりの捉え方を言葉にできるほど確たるものがあるわけではない。
そもそも私はどうしてあんなにも強く反発してしまったのだろう。売り言葉に買い言葉だけでは説明できない、どうしても譲れないなにかをあのときの私は感じていた気がするのに。
「……要らないもの、ですかね」
「要らないもの?」
首を傾げた先生と目を合わせたまま「はい」と頷いた。
「本当はそんな言葉がなくても、一人ひとりが尊重されるべきだと思うんです。だって国とか性別とか同じカテゴリに当てはまる人でも、誰一人同じ人間なんていない。複数の同じカテゴリに当てはまるとしても、それが漏れなく同じを意味するわけじゃない。世界中の人間が全員それをわかってたら、本当は言葉で促さなくてもいいはずなんです」
縋るように先生を見上げたら、「大丈夫よ。続けて」とにっこりと微笑んでくれた。
少しだけ時間をもらい、頭の中に散らばる言葉を整えてから再び口を開く。
「でも、ちがうからこそ人は判断してしまう。必要性とか優劣とか、正しさとか、他にもいろいろ……。それを必要とするものも確かにあるけど、本来はそうできないはずのものにまでやってしまわずにはいられない。それが人間なんだとしたら……」
ふうっ大きく息を吐いてから、心の芯を投げるように声に勢いを乗せて
「私はやっぱり多様性って大事だと思います」
そう言い切った。
パチパチパチパチ……青木先生が胸の前で小さく拍手をしている。保健室の外には絶対に漏れていないであろう控えめなそれが、それでも今の私には一番欲しかったものだと穏やかになり始めた心音が教えてくれた。
「へへ、ご清聴ありがとうございました」一礼した私が取り戻し始めた自信を、「素敵な考えよ」と先生はさらに後押ししてくれる。
「それをそのまま相手に伝えてはいけないの?」
「……なんていうか、そういう話じゃない気がしたんです。これで納得してくれるなら、あんな風に言い合いにはなってないような……」
昨日の私はまだここまで考えがまとまっていなかったというのもあるけど、もしまとまっていたとしてもお互いがスッキリするような終わり方をしていたとは思えない。
「だったらなおさらもう一度話し合ってみないとね」
「え?」
「鳴上さんはその子の気持ちがわからないんでしょう? けど、わかりたいと思っている。ちがうかしら?」
「わかりたい……」
——鳴上さんならわかるんじゃないかと思ったんだけど
そう言った朝凪くんの気持ちが私はわからなかった。多様性は流行りだと言った彼の気持ちが。それを私ならわかると言った彼の意図が。だって——
「多様性は“流行り”で終わらせていいものじゃない……」
「流行り……って……」
声になっていたらしい気持ちを拾った先生は、かすかな驚きを見せながら「その子に言われたの?」と続けた。私は重たく頷く。
「そんなに引きずることじゃないのかもしれないんですけど……」
「でも、譲れないんでしょう?」
「……——っ!」
そうだ。私は多様性を“流行り”と捉えてほしくなかったんだ。その思いに突き動かされて、あんな態度を取ってしまったんだ。
「はい。見過ごしたく、ないです……」
本当なら縛ることのできないものを、それでも一緒に暮らしていくために縛る必要があるのなら。そのせいで苦しむ人ができる限り現れることがないように、多様性は未来永劫掲げていく必要のあるものだと思う。
わがままを通すための無敵の武器じゃない。相手を、自分を、お互いに知るために、そして受け入れるために必要な架け橋のようなもの。私はそう思っているから——
聖母のような眼差しが私の口からするすると気持ちを引き出していった。
「鳴上さん。理解と納得は必ずしも同時である必要はないのよ」
先に立って手を引くでも、背中をそっと支えるでもなく、両手でぎゅっと抱き締めてから送り出してくれる。そんな頼もしさが青木先生の丸い声の中で光った。
「えっと……?」
