ダイニングに移動して先ほど朝凪くんがいた席の向かいに腰を下ろすと、キッチンから戻って来た朝凪くんが入れ直してくれたお茶のグラスを差し出した。
「ありがとう」
「こちらこそ」
受け取ったグラスをそのまま口へ運ぼうとしていた手を止める。
「……それ、なにに対する感謝?」
「ん?」
「『こちらこそ』って、前も言ってたよね。ほら、その……、あの部屋で、私が、えーっと……」
「ああ、泣き腫らした日?」
「うわあぁぁ……っ! あれは忘れてって次の日言った!!!!」
「無理かなって言ったよ」
風鈴の音が聞こえてきそうな涼やかな笑みを残して、朝凪くんは相変わらず丁寧な所作でグラスに口を付けた。
ぶつぶつ小言を並べながら、私も一度机に置いていたグラスを再び手に取って一口含む。冷えたお茶の香ばしさが火照った心に爽快感をもたらしてくれた。
視界の隅にグラスがそっと置かれ、「春海のことだよ」と朝凪くんが言う。
「なに……」
「さっきの質問の答え」
「ああ……でも、さっきも言った通り、励まされてたのは私のほうだから」
当の春海くんは今、一時退室している。ある程度目の腫れが引くまでは戻ってこないんじゃないかと朝凪くんが言っていた通り、今のところ閉じられたリビングのドアの向こうに春海くんの気配はない。
二階にそれぞれの自室があるようで、そこで厚みを帯びた目元と格闘しているのだと思うと、身に覚えのある私はその大変さが思い出されて胸が痛む。
「感謝されるようなことは、なんにもしてないよ」
「そんなことない」
グラスの中で氷が寄り添うように位置を変えた。
「涙が枯れるほど泣き切るなんて、今まで一度もできなかったから。やっと全部吐き出せたことに、正直今、かなりほっとしてる」
「それは……」
「春海からバイト先の常連さんと仲良くなったって聞いたときは驚いたんだ」
「……えっ?! 春海くん、私のこと家で話してるの?!」
「おれにはね。って言っても、事細かに説明してくるわけじゃないよ? 『同い年で、Xジェンダーの人』程度の情報だったけど、なんとなく鳴上さんじゃないかなって思ったんだ」
「まあ、年齢も性自認も同じで、同じ生活圏内に住んでる人なんて、そういないもんね」
「それもあるけど……あの日を境に、春海が見違えるほど楽しそうになったから。バイト先でもよく話すようになって、また会う約束もして、頻繁に連絡も取り合ってるんだって、嬉しそうに話してくれる。そんな風に人を前向きに動かせる人なんて、おれには鳴上さんしか思い浮かばなかった」
「なっ……?!」
元部室で泣き腫らした日に言われた『こちらこそ』のほうは、きっとこれに対する言葉だったんだ。
どうしよう。めちゃくちゃ嬉しい。春海くんの変化も、朝凪くんの認識も、すべてが私の存在を肯定してくれるもので、そんな心根の優しい二人と知り合えた幸運にしばらく浸っていたくなる。というか、浸っていた。のに。
「だから、鳴上さんを家に誘うことに踏み切れない春海の背中を押したんだ」
「だったら、なんであらかじめ教えてくれなかったの? 春海くんが家族だって」
「面倒じゃない?」
「はい?」
「自分が間に立って、それぞれに関係性を説明するより、会ってもらったほうが早い」
「ええぇぇぇ……」
「あと、鳴上さんの驚く顔が見たかったから」
「それが一番の本音だろ」
唇がわなわな震え始めたのを感じて、話が大きく逸れてしまいそうな気配がした。「……ていうかっ!」無理やり本筋へ戻す。
「そんなに春海くんから私の話聞いてたなら、朝凪くんにはつらい気持ちとか打ち明けてたんじゃないの? さっきも『おれには』って言ってたし」
「まさか。おれが一番打ち明けづらい相手だったよ」
数秒前のしたり顔はどこへやら。いつだったか、きょうだいの話をしたときに『いないほうがよかった』と言った朝凪くんが今またここにいる。
持ち得る嫌悪感をすべてまとめて自分に投げつけるような口調と、それを甘んじて受け入れる表情。また前みたいに心を閉ざされるのかもしれない——そんな恐怖心にほんの一瞬襲われたけど、朝凪くんが口を開く気配がしてすぐに胸を撫で下ろした。
だけど、続いた言葉に私はたちまち聞いたことを後悔しそうになった。
「おれがいなければ、春海はあんな惨い言葉を聞かずに済んだ」
「それは……どういう……」
