季節のはざまに虹を架ける

「不登校……」

 公園で言いかけたのはこのことだったんだ、と瞬時に思い至る。
 
「いつから?」

 詳しく聞く前に決めつけるようなことはしたくなくて、あまり声に感情を乗せないようにしたけど、胸の内に芽生えた痛みを上手く隠すことができなかった。
 
「中学二年の、終わりごろから……です。わたし、恋愛対象が……男性、なんですけど……」
「うん」
「同じグループの子の一人を……す、好きに、なって……。それで…………」

 さらに小さくなった春海くんの姿は、公園で話し始めたころに逆戻りしたみたいだ。
 それでも当時のような心の隔たりを感じない分、知ることは許されているのだという思いが伝わってくる。あのときは並んで座っているのに、分厚い壁が私たちの間に本当に存在しているんじゃないかと思うほど果てしなく遠かった。

「それ、で…………」

 言いかけて、でも声にならない。それを何度か繰り返してから、春海くんはとうとう口を噤んでしまった。奥歯をグッと強く噛んで、込み上げる感情をこらえているように見える。
 続きを催促するのはさすがにためらわれる状況で、どうすることもできずにいると、

「その人に言われたんだよ。『ありえない』って」

 言葉にできないのか、それともしたくないのか。私にはまだ正確に汲み取ることのできない春海くんの痛みを朝凪くんがさらりと引き継いだ。
 衝撃的な言葉に、私は座面に手を突いて勢いよく振り向く。

「面と向かってじゃないよ。思いがけず、その人とクラスメイト数人が教室で話してるのを聞いたんだ。昇降口で鉢合わせて帰ろうとしたところで、春海が教室に忘れ物をしたことに気が付いた。それでおれも一緒に戻ったんだけど……神の悪戯、とでも言うのかな。ちょうど、話題が春海の好きな人についてだった」
「……それは、告白したから……?」

 肯定してほしいのか、否定してほしいのか、自分でもわからなかった。
 どう転んでも、いわゆるハッピーエンドに向かうことができそうにない状況に、ただただ戸惑うしかできない。

「告白はしてなかったよ……まだ」
「“まだ”?」
「当時、春海は春海を含めて三人でよく行動してたんだけど——」

 春海くんと偶然会ったときのことを思い出す。
 同年代の男の子二人。ひょっとして彼らのことだろうか。

「そのうちの一人に春海の気持ちがバレたんだ。仮に好きな人をAとすると、もう一人の友達Bにバレた、ということになるね。ただ、Bは協力的だった。鳴上さんほど大々的ではないにしろ、春海も性自認は公表していて、特にAとBはより理解のある同級生として春海も信頼してた。そんなBだから春海の恋心を受け入れて、応援するとまで言ってくれたんだ。告白のお膳立ても任せろって言ってたけど……全部、見せかけだった」
「見せかけ……」

 咄嗟に視線をローテーブルの先へ移したけど、春海くんの様子に変化はなかった。
 それどころか今にも粉々に割れてしまいそうな姿があまりにも痛ましくて、余計に私の胸を強く締め付ける。そんな私の動揺も、春海くんのつらい気持ちも全部わかっていて、それでも朝凪くんは言葉を継ぐことを止めない。

「教室での会話を先導してたのはBだったんだ。その場に居たAに悪びれることなく春海の気持ちを伝えて、『もし告白されたらどう答えるのか』なんて、露骨な好奇心でAに迫ってた」
「……それで、『ありえない』って?」
「うん。最初はAも戸惑ってたみたいだけど、場の空気に逆らえなかったんだろうね。開き直ったように吐き捨ててたよ。でも、それだけじゃなかった……」
「『同じ朝凪なら、まだ令夏のほうがよかったな』」
「え?」

 身体的特徴に見合った声が、それにしては少し高い声に代わってリビングに響いた。
 ローテーブルの向こう側、丸いモロッコチェアに座る春海くんは、複雑な感情に顔を歪め、瞳を濡らし、声を震わせて続ける。

