季節のはざまに虹を架ける

「あ゙っっっっづい゙っ!!!!」

 少し早い夏の訪れに世間がうだる七月の半ば。周りに人がいないのをいいことに、日傘の下で私は唸った。
 沿道に立ち並ぶ街路樹の幹でかまびすしい鳴き声を誇示する蝉に鼻で笑われた気がする。蝉に鼻があるのかなんて、そんな細かいところまで構っていられない。とにもかくにも暑すぎる。

「ふうー」

 心頭滅却すれば火もまた涼し。
 立ち止まって、ハンディファンの最大風量を無言で浴びる。その間も蝉の声は収まる気配を見せず、容赦ない夏の洗礼にそろそろ涙が出そうだ。

「よしっ! えーっと、次の角を右……か」

 午前中にもかかわらず精力的な太陽の存在を頭から消し去り、とある場所に向かうため目ざとく陰を見つけてはさっさと足を進めた。

 それはもうわんわんと朝凪くんの前で泣きじゃくったあの日。教室が空になった頃合いを見計らって荷物を取りに行き、私たちは校門の前で別れた。
 結局はぐらかされたままとなった質問のせいで消化不良を家まで持ち帰る羽目になり、それでも必要なことをすべて片付けてまあちとともに部屋にこもる。そして真っ先にやったのが心春と通話をすることだった。
 桑くんと話している間、ずっと寄り添ってくれていたこと。
 桑くんに啖呵を切ってくれたこと。
 逃げろと言ってくれたこと。
 心春がしてくれたすべてのことに心からの感謝を伝えた。
 桑くんがどうしてあのタイミングを選んだのかはわからない。だけど、心春と一緒にいるときでよかったと切実に思う。心春がいなければ私は間違いなくどこかで限界を迎え、あの場で崩れ落ちていただろうから。
 ちなみに、あのあと残った心春は桑くんとしばらくバトってくれたらしい。私に逃げろと言ったのは、いわゆる「ここは私に任せて」的な意図だったようだ。
 そうして一通りお礼を言い終えてから、私は改まった口調で切り出した。

「うやむやにしたままで本当にごめん。……実は、ずっと心春に嫉妬してたんだ。桑くんも言ってたけど、涼介の理想そのものな心春が羨ましかった——……」

 あえてビデオ通話にはしなかったけど、心春が真剣に耳を傾けてくれていたのは深い相槌から伝わっていた。その安心感のおかげで、私は自分の言葉に、ありのままの気持ちを紡ぐことに集中できたんだと思う。

「わたしも桑くんの話聞いて気になってたんだ……」

 丸裸になった私の心を受けて、少しの沈黙を挟んだ心春が申し訳なさそうに口を開く。
 
「普通に『女子高生』とか言っちゃってた気がするし、あおいちゃんのこと、文野くんの“彼女”として考えてたから……。無意識のうちに追い詰めてたのかもしれないなって……」
「ううん、心春はなにも悪くない。私もそれでいいと思って公表してたから。……でも、考え直してみるよ。もっとシンプルな正攻法がないか。あれこれ捏ねくり回すの、多分向いてないんだよ、私」
「ふふ、そうだね。あおいちゃんはシンプルが一番かもしれないよ。わたしがあおいちゃんと仲良くなりたいと思ったきっかけも、あおいちゃんのシンプルな一言だったもん」
「え? なにそれ?」
「移動教室で授業が始まる前に、わたしのスマホの推しを見て言ってくれたことだよぉ。『好きなんだね』って」
「ああ、言ったね。……って、えっ?! それ?!」
「そうだよぉ! それがよかったんだから! ちょうどあのとき、推しの切り抜き動画がSNSで大炎上してかなり叩かれてて、いろんな人からその話されてたの。悪意ある切り抜きで本人はなにも悪くないのに、悪評だけが独り歩きしてるのが悔しくて……。でも、あおいちゃんに言われて気付いたんだぁ。『わたしの気持ちってちゃんと伝わってるんだ』って」
「すごいかわいく飾られてたからね。めちゃくちゃ伝わってきたよ」
「あのときもそう言ってくれたよね。わたし、それがすごく嬉しくって。ごちゃごちゃ考えて火消しに躍起になってたけど、そうじゃない。変わらず好きだって伝え続けることが、なにより推しの力になるんだって思えたんだ」

 通話を終えたときには、とっくに日付は変わっていた。
 眠かったけど、これだけはと思って、通話中に受信していたあるメッセージに目を通した。
 送り主は涼介で、内容は簡単に言うと二つ。昼休みの件に対する謝罪と、桑くんの発言はすべて忘れてくれというものだった。
 会話の詳細は後から桑くんに聞いたのだと思う。
 一点の曇りもない桑くんの様子からして、やり取りはほぼ正確に伝わっているはずだから、「忘れてくれ」という言葉はそれを踏まえた涼介の意思だと捉えていい。
 「忘れてくれ」と書かれているだけで、真偽については触れていない。それはつまり桑くんが口にした涼介の様子が事実だったことを意味していた。