「同じ母親の腹からほぼ同時に生まれて、同じように育てられた。なのに、好きな人から選ばれる遺伝子を、おれが……おれだけが受け継いでしまった。その事実に、擁護できる余地なんてない」
「…………」
「そんなことない」なんて気休めにもならない言葉、口が裂けても言えなかった。
だって、ついさっき私は推し量った春海くんの感情の中に嫉妬を入れたばかりだ。なにより、他の誰でもない私自身が心春を強く羨んでいた。涼介の気持ちが心春に向いていたわけでもないのに、ただの友達という間柄でもそうだった。
その相手が身内だなんて。もし私が同じ立場だったら——胸の奥で蠢いていたかもしれない感情の激しさにゾッとする。
「それなのに春海は……ずっとおれに優しい」
「え……?」
「信じられないよね。見てられないほど深く傷付いてるのに、おれに当たったことはただの一度もないなんて。ずっと穏やかで、優しくて、気遣い屋で……でも、きっと家族にも見えないところで、独りで泣いてる……」
朝凪くんはテーブルに両肘をついて、組んだ手に額を乗せるように俯いた。
初めて耳にする弱々しい声は、悲しみに、自分に対する怒りに、やるせなさに……あらゆる負の感情に震えていて、朝凪くんごと海の泡となって消えてしまいそうだ。
胸が引き絞られるように痛い。痛いのに、声をかけることも、手を差し伸べることもできない。ただ見守るだけで精一杯で、その姿が目の前から突然いなくなってしまわないように願うことしか——……
ふいに視線の先の違和感に気付く。リビングの扉がわずかに開いている。
それ以上開くことも、閉まることもない様子に希望を抱いた私は、半ば無意識に朝凪くんに声をかけていた。
「で、でも、それは朝凪くんが悪いわけじゃないって、春海くんもわかってたからじゃないの? 確かに歳のちがうきょうだいとか友達よりも、自分の望む姿がずっと近くに……すぐ隣にあったかもしれないけど、それでも朝凪くんのせいじゃないって春海くんは……」
「なら、おれは……どうすればよかったのかな……」
「え……?」
「どれだけ寄り添ったところで、おれ自身が性的マイノリティじゃない以上、春海の苦しみを完全に理解することはできない。耳に届いた噂を利用して、マイノリティが受ける扱いを疑似体験してみたけど……わかったのは、想像以上に世間が“優しい”ことだけだった……」
「じゃ、じゃあ、朝凪くんのあの噂って……」
私の動揺を聞いて、朝凪くんがゆっくりと顔を上げた。
吹き抜け窓から差し込む彩度の高い光に照らされ、琥珀を閉じ込めたような瞳がきらきらと哀しみに揺れている。
「……春海のことが、おれのこととして広まったんだろうね。おれたち中学は私立で、ほとんどが内部進学だから高校に知り合いはいないし、どんな経路を辿ったのかは知らないけど」
「朝凪くんの中学時代の同級生を友達に持つ誰か」という出どころは、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「ごめんね。鳴上さんもおれが性的マイノリティだと思ってたから、いろいろ打ち明けてくれたのに……。ずっと謝りたかったんだ」
「それは、全然……。確かに近い立場かもしれないって特別視はしてたけど、自分のことを話したのは……朝凪くんと過ごす時間が楽しかったから、優しい人だと思ったからで……。だから、自分のことを知ってもらって、朝凪くんのことも知りたいと思って……」
「そっか。嬉しいな。ありがとう」
にっこり笑顔で朝凪くんが言った。
なんでだろう。嬉しいと言ってくれているのに、私の気持ちなんて全く響いていない気がする。
「……でも、買い被りすぎだよ。おれは、自分の半身すらも助けることができない。それどころか、傷付ける原因そのものなんだから」
やっぱり、そうだ。今の朝凪くんの心に響かせられるのは、私の言葉なんかじゃない。
「結局、おれにできたのは、せいぜい帰宅時間を調整するぐらいで……」
「調整?」
「母親がね、ちょっと極端な人なんだ。『私は性的マイノリティに理解があります』って意識がすごい。『私はわかってるから』『いつでも春海の味方だから』って常に言ってるけど、理想が高すぎて本質的なところを見ようとはしないから、春海がなにに悩んでいて、本当はどう在りたいのか、そこに寄り添える人ではなかった」
