季節のはざまに虹を架ける

 あとはお湯を張るだけという状態まで整えて浴室を出ると、廊下で待っていたまあちに「おまたせ」と一声掛けて、そのまま向かいにある自身の部屋に一緒に入った。
 扉を閉めて振り向くと、まあちは幾何学模様のラグの上におすわりしている。これから起こることがわかっているのだろう、ギラギラとした熱い眼差しがまだ制服のままの全身に容赦なく突き刺さってきた。
 いつもは帰宅して即部屋着になるのに、今日はいろいろなことが重なってそれどころではなかった。お風呂掃除のときにようやく気が付いて靴下だけ脱いだけど、それ以外は面倒で腕まくりをしてやり過ごした。
 ブレザー、スカートともに紺色のなんの変哲もない制服を順に脱いでいく。
 スラックスの導入とともに数年前に学ランとセーラー服に代わって採用されたデザインで、ストライブ柄の青いネクタイは同色同柄のリボンを選ぶこともできる。
 制服を廃止する学校も増えたけど、あおいは制服が着たくて自らこの高校を選んだ。
 いくつか細かい希望はあるものの、今のところ制服に関しては取り立てて言うほどの不満はない。

「では、行きましょー!」

 黒地に白色のスポーツメーカーのロゴが入ったスウェット素材のセットアップに着替えて、再びまあちと一緒にリビングへ向かった。
 リュックからスマホを取り出し、まあちに首輪を着けると、手早く必要なものを準備して家を出る。
 意気揚々と飛び出しておきながらまあちはエレベーターが怖い。密室か動く音が嫌なのか理由はわからないけど、とりあえず絶対に乗ってくれないので、いつものごとく抱えて非常階段でマンションの一階まで降りた。四階との往復になるからもはやちょっとしたトレーニングだ。
 お決まりの散歩コースをまあちの速さに合わせて歩いていくと、十五分ほどで「やまべ動物病院」の看板が見えてきた。まあちもお世話になっている動物病院で、手が空いているときは院長と事務スタッフとして働いている奥さんに撫でてもらうのが日課になっている。
 今日も私たちの姿を認めて奥さんのほうから出てきてくれた。

佐保子(さほこ)さん、こんばんは」
「こんばんは、あおいちゃん。まあちも、こんばんはー! 今日もあなたはかわいいねぇ」

 おしりごと尻尾を振って跳び回るまあちをかがんでくれた佐保子さんが抱え込むように撫で回してくれる。
 さらにはまあちの毛に顔を(うず)めて、「はあぁぁぁぁ……やっぱりいいわぁ、この感触」と味わう佐保子さんはもはや自分の姿を見ているよう。
 「目の前にあったら抗えないですよね」なんて共感していたら、

「こら、人様の子になにをしているんだ」

 と院長も出てきてくれた。

「仕方ないじゃない。こんなにかわいいんだから。ねー、まあち」
「だからって限度があるだろう。葵さん、いつも妻がすまないね」
「いえいえ、まあちも喜んでますから。定休日なんて目に見えてしょんぼりしてるんですよ」
「はは、それはちょっと見てみたいな」

 ありがたいことに患者さんが来なければ、ご夫婦はまあちの気が済むまでかわいがってくれる。
 今日も十分ほどお付き合いいただいた。不完全燃焼のまま帰るときのまあちの抵抗力は凄まじいので、足元の満足げな表情に胸を撫で下ろす。

「今日もありがとうございました。いつもお手数をおかけします」
「ぜーんぜん! こちらこそ毎日まあちに癒やしてもらってるんだから」
「そういえば、今日はいないんですね。——香住(かすみ)くん」

 言いながら佐保子さんの背後にある院内を覗いてみるけど人影はない。

「ええ、今日は午後に私が出られたから、彼には午前中だけお願いしたの」

 香住くんは数ヶ月ほど前に事務スタッフとして入ったアルバイトの男の子だ。
 当初は全く口を利いてくれなくて、名前も同い年なことも佐保子さんが教えてくれたけど、まあちは初対面ながら興味を示していた。動物病院で働くだけあって親しみやすいオーラでも出ていたのかもしれない。今では院長や佐保子さんを前にしたときと同じように、嬉々として駆け寄っていくほどすっかり懐いてしまった。
 残念ながら私にはまだ心を開いてくれていないようで、挨拶と調子がいいときにやっと天気の話ができる程度である。しかも、天気と言ってもここに来るのは決まって夕方だから、「きれいな夕日ですね」「そうですね」以外のバリエーションはない。

「じゃあ、そろそろ失礼します」
「うん。またあしたね」
「気をつけて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございました。行こっか、まあち」

 軽くリードを引いて踵を返すと、また同じペースで来た道を戻っていく。
 見上げた先の空はすっかり宵を迎えていた。濃紺の世界を照らすには小さすぎる星が散らばっていて、それらをぼんやりと眺めながら「『またあした』、か……」とため息をこぼす。
 明日、どうしよう。
 別れ際の言葉からして、きっと朝凪くんは明日もあの部屋に来る。
 もとより部内の人間関係なんて毒にも薬にもならない人なのだ。そんな彼が今日の出来事を確執と認識しているとは思えないし、仮にそう捉えていたとしても、それが彼にとってあの部屋と距離を置く理由になるとも思えない。
 そうでもなければあの状況で『またあした』なんて言葉はまず出てこないと思う。
 本音を言えば私は行きたい。
 大好きな漫画を静かに集中して読めるお気に入りの場所。
 本好き以外も大歓迎と言われて入部を即決した日から、放課後に欠かさず足を運んだ思い入れのある場所。
 行かない選択肢なんて私の中には存在しないのに、
 ——ただ、ここは仲良くなれないって事実が生まれるだけ
 朝凪くんの一言が容赦なく自信を搾り取っていく。
 また私は気付かないうちに間違えてしまったのだろうか。表情、言葉選び、態度……思い返すと、それらすべてが原因のように思えて、泥沼に足を取られたまま動けない。
 そんな中、かすかな希望とでも言うように脳裏をちらつくものがある。
 責め立てるというよりは噛んで含めるような柔らかい、それでいて毅然としていた朝凪くんの口調。さらに彼が難色を示していたのは、私の意見ではなく世間の多様性に対する見方を受け入れることに対してだった。
 それらは会話がヒートアップしようとも終始一貫していた気がする。
 なら——、と希望が私の背中を押した。ためらう必要なんてどこにもない。私自身が拒絶されたわけではないのだから——そこまで考えて肩を落とす。そうだった、私自身が拒絶されたんだった。

「はあ…………」

 落ち着かないな、私の情緒。

「……って、あれ?」

 いつのまにか自宅マンションのエントランスに到着していた。突っ立ったままなかなか非常階段に向かわない私をまあちが小首をかしげて見上げている。
 しまった。考えることに集中しすぎて、全然まあちの相手をしてあげられなかった。少し前を歩きながらこちらを振り返るまあちに応えるのも、散歩中のコミュニケーションの一つなのに。

「ごめん、まあち! 家に着いたら、おもちゃでいっぱいあそぼうね」

 非常階段まで回ってまあちを抱き上げると、散歩の疲労からか先ほどよりずっしりと腕に来る感じがした。