「その人のことをより深く知って、あとからやっと腑に落ちることだってあるんだから。まずは『この人はこういう考え方の人なんだ』って理解するところから始めることだってまちがいじゃないの」
「でもまた同じ話になったら、やっぱり私は受け入れられないかもしれない……」
「それでもいいの。それはあなたが自分の気持ちを大切にしている証拠なんだから。だけど、受け入れられないことを理由に相手を攻撃してはいけない。ほら、あなたも言ったでしょう? 『一緒に暮らしていくために縛る必要がある』って。多様性は受け入れられない人を責めるための言葉ではなくて、さまざまな人が一つの場所で暮らしていくために必要な心得のようなものよ」
「心得………………そっか。私も、朝凪くんも、まちがってなかったんだ……」
自分のせいかもしれないと、ついつい怖気づいてしまった。受け入れるかどうか以前に、まずはもっと朝凪くんを知らなくちゃいけなかったのに。
——なにが言いたかったのかも、私にどうしてほしかったのかも、全くわからなかった。
なんて当たり前だ。一年以上一つの場所を共有していたとはいえ、きちんと言葉を交わしたのは昨日が初めてのことで、私はまだ朝凪くんのことをほとんど知らないのだから。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
体育のあとは眠くなることがほとんどだけど、次の授業は得意な現代文。週にたった一度の当たりの時間割だから、寝落ちる心配はしていない。
「先生、ありがとうございました! 私、行きますね!」
「ええ、あなたらしくね」
「はい! 失礼しましたー!」
廊下の静けさが生徒の解放感と混ざり始める。
教室へ続く階段を上る足取りはとても軽快だった。
保健室の扉をそろりと開くと、養護教諭の青木先生が「お疲れ様。鳴上さん」と笑顔を返してくれた。
先生が声量を絞っていないということは、つまり今ここで休んでいる生徒はいないということ。ひそひそする必要もないので、「めっちゃ疲れましたー」と縋るような声を返しながら後ろ手で扉を引く。
戸先のゴムが戸当たりで鈍い音を立てると同時に、授業中特有の校舎の静けさがプツンと背後から消えた。
「今、二年生の女子は硬式テニスよね」
綿のように疲れた私を見てクスクス笑いながら青木先生が尋ねた。
「そうです。ラケットは重いしボールは強いしで、もう腕がだるすぎて使い物にならなくて。あと、久しぶりに全力で走ったから膝が笑ってます」
「わかるわ。先生もラケット競技苦手だったから」
小柄で白衣に着られている感じが可愛らしい先生はおそらく五十代前後。笑うと眼鏡の奥で目がなくなるところがその柔和な印象に拍車をかけている。
私はまだ経験がないけど、体調不良のときに先生に迎え入れてもらえたらホッとすること間違いない。
「しかも、今日はテニス部の子と当たっちゃって。しごかれましたよ」
「あら、それは大変ね」
「もー、笑いごとじゃないですよ! 素人相手に本気で来るとか鬼です、鬼! 仲良くなかったら絶対訴えてる」
文句を垂れながら先生の横を通り過ぎ、部屋の奥へ進む。
二つ並んだベッドの一方の足元側にあるカゴから畳まれた制服を取り出すと、一段落したところで「じゃあ、着替えまーす」と淡いピンク色のカーテンを引いた。
学校指定の紺色のジャージを脱いで、白い半袖の体操着に手をかける。
「鳴上葵です。実はXジェンダーを自認していて、その中でも性別の概念がない無性が一番近いかなって思ってます。でも体は女性なので、普段は女性として扱ってもらって大丈夫です」
高校生活初日にあった自己紹介で私はそう高らかに宣言した。
一瞬、教室が小さくざわついたけど、それもほんの数秒のこと。やっぱり多くの先人が多様性の概念を広めてくれたおかげなのか、否定的な眼差しはひとつも感じなかった。
高校ではあらかじめ全員の前で公表しておこう——そう決意と覚悟を持って挑んだものの、白状すると心臓がひっくり返ってしまうんじゃないかってほどに早鐘を打っていた。