「悪い人ではないんだけどね」引いた波のような微笑みで朝凪くんが言う。
言葉の節々から、そんなお母さんと春海くんのことを、ただ傍観していただけではないことがなんとなく感じられた。
「じゃあ、いつも午後四時四十五分に帰ってたのは……」
「うん。母親が仕事から帰ってくる前に家に着ける時間。できる限り、春海と二人きりにしたくなくて。でも、おれがいたところで気が詰まるだろうし、極力春海の時間を邪魔せず、なおかつおしゃべりな母親の話し相手を春海一人に任せる必要のない時間」
「それ……春海くんは知ってるの?」
「知らないよ?」
どうして知る必要があるのだと、異国の血が色濃く出た淡い顔立ちが語っている。
——あんまり自分のこと、安売りしないほうがいいと思うよ。
あのとき話したことの全部が朝凪くんなりの助言だったのだと今ならわかる。自分から厄介事に巻き込まれる確率を上げている私を心配しての言葉だったのだと。
だから、言ったのに。言葉が足りないって。難しい言葉をたくさん使ってめちゃくちゃ深いところまで考えてるくせに、それを全部自分の頭の中だけで完結させてしまうから、本当は思いやりにあふれてるのに全然伝わってこないんだよ。
私の気持ちもろとも、言ってやれ。
「だって。……——春海くん」
「……え?」
勢いよく振り返った朝凪くんの視線の先で、「ふえっ」という小さな悲鳴が上がったあと、リビングの扉が恐る恐る開かれた。
気まずげにこちらを見る春海くんは、本当に目の腫れを治す気があるのだろうか。そう問いたくなるほど、まだ、いや、また頬を涙で濡らしている。
「……謀ったの?」
「まさか」
追及の眼差しに私は肩を竦める。
「ち、ちがうの……! わたしが勝手に盗み聞きしてただけで……。だって……だって、令夏……、いつもなにも言ってくれないから……」
「……言うもなにも、言えることがなにも——」
「それでも、知りたかった……っ!」
突然の声量に驚いて朝凪くんをチラッと見ると、同じく目を見開いていた。春海くんが声を荒げるなんて、もしかしたら初めてのことなのかもしれない。
「あ、あんなこと言われて……っ、確かに、ショックだったけど……、でもっ、わ、わたしは、わたしのせいで……令夏がそういう風に見られたことのほうが、悲しかった……」
「……なんで……」
「あ、当たり前だよ! 大事な家族だし……っ、わたしだって、令夏のこと、半身だって思ってる……! い、一卵性じゃないから、遺伝子はきょうだいと変わんないかもしれないけど……それでも、やっぱり、一緒に生まれてきたから……。それを、伝えたいのに……申し訳なさそうにわたしから離れるから……。せめて……つ、繋がってられるようにって……話題、探して……」
「…………」
「……学校に、行けなくなって……と、友達も、失って……、令夏も……わたしのこと、嫌になったのかと思った、けど……。でも……でも、なんとなく、そうじゃない気がしたから……」
カタッ——……
指先でちょんと触れるだけですぐに壊れてしまいそうなほど繊細な静寂に、朝凪くんが立ち上がる音だけが響いた。扉の前、吹き抜け窓から差し込む光の届かないところへ向かう足取りには、まだ少し戸惑いのようなものが見て取れる。
それでも真っ直ぐに進んだ朝凪くんは、春海くんの前で足を止めると軽く上向いた。
室内だというのに、風が止んだ気配がする。
やがて、夏の日差しに照らされた背中が動いて、そっと春海くんの頭に手を乗せた。
「ごめん……」
波一つない水面に小さな雫を一つ落とすような声。
「……グスッ…………ズッ…………」
「ごめん。春海……」
「……ひっ……」
「ごめん——……」
「うっ……くっ……うわあぁぁん…………っ!」
お互いがお互いの背中に手を回すのは、ぴったり同時だった。ライトブルーのシャツを皺がいくほど握り締める春海くんを、朝凪くんがしなやかに受け止めている。
「れいかぁぁ……っ!」
「ん?」
「ひっ……うっ……、あっ、ありがとう……。ずっと……ずっと……ありがとう……」
「……うん。おれも。……ありがとう」