「……わたしたち、二卵性の双子なので……。令夏は、わたしとは全然似てない……中性的な見た目じゃ、ないですか……。多分、外国人である父方の祖母の遺伝、なんですけど……」
「…………」
「だ、だから……っ、す、好かれるなら……見た目のきれいな……っ、令夏のほうが……いい、って…………」
「…………」

 春海くんの頬を伝う大粒の涙を前にして、掛ける言葉が見つからなかった。
 好きな人が、自分じゃなくて自分に一番近い立場の人を求めるなんて、そしてそれを本人の口から聞いてしまうなんて。
 苦しみ、悲しみ、もしかしたら嫉妬だって。たくさんの感情が渦を巻いて襲ってきたにちがいないのに、それをどうにかできる術が私の手には一つもない。自分の無力さに唇を噛んだら、やがて口の中に鉄に似た味が広がった。

「ほんっとくだらないよね」

 誰に対しての言葉なのか。朝凪くんが苦々しく笑う。

「次の日、教室まで春海を送ったら、誰もが何事もなかったかのように春海に声をかけるんだよ? 自分は春海を理解していて、正しい配慮ができてると思い込んだ笑顔でさ」

 ——その中の何人が“本物”なんだろうね。
 ああ、やっと、本当の意味で、朝凪くんの言葉の意味がわかった気がする。心髄に、触れた気がする。当時の春海くんの周りには偽物がたくさんいたんだ。

「おれがアプリへの投稿を勧めたのは、春海が不登校になって数か月経ったころ。人の笑顔に怯えて、誰のことも信用できなくなったせいで、部屋にこもってばかりいた春海は感情のやり場がないように見えた。それを自由に綴ってみたらって言ったんだ。非公開のままでも投稿はできるし、他のSNSみたいに開くたびにおすすめが上がってくるわけでもない。ただ気ままに投稿できるスタイルなら、負担なくできるんじゃないかと思って。公開してるのは知らなかったけど」
「じゃあ、私は春海くんに助けてもらったんだ」
「え?」

 声に出したのは朝凪くんだけだったけど、視界の隅で春海くんの体がピクリと反応したのが見えた。

「春海くんには話したよね? 中学のときに直談判した子が、SNSの裏アカ抱えてたって話」

 朝凪くんにもかいつまんで説明を加えた。

「ちょうどあのときだったんだ。私がHARUさんのページ見つけたの。『ああ、マイノリティでも悩みってこんなにちがうんだ。やっぱり悩みに優劣なんてないよね』って改めて実感させられた。それに——」

 落としていた視線をゆっくりと春海くんへ向けたら、なにかを感じ取ったのか、春海くんもゆっくりと顔を上げてくれた。
 テーブル越しに久しぶりに目が合った感覚を味わいながら、私はずっと抱いていた思いをそのまま手渡すような気持ちで声に乗せた。

「たくさんのつらい感情の中に散りばめられた欲、っていうのかな? やりたいこと、なりたい姿……そういった諦められない気持ちに、私はすごく励まされたんだよ」
「…………」
「春海くん、訊いたよね? 『なんで転校しなかったのか』って。あれはHARUさんの強さに感化された結果だよ。誇りに思ってる性自認と大好きなクラスを諦めたくないって、転校よりもそっちを優先しようって、決断する背中を押してもらった」
「…………」
「おかげで私、三年生はめちゃくちゃ楽しかった。卒業式も号泣したし、クラスメイトとは今も連絡取り合ってる。あと、決断したことに後悔は全くしてない」
「…………っ」
「ありがとう、春海くん。気持ちを綴ってくれて、譲れない欲を見せてくれて……ここに、いてくれて」
「……ズッ……ぐす…………っ」

 とめどなくあふれる涙に春海くんの拭う手が追い付かない。
 それでも私の言葉を一つ一つ頷きながら噛み締めてくれている。その健気な姿に口角がみるみる上がっていくのがわかった。

「よかったー! やっぱり、まあちと私の見立ては間違ってなかったね!」

 とうとう両手で顔を覆った春海くんは堰を切ったようにむせび始めた。
 無理に止めるより全部出してしまったほうがいい気がして、そしてそれは朝凪くんも同じだったようで、しばらくの間朝凪家の広いリビングを会話が飛び交うことはなかった。