だから、上々の出だしに背中を押された感覚をこのときの私は確かに抱いた。
「ただ——」
自己紹介には続きがあった。
「どうしても女子更衣室で着替えることだけは抵抗があるので、保健室で着替えさせてもらいます。先生にも相談して許可をもらっているので、理解してもらえると嬉しいです。もし、この対応に不満があったら先生を通して教えてください。あと、質問があったらいつでも訊いてもらって大丈夫です。一年間、よろしくお願いします」
さすがに面食らったのか拍手の入りはまばらだった。
それでも何人かが先導するようにしっかりとした拍手を送ってくれたおかげで、強い反発に晒されることなく無事に自己紹介を終えることができた。
よかった。本当によかった。一世一代を使うにはまだ早すぎるのかもしれないけど、私にとってはそれに匹敵するほどの大勝負だったから、やっと人心地がついて身体が瞬く間にふやけていくのを実感していた。
緊張の余波でしばらくは心臓が打つ手を緩めてくれなかったものの、幸先の良いスタートを切ることができたのは間違いない。持ち帰った朗報に家族もとても喜んでくれた。
唐突なカムアウトにもかかわらず、今のところ不満の声は届いていない。一年生の間も同じ自己紹介をした数週間前からも、担任の先生にも直接確認してみたけど、本当に一つも上がっていないとのことだった。
「クラスの大半に反対されて早々に孤立。最終的に不登校」という最悪の事態も想定していたから、このまま卒業まで毎日元気に登校できることをただただ願うばかりである。
「ありがとうございました」
着替えを終えてお礼を伝えると、青木先生が「そういえば」と切り出した。
「鳴上さんと同じように、保健室で着替えたいって子が一年生にもいてね」
「えっ?! 本当ですか?!」
「あなたの存在を担任の先生から聞いて相談に来てくれたの。あなたからあらかじめ自分のことは好きに話していいって言ってもらっていたから、自己紹介でクラスメイトに公表したことも伝えたのだけれど、とても感動していたわよ」
「感動?」
「自分は隠すことしか頭になかったから、堂々としていてかっこいいって」
「ええ……かなり嬉しいかも……!」
公表してからというもの、「わがままを聞いてもらっている」という意識をずっと念頭に置いて過ごしてきたから、私の行動を真っ直ぐ評価してもらえるのはとても力になる。
公表したのは自分の意志だから、後悔なんてもちろん一ミリもしていない。それでも褒めてもらえるのは素直に嬉しい。
ところが能天気な私に灸を据えるように、「だけど……」と先生は表情を曇らせた。
「『同じことはできない』って、悲しそうな表情をしていたわ」
「そう、ですか……」
「まだ詳しくは聞いていないけど、あまり自分の性自認を良く思っていないみたいなの」
「そう……ですか……」
中学生のときに改めて調べた性的マイノリティの世界。
そのとき見た世界の広さがさながら私の浅はかさの象徴のように感じられて、激しい羞恥心に襲われたことをよく憶えている。
同時に理解ある家族のもとに生まれ落ちて、柔軟な感性を持った友達に出会って、そのおかげで自分の性自認に誇りを持てることがどれだけ恵まれたことなのかを強く実感した。
「私が出しゃばるのはちがいますよね?」
「慎重な子に見えたから様子を見つつ、かしら?」
「ですよね……」
力ない足取りで入口近くにある丸椅子まで移動すると、しぼんでいく風船のように腰を下ろした。
「どうすればいいんでしょう……」
「誤解しないでね。あなたが役に立たないって言ってるんじゃないの。ただ——」
「あ、それはわかってます。変なこと言っちゃってすみません。……実は昨日、ちょっと同級生と言い合いになっちゃって……」
膝に乗せていた体操服の入った巾着袋を両手で挟んでは意味もなく潰す。
「それでもやもやしてるせいかな? やるせなさにいつもよりダメージ食らっちゃっただけです……」
「仲直りがしたいのかしら。鳴上さんは」