風のない静かな夏の朝、まだ寝ぼけている波の音に耳を傾けながら、グッと体を伸ばして暑さの気配を胸いっぱいに吸い込む。二人を眺める私の心は、そんな充足感で満たされていた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
受け取ったグラスをそのまま口へ運ぼうとしていた手を止める。
「……それ、なにに対する感謝?」
「ん?」
「『こちらこそ』って、前も言ってたよね。ほら、その……、あの部屋で、私が、えーっと……」
「ああ、泣き腫らした日?」
「うわあぁぁ……っ! あれは忘れてって次の日言った!!!!」
「無理かなって言ったよ」
風鈴の音が聞こえてきそうな涼やかな笑みを残して、朝凪くんは相変わらず丁寧な所作でグラスに口を付けた。
ぶつぶつ小言を並べながら、私も一度机に置いていたグラスを再び手に取って一口含む。冷えたお茶の香ばしさが火照った心に爽快感をもたらしてくれた。
視界の隅にグラスがそっと置かれ、「春海のことだよ」と朝凪くんが言う。
「なに……」
「さっきの質問の答え」
「ああ……でも、さっきも言った通り、励まされてたのは私のほうだから」
当の春海くんは今、一時退室している。ある程度目の腫れが引くまでは戻ってこないんじゃないかと朝凪くんが言っていた通り、今のところ閉じられたリビングのドアの向こうに春海くんの気配はない。
二階にそれぞれの自室があるようで、そこで厚みを帯びた目元と格闘しているのだと思うと、身に覚えのある私はその大変さが思い出されて胸が痛む。
「感謝されるようなことは、なんにもしてないよ」
「そんなことない」
グラスの中で氷が寄り添うように位置を変えた。
「涙が枯れるほど泣き切るなんて、今まで一度もできなかったから。やっと全部吐き出せたことに、正直今、かなりほっとしてる」
「それは……」
「春海からバイト先の常連さんと仲良くなったって聞いたときは驚いたんだ」
「……えっ?! 春海くん、私のこと家で話してるの?!」
「おれにはね。って言っても、事細かに説明してくるわけじゃないよ? 『同い年で、Xジェンダーの人』程度の情報だったけど、なんとなく鳴上さんじゃないかなって思ったんだ」
「まあ、年齢も性自認も同じで、同じ生活圏内に住んでる人なんて、そういないもんね」
「それもあるけど……あの日を境に、春海が見違えるほど楽しそうになったから。バイト先でもよく話すようになって、また会う約束もして、頻繁に連絡も取り合ってるんだって、嬉しそうに話してくれる。そんな風に人を前向きに動かせる人なんて、おれには鳴上さんしか思い浮かばなかった」
「なっ……?!」
元部室で泣き腫らした日に言われた『こちらこそ』のほうは、きっとこれに対する言葉だったんだ。
どうしよう。めちゃくちゃ嬉しい。春海くんの変化も、朝凪くんの認識も、すべてが私の存在を肯定してくれるもので、そんな心根の優しい二人と知り合えた幸運にしばらく浸っていたくなる。というか、浸っていた。のに。
「だから、鳴上さんを家に誘うことに踏み切れない春海の背中を押したんだ」
「だったら、なんであらかじめ教えてくれなかったの? 春海くんが家族だって」
「面倒じゃない?」
「はい?」
「自分が間に立って、それぞれに関係性を説明するより、会ってもらったほうが早い」
「ええぇぇぇ……」
「あと、鳴上さんの驚く顔が見たかったから」
「それが一番の本音だろ」
唇がわなわな震え始めたのを感じて、話が大きく逸れてしまいそうな気配がした。「……ていうかっ!」無理やり本筋へ戻す。
「そんなに春海くんから私の話聞いてたなら、朝凪くんにはつらい気持ちとか打ち明けてたんじゃないの? さっきも『おれには』って言ってたし」
「まさか。おれが一番打ち明けづらい相手だったよ」
数秒前のしたり顔はどこへやら。いつだったか、きょうだいの話をしたときに『いないほうがよかった』と言った朝凪くんが今またここにいる。
持ち得る嫌悪感をすべてまとめて自分に投げつけるような口調と、それを甘んじて受け入れる表情。また前みたいに心を閉ざされるのかもしれない——そんな恐怖心にほんの一瞬襲われたけど、朝凪くんが口を開く気配がしてすぐに胸を撫で下ろした。
だけど、続いた言葉に私はたちまち聞いたことを後悔しそうになった。
「おれがいなければ、春海はあんな惨い言葉を聞かずに済んだ」
「それは……どういう……」
