「なんっ……あっさな……ぬえぇっ?!」
「はははっ……!」
ライトブルーのシャツに白のスラックスというこれまた爽やかな装いを着こなす目の前の人物は、おそらく期待通りであろう私の反応にお腹を抱えて笑っている。
この人に笑われるのはすっかり慣れた。この上なく不本意であるけど、慣れてしまった。
「笑いすぎなんだよね——朝凪くん」
ダークグレーの門袖にあった切文字の表札。それが筆記体で「Asanagi」を掲げていた気がしたのは、気のせいではなかったらしい。
ぜひとも気のせいであってほしかった。昨日、『また月曜日に』とあの部屋を去っていったときの、何食わぬ顔がそれはもう恨めしい。
家に帰ったら、ひとまず祟ってやろうと心に決めた。それはもう後世に語り継がれるほどの凄まじい怨念を以て。
「ふっはは、目が据わってるよ。鳴上さん」
「据わらせたのはあんただよ」
「怖い怖い。本性出てるよ」
「出させたのはあんただよ」
「あ、あの……あおいさん……?」
背後から聞こえた戦慄のにじむ声で私は我に返った。
「はっ……! ごめん、香住くん! これは、その、私たち同じ元文藝部で……」
「あ、それはわたしもついさっき、家を出る直前に聞いて……」
「あ、そうなんだ……っていうか、え? 香住くん、名前は……?」
「え? かすみ、です……?」
「え?! じゃあ、『朝凪』は?」
「え?」
「え?」
お互いに顔を見合わせて首を傾げた私たちを見て、朝凪くんがまた笑い声を上げた。本当によく笑うな、この人は。
「改めて自己紹介したら? “フルネームで”」
朝凪くんの視線を受けて、香住くんが戸惑いながらも頷いた。
「朝凪春海です。令夏の双子の……妹、です……」
「いもうと……ああっ?! 妹って、そういう……?! 勝手に年齢のちがう兄妹を想像してたけど、そっか……! 双子も生まれる順番で決まるもんね! ていうか、『かすみ』って名前だったの?! 名字じゃなくて?!」
凄まじい情報量が一気に押し寄せてきて、脳みそをフル稼働させたところで捌ききれない。おかげでさっきから支離滅裂だ。
「は、はい! 春の海って書いて、かすみと読みます」
「めちゃくちゃおしゃれな名前だな……!」
「あ、ありがとうございます……!」
「じゃあ、やまべ動物病院では名前で呼ばれてたってこと?!」
「あ、そうです。お客様で朝凪に似た響きの名字の方がいらっしゃって、混乱を避けるために名前呼びに……」
「そうなんだ……! 私、てっきり名字だと思って……」
「立ち話もなんだし、とりあえず上がって? 鳴上さん」
その一声で、自分がまだ靴すら脱いでいないことに気が付いた。半ば呆然とした状態で差し出されたスリッパに足を通す。
そのままリビングへ通された私は外観に勝るとも劣らない魅力的な室内空間に、今度はたじろぐ羽目になった。酷暑から始まり、名前に内装に今日はなにかと試されることが多い。
「座ってて」
「あおいさん、どうぞ」
「は、はい……」
一目で一級品だとわかる代物に、量販店のソファにしか触れたことのないお尻を下ろしていいものか。値段でものを計りたくはないけど、ためらいなく座るのは憚られてしまうほど質の良さが醸し出す特有の余裕に完全に怖気づいていた。
だからといって座らない選択肢は用意されていないので、まるでこれが折衷案とでも言うように、半ば空気椅子をしているような状態でなんとか腰を下ろす。そんなだから、座り心地を味わっている場合ではない。
「鳴上さん、麦茶でいい?」
「は、はひっ……! ……ってあれ?! 手土産は?!」
「ふっ、さっきリビングに入ってきたときに渡してくれたよ」
「あ、そっか……」
どうしよう。記憶にない。全身全霊をかけて汗から守ったので湿っていることはないはずだけど、あの日差しではフルーツゼリーもぬるくなってしまっているにちがいない。
「冷やしてから食べてね」かろうじて付け加えた注意事項に、二人から二度目であろうお礼を言われた。
「わたしも手伝うよ」
「春海のお客さんなんだから、座ってて」
「う、うん。ありがとう」