「ここ……か?」

 地図アプリを凝視しながらまた角を曲がる。
 スマホを持ちながらその手に紙袋を提げているせいで、腕がプルプルと震えて仕方がない。
 最初は肘に持ち手の紐を掛けていたものの、それでは紐が汗に濡れてしまうし、万が一肘を伝って滴った汗が袋本体や中身を汚してしまってはいけない。そして、もう片方の手は日傘で埋まっている。
 ということで汗から遠ざけるための持ち方として、炎天下で編み出したのがこれだった。

「お、T字路。合ってた」

 道順に確信を得て、足取りがしっかりとする。
 ——傷付いているのは自分だけだとでも思っているのか
 桑くんは一つ間違っている。
 私は自分だけが傷付いているなんて一瞬たりとも思ったことはない。
 悪者なんていないという言葉の裏で、涼介が自分を悪者だと責めていたことぐらいわかっている。涼介はそういう人だって、私はちゃんと知っている。
 だからこそ私は座右の銘をより意識した。
 私まで自分を責めてしまったら、涼介の思いやりが本当にただの強がりになってしまう。自分を責めるという選択肢がなく、かといって考えずにいられるほど思い出にはできていない状況で、懸命に報いる方法を探した結果だった。
 私は、私だけのために用意された(はなむけ)を胸に、涼介の元恋人として恥じない自分でいる。
 それがあのときはベストだと信じていた。

「かっこつけすぎてたなー。お互いに」

 もう一つ角を曲がると、これまでの住宅街とは一線を画す光景が目の前に広がった。
 この一帯はマンションよりも一軒家が多く、さらにはほとんどの家がモデルルームのように庭を整えているため、自分の格が一段上がったかのような幸せな錯覚に陥る。
 目的地はもう目と鼻の先なはずだ。すでに見えている児童公園。その入口である人が待っている。

「あおいさん!」

 木陰に立っていたその人が手を高く伸ばして大きく振った。

「がずみ゙ぐぅぅぅぅん……!」

 どろどろに溶けたスライムのような声を出した私を見て、ある人——香住くんが口元に手を当てて笑う。
 
「暑い中、わざわざ来てもらってごめんなさい。これ、よかったら」
「ありがとおぉぉ……!! あとでお金返すね」
「気にしないでください。前に話を聞いてくれたお礼です」
「うう……では、遠慮なく……」

 渡された清涼飲料水のペットボトルはキンキンに冷えていた。手のひらを起点として、全身が清涼感に包まれる。さっそく蓋を開け、ごくごくとCMさながらに喉を鳴らして体内を潤した。

「ぷはぁ……っ!」

 水分を得て余裕が生まれた私は、ようやく香住くんの首筋に光る汗に気が付いた。

「こっちこそ、待たせちゃったよね。お迎えありがとう」
「いえ、わたしはちょうど着いたところでしたから。じゃあ、行きましょうか」
「よろしくお願いしまーす!」

 今日、かねてより約束していた『今度ゆっくりお茶でも』がようやく決行される。
 だけど、行き先はカフェじゃない。
 なんと香住くんのお家にお邪魔させてもらうのだ。
 あまり外で長居したくないという理由から、香住くんが提案してくれた。自分たちが知っているということは、同級生もたいてい利用している場所ということになり、顔見知りとの遭遇率がぐんと上がってしまうからだと。
 古本屋の最寄駅でのことが頭に浮かんだ私は、『ちょうど両親もいないので』という香住くんのお言葉に甘えさせてもらうことにして、結構、いやそれはもう恥ずかしいほどわくわくうきうきしながら家を出た。
 まあちを(かすがい)に、天気の話しかできなかった関係が、お家にお呼ばれしてもらえるまでになるなんて浮かれないほうが難しい。

「ここです」
「わあっ……! おっしゃれぇ……!」

 黒を基調とした外壁にダークウッドの温かみが見事に調和した、それはそれは立派な一軒家に目も口も開きっぱなしになる。
 庭木の醸し出す落ち着いた雰囲気を邪魔しない白や黄色の花が、おのぼりさんな反応をする私に慈悲深い眼差しを向けている気がした。

「足元気をつけてくださいね」
「はーい! ……ん?」

 玄関に向かう際にあるものが目に留まり、私は動きを止めた。

「どうかしましたか?」
「……へっ?! いやぁ、なんでも! なんでもないよ!」

 玄関扉の取っ手に手をかけていた香住くんは私の不審な挙動に首を傾げはしたものの、それ以上触れてくることはなかった。落ち着かない足取りで玄関ポーチの階段を上る。
 まさか、そんなはずがない。いやいや、まさか。まさか、ね。

「どうぞ」
「おじゃましまーす」

 気を取り直して、やっとこさ友人宅へと足を踏み入れる。
 鳴上家の大衆的なそれとはちがい、こだわり抜かれた上質な香りが鼻をかすめたとき——

「いらっしゃい。鳴上さん」

 爽やかな笑顔を湛えた人物に出迎えられて、私は卒倒しそうになった。