「仲直り……っていうか……」
放り出した脚を軽く引いたら、保健室用の青いスリッパだけがその場に残ってしまった。
「喧嘩したわけでもないんです。ただ意見が合わなくて、だけどお互い一歩も譲らなくて、でも相手はそれでいいと思ってる……」
「鳴上さんは?」
「え?」
「鳴上さんはどう思っているの?」
「私? 私は……」
数ある感情の中で、今心を占めているものは——
「悲しい、です……」
そうだ、私は悲しかった。ううん、今だって。私は昨日からずっと悲しいんだ。
もう顔も見たくないと思えたならきっと楽だった。
それなのに私は朝凪くんの一言をずるずる引きずって、あの部屋に行く正当性を必死に探して。まあちの散歩をおざなりにしてしまうほど、私は朝凪くんが私に関心がないことに傷ついていたんだ。
「同級生の子は取り合ってもくれない人なのかしら?」
先生の問いにぶんぶんと首を大きく横に振る。
「優しい人なはずなんです。とっつきにくいと思ってたけど、実は誠実で……。あと、意外と話しやすい人でした。会話のテンポとか言葉の選び方が私好みっていうか。いつもよりちょっとだけ語彙力が増えるような、そんな感覚になれる相手だと……思ったんです……。多様性の話になるまでは……」
「多様性?」
「はい。なんか、その人はあんまり大事だと思ってないみたいで……」
「そう……」
顔を上げると、いつのまにか事務机の奥にある窓のそばに移動していた先生がにっこりと微笑んだ。
「私も興味があるわ。鳴上さんが多様性をどう捉えているのか」
「え゙っ」
「あら? 訊いちゃいけなかったかしら」
「そういうわけじゃ……」
視線を彷徨わせながら、なにか温もりが欲しくて両手で自分の首筋に触れる。
多様性という言葉が大々的に使われるようになったのはもうずいぶん前のはずなのに、どうして私は今さらこんなにも頭を悩ませているのだろう。
これまでも蔑ろにしていたつもりはないけど、昨日の朝凪くんとのやり取りでずいぶん心許ないものに落ちぶれてしまった。私がずっと多様性だと思っていたものは本当に正しかったのか、と。
「うーん……」
だけど改めて問われると、きちんと考えたことがない気がしてきた。
漠然と大事なものだという認識はあったけど、自分なりの捉え方を言葉にできるほど確たるものがあるわけではない。
そもそも私はどうしてあんなにも強く反発してしまったのだろう。売り言葉に買い言葉だけでは説明できない、どうしても譲れないなにかをあのときの私は感じていた気がするのに。
「……要らないもの、ですかね」
「要らないもの?」
首を傾げた先生と目を合わせたまま「はい」と頷いた。
「本当はそんな言葉がなくても、一人ひとりが尊重されるべきだと思うんです。だって国とか性別とか同じカテゴリに当てはまる人でも、誰一人同じ人間なんていない。複数の同じカテゴリに当てはまるとしても、それが漏れなく同じを意味するわけじゃない。世界中の人間が全員それをわかってたら、本当は言葉で促さなくてもいいはずなんです」
縋るように先生を見上げたら、「大丈夫よ。続けて」とにっこりと微笑んでくれた。
少しだけ時間をもらい、頭の中に散らばる言葉を整えてから再び口を開く。
「でも、ちがうからこそ人は判断してしまう。必要性とか優劣とか、正しさとか、他にもいろいろ……。それを必要とするものも確かにあるけど、本来はそうできないはずのものにまでやってしまわずにはいられない。それが人間なんだとしたら……」
ふうっ大きく息を吐いてから、心の芯を投げるように声に勢いを乗せて
「私はやっぱり多様性って大事だと思います」
そう言い切った。
パチパチパチパチ……青木先生が胸の前で小さく拍手をしている。保健室の外には絶対に漏れていないであろう控えめなそれが、それでも今の私には一番欲しかったものだと穏やかになり始めた心音が教えてくれた。
「へへ、ご清聴ありがとうございました」一礼した私が取り戻し始めた自信を、「素敵な考えよ」と先生はさらに後押ししてくれる。