キッチンでお茶を注いでくれている朝凪くんも、ローテーブルを挟んで向かいにある丸い布地のスツールに座った香住くん——改め春海くんも、この空間にとても自然に馴染んでいる。自宅なのだから当然と言えば当然だけど。
「すごい、きれい……」
朝凪くんがテーブルに置いてくれたグラスに思わず見惚れる。
表面に繊細な文様の入ったエメラルドグリーンのグラスは切子グラスというらしい。
このグラスを含めた食器や家具、そして家の内装や外装にいたるまで、すべてがお母さんのこだわりなのだと教えてくれた。
「大胆な柄だね。絵の具のパレットみたい」
ソファの後ろにあるダイニングチェアに腰掛けてから、朝凪くんが切り出した。
「……ああ、これ?」半身で振り返って私は続ける。
「これはネットで買ったんだ。夏っぽくて気に入ってる」
独特なパターンの入ったオレンジ色のワイドパンツは、私の夏の一張羅だ。今日は胸元に大きなロゴが目立つ白いTシャツを合わせて、夏を目一杯満喫するテンションでやって来た。
暑さにはめっぽう弱いけど、真っ青な空にそびえ立つ中身のぎゅうぎゅうに詰まった入道雲を見ると昂る気持ちを抑えられない。
そう言ったら、また朝凪くんが笑った。
「部室でもあんなに暑い暑い言ってるのに」
「暑いものは暑い。でも、夏の概念は好き」
「おれも夏は好きかな」
「え」
「なにその反応。どうせ『汗かくし蝉は五月蝿いし、夏なんていいことないから滅びればいい』とか思ってると思ってたんでしょ」
「うん。そこまでは言ってないな」
「ふふ。なんか、二人仲いいね」
今度は春海くんが笑った。
「なっ……かは、普通じゃない?」
「そうですか? こんなに自然体な令夏、久しぶりに見ましたよ」
今日もその耳元では繊細なチェーンピアスが揺れている。シルバーの丸いヘッドにチェーンが垂れているだけのシンプルなデザインは、白いシャツにくるぶし丈の黒いロングスカートというコーディネートに合わせたものなのだろう。
髪は結んでおらず、代わりにレイヤー部分や襟足に動きをつけて、ウルフカットの魅力を最大限に引き出すアレンジがなされている。
私に心の性を打ち明けてくれたがゆえの選択なのだと自惚れてしまいたくなるほど、これまでの春海くんの格好の中では一番心に従ったものに見えた。
「『勧誘が信頼できたから』って言ってたの、あおいさんのことだったんですね」
「ん?」
「え?」
「春海くん、もっと詳し——」
「春海、余計なこと言わなくてい——」
「もっと詳しく。春海くん」
私を遮った朝凪くんをさらに遮って、私は食い気味に尋ねる。
逸る気持ちに従って上半身は前のめりになっているものの、気付けばお尻はソファに深く沈んでいた。
「最初、高校では部活に入らないって言ってたんですけど、ある日突然文藝部に入ったって言われて。不思議に思って理由を訊いたら、『馬鹿正直に人数稼ぎだって言うから』って笑ってたんです。変に建前を持って来られるよりも信頼できたって」
「ほーーーーーーーーーーーう」
息の続く限り「ほ」を伸ばしながら、ぐりんっと頭を大回りさせて振り向くと、私を信頼できると言った同級生は我関せずといった様子でスマホに目を落としていた。
「あっさなっぎくーん」
「…………」
「あーさなーぎくーん」
「…………」
「ああさあなあぎい——」
「五月蝿いよ」
「はい、すいません」
「くっふふふ……」
双子なだけあって春海くんもよく笑う。それも最初は無口だったところまで同じだ。
公園で話してからはやまべ動物病院で会うときも笑ってくれるようになったけど、なんとなく今のほうが気兼ねなく笑えているように見える。
「……ていうか、メッセージのやり取りはしてたんでしょ? そのときに気付かなかったの?」
もう言葉巧みに誘導するのすら面倒になったのか、朝凪くんがあからさまに話題を転換してきた。戻してやろうと口を開いたのに、それを見越していたとでもいうように「春海の名前」と言い足してくる。
まあ嫌なことは人それぞれか。声にならなかった詮索欲を呑み込んで私は続けた。
「個人間のトークで名前呼ばなくない?」
「それもそうだね」