「同じ母親の腹からほぼ同時に生まれて、同じように育てられた。なのに、好きな人から選ばれる遺伝子を、おれが……おれだけが受け継いでしまった。その事実に、擁護できる余地なんてない」
「…………」
「そんなことない」なんて気休めにもならない言葉、口が裂けても言えなかった。
だって、ついさっき私は推し量った春海くんの感情の中に嫉妬を入れたばかりだ。なにより、他の誰でもない私自身が心春を強く羨んでいた。涼介の気持ちが心春に向いていたわけでもないのに、ただの友達という間柄でもそうだった。
その相手が身内だなんて。もし私が同じ立場だったら——胸の奥で蠢いていたかもしれない感情の激しさにゾッとする。
「それなのに春海は……ずっとおれに優しい」
「え……?」
「信じられないよね。見てられないほど深く傷付いてるのに、おれに当たったことはただの一度もないなんて。ずっと穏やかで、優しくて、気遣い屋で……でも、きっと家族にも見えないところで、独りで泣いてる……」
朝凪くんはテーブルに両肘をついて、組んだ手に額を乗せるように俯いた。
初めて耳にする弱々しい声は、悲しみに、自分に対する怒りに、やるせなさに……あらゆる負の感情に震えていて、朝凪くんごと海の泡となって消えてしまいそうだ。
胸が引き絞られるように痛い。痛いのに、声をかけることも、手を差し伸べることもできない。ただ見守るだけで精一杯で、その姿が目の前から突然いなくなってしまわないように願うことしか——……
ふいに視線の先の違和感に気付く。リビングの扉がわずかに開いている。
それ以上開くことも、閉まることもない様子に希望を抱いた私は、半ば無意識に朝凪くんに声をかけていた。
「で、でも、それは朝凪くんが悪いわけじゃないって、春海くんもわかってたからじゃないの? 確かに歳のちがうきょうだいとか友達よりも、自分の望む姿がずっと近くに……すぐ隣にあったかもしれないけど、それでも朝凪くんのせいじゃないって春海くんは……」
「なら、おれは……どうすればよかったのかな……」
「え……?」
「どれだけ寄り添ったところで、おれ自身が性的マイノリティじゃない以上、春海の苦しみを完全に理解することはできない。耳に届いた噂を利用して、マイノリティが受ける扱いを疑似体験してみたけど……わかったのは、想像以上に世間が“優しい”ことだけだった……」
「じゃ、じゃあ、朝凪くんのあの噂って……」
私の動揺を聞いて、朝凪くんがゆっくりと顔を上げた。
吹き抜け窓から差し込む彩度の高い光に照らされ、琥珀を閉じ込めたような瞳がきらきらと哀しみに揺れている。
「……春海のことが、おれのこととして広まったんだろうね。おれたち中学は私立で、ほとんどが内部進学だから高校に知り合いはいないし、どんな経路を辿ったのかは知らないけど」
「朝凪くんの中学時代の同級生を友達に持つ誰か」という出どころは、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「ごめんね。鳴上さんもおれが性的マイノリティだと思ってたから、いろいろ打ち明けてくれたのに……。ずっと謝りたかったんだ」
「それは、全然……。確かに近い立場かもしれないって特別視はしてたけど、自分のことを話したのは……朝凪くんと過ごす時間が楽しかったから、優しい人だと思ったからで……。だから、自分のことを知ってもらって、朝凪くんのことも知りたいと思って……」
「そっか。嬉しいな。ありがとう」
にっこり笑顔で朝凪くんが言った。
なんでだろう。嬉しいと言ってくれているのに、私の気持ちなんて全く響いていない気がする。
「……でも、買い被りすぎだよ。おれは、自分の半身すらも助けることができない。それどころか、傷付ける原因そのものなんだから」
やっぱり、そうだ。今の朝凪くんの心に響かせられるのは、私の言葉なんかじゃない。
「結局、おれにできたのは、せいぜい帰宅時間を調整するぐらいで……」
「調整?」
「母親がね、ちょっと極端な人なんだ。『私は性的マイノリティに理解があります』って意識がすごい。『私はわかってるから』『いつでも春海の味方だから』って常に言ってるけど、理想が高すぎて本質的なところを見ようとはしないから、春海がなにに悩んでいて、本当はどう在りたいのか、そこに寄り添える人ではなかった」