「それをそのまま相手に伝えてはいけないの?」
「……なんていうか、そういう話じゃない気がしたんです。これで納得してくれるなら、あんな風に言い合いにはなってないような……」
昨日の私はまだここまで考えがまとまっていなかったというのもあるけど、もしまとまっていたとしてもお互いがスッキリするような終わり方をしていたとは思えない。
「だったらなおさらもう一度話し合ってみないとね」
「え?」
「鳴上さんはその子の気持ちがわからないんでしょう? けど、わかりたいと思っている。ちがうかしら?」
「わかりたい……」
——鳴上さんならわかるんじゃないかと思ったんだけど
そう言った朝凪くんの気持ちが私はわからなかった。多様性は流行りだと言った彼の気持ちが。それを私ならわかると言った彼の意図が。だって——
「多様性は“流行り”で終わらせていいものじゃない……」
「流行り……って……」
声になっていたらしい気持ちを拾った先生は、かすかな驚きを見せながら「その子に言われたの?」と続けた。私は重たく頷く。
「そんなに引きずることじゃないのかもしれないんですけど……」
「でも、譲れないんでしょう?」
「……——っ!」
そうだ。私は多様性を“流行り”と捉えてほしくなかったんだ。その思いに突き動かされて、あんな態度を取ってしまったんだ。
「はい。見過ごしたく、ないです……」
本当なら縛ることのできないものを、それでも一緒に暮らしていくために縛る必要があるのなら。そのせいで苦しむ人ができる限り現れることがないように、多様性は未来永劫掲げていく必要のあるものだと思う。
わがままを通すための無敵の武器じゃない。相手を、自分を、お互いに知るために、そして受け入れるために必要な架け橋のようなもの。私はそう思っているから——
聖母のような眼差しが私の口からするすると気持ちを引き出していった。
「鳴上さん。理解と納得は必ずしも同時である必要はないのよ」
先に立って手を引くでも、背中をそっと支えるでもなく、両手でぎゅっと抱き締めてから送り出してくれる。そんな頼もしさが青木先生の丸い声の中で光った。
「えっと……?」
「その人のことをより深く知って、あとからやっと腑に落ちることだってあるんだから。まずは『この人はこういう考え方の人なんだ』って理解するところから始めることだってまちがいじゃないの」
「でもまた同じ話になったら、やっぱり私は受け入れられないかもしれない……」
「それでもいいの。それはあなたが自分の気持ちを大切にしている証拠なんだから。だけど、受け入れられないことを理由に相手を攻撃してはいけない。ほら、あなたも言ったでしょう? 『一緒に暮らしていくために縛る必要がある』って。多様性は受け入れられない人を責めるための言葉ではなくて、さまざまな人が一つの場所で暮らしていくために必要な心得のようなものよ」
「心得………………そっか。私も、朝凪くんも、まちがってなかったんだ……」
自分のせいかもしれないと、ついつい怖気づいてしまった。受け入れるかどうか以前に、まずはもっと朝凪くんを知らなくちゃいけなかったのに。
——なにが言いたかったのかも、私にどうしてほしかったのかも、全くわからなかった。
なんて当たり前だ。一年以上一つの場所を共有していたとはいえ、きちんと言葉を交わしたのは昨日が初めてのことで、私はまだ朝凪くんのことをほとんど知らないのだから。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
体育のあとは眠くなることがほとんどだけど、次の授業は得意な現代文。週にたった一度の当たりの時間割だから、寝落ちる心配はしていない。
「先生、ありがとうございました! 私、行きますね!」
「ええ、あなたらしくね」
「はい! 失礼しましたー!」
廊下の静けさが生徒の解放感と混ざり始める。
教室へ続く階段を上る足取りはとても軽快だった。