念の為トーク画面を見返してみるけど、「〇日はどう?」「苦手なものある?」などと見事に主語は省略されていた。それで伝わってしまうから日本語は便利だ。
「……あれ?! じゃあ……」
トーク画面に表示されるアカウント名を見て、私は閃いた。
「アカウントの『KA』って“K”asumi “A”sanagi?!」
「はい、そうです」
「“KA”SUMIのKAじゃなくて?!」
「あんまりその取り方する人いないんじゃない?」
「そうかもしれないけど、でも、ゼロとも言い切れないでしょ」
「漢字で入れておけばよかったですね……。ごめんなさい」
「いやいや! 春海くんはなにも悪くない! 私が勝手に勘違いしてただけだから! 私、この名前好きだな。春の海って——……」
じりじりと思考の導火線を伝っていた火が核にたどり着いて、花火のように破裂する。
体は男性で心は女性のトランスジェンダー。春の、海……。
夏の風物詩に負けず劣らずの衝撃的な閃きを得て、私は弾かれたように顔を上げた。今日はやけに冴えている。
「……HARUさん……?」
「え?」
「文章投稿アプリの、『手ake』の……」
春海くんの顔がみるみる赤くなる。
「え……読ん……?」
あわあわおどおどする春海くんと、コクコクと頷くしかできない私。
しばらく二人で「え」とか「あ」とか言葉にならない声を発しながら、身振り手振りでお互いの動揺を共有していると、
「ああ、おれが勧めたやつだね」
朝凪くんがさらりと言ってのけた。
「ん? 朝凪くんが? 勧めた?」
あふれんばかりの困惑を抱えて振り返ったものの、その口ぶりの通り平然とした表情の朝凪くんとは目が合わなかった。
まるで答えを持っているのは自分じゃないとでも言うように、朝凪くんの視線は私を超えて背後にいる春海くんへ向いている。
それを辿って体勢を戻したら、春海くんがぎゅっと縮こまって俯くところだった。
「わ、わたし……」
冷房が効きすぎているのかと思うほど、場の空気がたちまち深刻さを帯びる。私は息を凝らして見つめるしかできない。
「ち、中学のときに……不登校、に……なっちゃったん、です……」
「はははっ……!」
ライトブルーのシャツに白のスラックスというこれまた爽やかな装いを着こなす目の前の人物は、おそらく期待通りであろう私の反応にお腹を抱えて笑っている。
この人に笑われるのはすっかり慣れた。この上なく不本意であるけど、慣れてしまった。
「笑いすぎなんだよね——朝凪くん」
ダークグレーの門袖にあった切文字の表札。それが筆記体で「Asanagi」を掲げていた気がしたのは、気のせいではなかったらしい。
ぜひとも気のせいであってほしかった。昨日、『また月曜日に』とあの部屋を去っていったときの、何食わぬ顔がそれはもう恨めしい。
家に帰ったら、ひとまず祟ってやろうと心に決めた。それはもう後世に語り継がれるほどの凄まじい怨念を以て。
「ふっはは、目が据わってるよ。鳴上さん」
「据わらせたのはあんただよ」
「怖い怖い。本性出てるよ」
「出させたのはあんただよ」
「あ、あの……あおいさん……?」
背後から聞こえた戦慄のにじむ声で私は我に返った。
「はっ……! ごめん、香住くん! これは、その、私たち同じ元文藝部で……」
「あ、それはわたしもついさっき、家を出る直前に聞いて……」
「あ、そうなんだ……っていうか、え? 香住くん、名前は……?」
「え? かすみ、です……?」
「え?! じゃあ、『朝凪』は?」
「え?」
「え?」
お互いに顔を見合わせて首を傾げた私たちを見て、朝凪くんがまた笑い声を上げた。本当によく笑うな、この人は。
「改めて自己紹介したら? “フルネームで”」
朝凪くんの視線を受けて、香住くんが戸惑いながらも頷いた。
「朝凪春海です。令夏の双子の……妹、です……」
「いもうと……ああっ?! 妹って、そういう……?! 勝手に年齢のちがう兄妹を想像してたけど、そっか……! 双子も生まれる順番で決まるもんね! ていうか、『かすみ』って名前だったの?! 名字じゃなくて?!」
凄まじい情報量が一気に押し寄せてきて、脳みそをフル稼働させたところで捌ききれない。おかげでさっきから支離滅裂だ。