「悪い人ではないんだけどね」引いた波のような微笑みで朝凪くんが言う。
言葉の節々から、そんなお母さんと春海くんのことを、ただ傍観していただけではないことがなんとなく感じられた。
「じゃあ、いつも午後四時四十五分に帰ってたのは……」
「うん。母親が仕事から帰ってくる前に家に着ける時間。できる限り、春海と二人きりにしたくなくて。でも、おれがいたところで気が詰まるだろうし、極力春海の時間を邪魔せず、なおかつおしゃべりな母親の話し相手を春海一人に任せる必要のない時間」
「それ……春海くんは知ってるの?」
「知らないよ?」
どうして知る必要があるのだと、異国の血が色濃く出た淡い顔立ちが語っている。
——あんまり自分のこと、安売りしないほうがいいと思うよ。
あのとき話したことの全部が朝凪くんなりの助言だったのだと今ならわかる。自分から厄介事に巻き込まれる確率を上げている私を心配しての言葉だったのだと。
だから、言ったのに。言葉が足りないって。難しい言葉をたくさん使ってめちゃくちゃ深いところまで考えてるくせに、それを全部自分の頭の中だけで完結させてしまうから、本当は思いやりにあふれてるのに全然伝わってこないんだよ。
私の気持ちもろとも、言ってやれ。
「だって。……——春海くん」
「……え?」
勢いよく振り返った朝凪くんの視線の先で、「ふえっ」という小さな悲鳴が上がったあと、リビングの扉が恐る恐る開かれた。
気まずげにこちらを見る春海くんは、本当に目の腫れを治す気があるのだろうか。そう問いたくなるほど、まだ、いや、また頬を涙で濡らしている。
「……謀ったの?」
「まさか」
追及の眼差しに私は肩を竦める。
「ち、ちがうの……! わたしが勝手に盗み聞きしてただけで……。だって……だって、令夏……、いつもなにも言ってくれないから……」
「……言うもなにも、言えることがなにも——」
「それでも、知りたかった……っ!」
突然の声量に驚いて朝凪くんをチラッと見ると、同じく目を見開いていた。春海くんが声を荒げるなんて、もしかしたら初めてのことなのかもしれない。
「あ、あんなこと言われて……っ、確かに、ショックだったけど……、でもっ、わ、わたしは、わたしのせいで……令夏がそういう風に見られたことのほうが、悲しかった……」
「……なんで……」
「あ、当たり前だよ! 大事な家族だし……っ、わたしだって、令夏のこと、半身だって思ってる……! い、一卵性じゃないから、遺伝子はきょうだいと変わんないかもしれないけど……それでも、やっぱり、一緒に生まれてきたから……。それを、伝えたいのに……申し訳なさそうにわたしから離れるから……。せめて……つ、繋がってられるようにって……話題、探して……」
「…………」
「……学校に、行けなくなって……と、友達も、失って……、令夏も……わたしのこと、嫌になったのかと思った、けど……。でも……でも、なんとなく、そうじゃない気がしたから……」
カタッ——……
指先でちょんと触れるだけですぐに壊れてしまいそうなほど繊細な静寂に、朝凪くんが立ち上がる音だけが響いた。扉の前、吹き抜け窓から差し込む光の届かないところへ向かう足取りには、まだ少し戸惑いのようなものが見て取れる。
それでも真っ直ぐに進んだ朝凪くんは、春海くんの前で足を止めると軽く上向いた。
室内だというのに、風が止んだ気配がする。
やがて、夏の日差しに照らされた背中が動いて、そっと春海くんの頭に手を乗せた。
「ごめん……」
波一つない水面に小さな雫を一つ落とすような声。
「……グスッ…………ズッ…………」
「ごめん。春海……」
「……ひっ……」
「ごめん——……」
「うっ……くっ……うわあぁぁん…………っ!」
お互いがお互いの背中に手を回すのは、ぴったり同時だった。ライトブルーのシャツを皺がいくほど握り締める春海くんを、朝凪くんがしなやかに受け止めている。
「れいかぁぁ……っ!」
「ん?」
「ひっ……うっ……、あっ、ありがとう……。ずっと……ずっと……ありがとう……」
「……うん。おれも。……ありがとう」
風のない静かな夏の朝、まだ寝ぼけている波の音に耳を傾けながら、グッと体を伸ばして暑さの気配を胸いっぱいに吸い込む。二人を眺める私の心は、そんな充足感で満たされていた。