「は、はい! 春の海って書いて、かすみと読みます」
「めちゃくちゃおしゃれな名前だな……!」
「あ、ありがとうございます……!」
「じゃあ、やまべ動物病院では名前で呼ばれてたってこと?!」
「あ、そうです。お客様で朝凪に似た響きの名字の方がいらっしゃって、混乱を避けるために名前呼びに……」
「そうなんだ……! 私、てっきり名字だと思って……」
「立ち話もなんだし、とりあえず上がって? 鳴上さん」
その一声で、自分がまだ靴すら脱いでいないことに気が付いた。半ば呆然とした状態で差し出されたスリッパに足を通す。
そのままリビングへ通された私は外観に勝るとも劣らない魅力的な室内空間に、今度はたじろぐ羽目になった。酷暑から始まり、名前に内装に今日はなにかと試されることが多い。
「座ってて」
「あおいさん、どうぞ」
「は、はい……」
一目で一級品だとわかる代物に、量販店のソファにしか触れたことのないお尻を下ろしていいものか。値段でものを計りたくはないけど、ためらいなく座るのは憚られてしまうほど質の良さが醸し出す特有の余裕に完全に怖気づいていた。
だからといって座らない選択肢は用意されていないので、まるでこれが折衷案とでも言うように、半ば空気椅子をしているような状態でなんとか腰を下ろす。そんなだから、座り心地を味わっている場合ではない。
「鳴上さん、麦茶でいい?」
「は、はひっ……! ……ってあれ?! 手土産は?!」
「ふっ、さっきリビングに入ってきたときに渡してくれたよ」
「あ、そっか……」
どうしよう。記憶にない。全身全霊をかけて汗から守ったので湿っていることはないはずだけど、あの日差しではフルーツゼリーもぬるくなってしまっているにちがいない。
「冷やしてから食べてね」かろうじて付け加えた注意事項に、二人から二度目であろうお礼を言われた。
「わたしも手伝うよ」
「春海のお客さんなんだから、座ってて」
「う、うん。ありがとう」
キッチンでお茶を注いでくれている朝凪くんも、ローテーブルを挟んで向かいにある丸い布地のスツールに座った香住くん——改め春海くんも、この空間にとても自然に馴染んでいる。自宅なのだから当然と言えば当然だけど。
「すごい、きれい……」
朝凪くんがテーブルに置いてくれたグラスに思わず見惚れる。
表面に繊細な文様の入ったエメラルドグリーンのグラスは切子グラスというらしい。
このグラスを含めた食器や家具、そして家の内装や外装にいたるまで、すべてがお母さんのこだわりなのだと教えてくれた。
「大胆な柄だね。絵の具のパレットみたい」
ソファの後ろにあるダイニングチェアに腰掛けてから、朝凪くんが切り出した。
「……ああ、これ?」半身で振り返って私は続ける。
「これはネットで買ったんだ。夏っぽくて気に入ってる」
独特なパターンの入ったオレンジ色のワイドパンツは、私の夏の一張羅だ。今日は胸元に大きなロゴが目立つ白いTシャツを合わせて、夏を目一杯満喫するテンションでやって来た。
暑さにはめっぽう弱いけど、真っ青な空にそびえ立つ中身のぎゅうぎゅうに詰まった入道雲を見ると昂る気持ちを抑えられない。
そう言ったら、また朝凪くんが笑った。
「部室でもあんなに暑い暑い言ってるのに」
「暑いものは暑い。でも、夏の概念は好き」
「おれも夏は好きかな」
「え」
「なにその反応。どうせ『汗かくし蝉は五月蝿いし、夏なんていいことないから滅びればいい』とか思ってると思ってたんでしょ」
「うん。そこまでは言ってないな」
「ふふ。なんか、二人仲いいね」
今度は春海くんが笑った。
「なっ……かは、普通じゃない?」
「そうですか? こんなに自然体な令夏、久しぶりに見ましたよ」
今日もその耳元では繊細なチェーンピアスが揺れている。シルバーの丸いヘッドにチェーンが垂れているだけのシンプルなデザインは、白いシャツにくるぶし丈の黒いロングスカートというコーディネートに合わせたものなのだろう。
髪は結んでおらず、代わりにレイヤー部分や襟足に動きをつけて、ウルフカットの魅力を最大限に引き出すアレンジがなされている。
私に心の性を打ち明けてくれたがゆえの選択なのだと自惚れてしまいたくなるほど、これまでの春海くんの格好の中では一番心に従ったものに見えた。
「『勧誘が信頼できたから』って言ってたの、あおいさんのことだったんですね」
「ん?」
「え?」
「春海くん、もっと詳し——」
「春海、余計なこと言わなくてい——」
「もっと詳しく。春海くん」
私を遮った朝凪くんをさらに遮って、私は食い気味に尋ねる。
逸る気持ちに従って上半身は前のめりになっているものの、気付けばお尻はソファに深く沈んでいた。
「最初、高校では部活に入らないって言ってたんですけど、ある日突然文藝部に入ったって言われて。不思議に思って理由を訊いたら、『馬鹿正直に人数稼ぎだって言うから』って笑ってたんです。変に建前を持って来られるよりも信頼できたって」
「ほーーーーーーーーーーーう」
息の続く限り「ほ」を伸ばしながら、ぐりんっと頭を大回りさせて振り向くと、私を信頼できると言った同級生は我関せずといった様子でスマホに目を落としていた。
「あっさなっぎくーん」
「…………」
「あーさなーぎくーん」
「…………」
「ああさあなあぎい——」
「五月蝿いよ」
「はい、すいません」
「くっふふふ……」
双子なだけあって春海くんもよく笑う。それも最初は無口だったところまで同じだ。
公園で話してからはやまべ動物病院で会うときも笑ってくれるようになったけど、なんとなく今のほうが気兼ねなく笑えているように見える。
「……ていうか、メッセージのやり取りはしてたんでしょ? そのときに気付かなかったの?」
もう言葉巧みに誘導するのすら面倒になったのか、朝凪くんがあからさまに話題を転換してきた。戻してやろうと口を開いたのに、それを見越していたとでもいうように「春海の名前」と言い足してくる。
まあ嫌なことは人それぞれか。声にならなかった詮索欲を呑み込んで私は続けた。
「個人間のトークで名前呼ばなくない?」
「それもそうだね」
念の為トーク画面を見返してみるけど、「〇日はどう?」「苦手なものある?」などと見事に主語は省略されていた。それで伝わってしまうから日本語は便利だ。
「……あれ?! じゃあ……」
トーク画面に表示されるアカウント名を見て、私は閃いた。
「アカウントの『KA』って“K”asumi “A”sanagi?!」
「はい、そうです」
「“KA”SUMIのKAじゃなくて?!」
「あんまりその取り方する人いないんじゃない?」
「そうかもしれないけど、でも、ゼロとも言い切れないでしょ」
「漢字で入れておけばよかったですね……。ごめんなさい」
「いやいや! 春海くんはなにも悪くない! 私が勝手に勘違いしてただけだから! 私、この名前好きだな。春の海って——……」
じりじりと思考の導火線を伝っていた火が核にたどり着いて、花火のように破裂する。
体は男性で心は女性のトランスジェンダー。春の、海……。
夏の風物詩に負けず劣らずの衝撃的な閃きを得て、私は弾かれたように顔を上げた。今日はやけに冴えている。
「……HARUさん……?」
「え?」
「文章投稿アプリの、『手ake』の……」
春海くんの顔がみるみる赤くなる。
「え……読ん……?」
あわあわおどおどする春海くんと、コクコクと頷くしかできない私。
しばらく二人で「え」とか「あ」とか言葉にならない声を発しながら、身振り手振りでお互いの動揺を共有していると、
「ああ、おれが勧めたやつだね」
朝凪くんがさらりと言ってのけた。
「ん? 朝凪くんが? 勧めた?」
あふれんばかりの困惑を抱えて振り返ったものの、その口ぶりの通り平然とした表情の朝凪くんとは目が合わなかった。
まるで答えを持っているのは自分じゃないとでも言うように、朝凪くんの視線は私を超えて背後にいる春海くんへ向いている。
それを辿って体勢を戻したら、春海くんがぎゅっと縮こまって俯くところだった。
「わ、わたし……」
冷房が効きすぎているのかと思うほど、場の空気がたちまち深刻さを帯びる。私は息を凝らして見つめるしかできない。
「ち、中学のときに……不登校、に……なっちゃったん、です……」
