季節のはざまに虹を架ける

 テスト中特有の張り詰めた静けさに似た沈黙が落ちた。
 初めてちゃんと話したあの日も相当食らったけど、今回の薄い笑みもまた相当の破壊力がある。それは当然いい意味じゃなくて、初対面ならば二度と関わりたくないとすら思わせてしまうほどの冷徹ぶりに肝が冷えるのだ。
 でも、今の私はもうひるまない。

「なんか、そう言われると難しいね……。知ってるだけでも、理解してるだけでもダメで、使い方は自分でその都度考えないといけないとかさ……」

 ぽつぽつと過去の罪を告白するような口ぶりで私は続ける。

「……もしかしたら、私もそう思わせてるのかも。席譲ったり、階段上るの手伝ったり……まさに事情も知らずに、『きっと大変だ』って思ってやってたから……」

 結局、朝凪くんの噂の真偽については触れず終いになっている——というか、存在すら忘れていた——から、日ごろの雑談の中でその手の気遣いを朝凪くんに見せた記憶はない。
 だけど、自身の座右の銘に基づいた行動は、形骸化した配慮だと言われても否定できないものだった。

「おれが過敏なだけだと思うんだよ。親切にしてもらった人の大半は、こんなシニカルな捉え方なんて絶対してない」
「でも……」
「不安にさせたことは謝るよ。でも、安心して。おれは鳴上さんの性格を知ってるから、心からの厚意だってちゃんとわかる。本当にただ一個人の考え方の話だから。鳴上さんはそのままでいいよ」

 ドストレートに褒められて気恥ずかしさを覚えた。
 真っ直ぐに目を見て、真っ直ぐに声を響かせて、真っ直ぐな言葉を食らえば、誰だってこうなるだろう。それが普段軽口を叩き合っている間柄の相手となると破壊力は格段に増す。

「鳴上さんはすごいよ」

 さらに褒めてくるらしい。そろそろ止めてくれ。

「鳴上さんこそ、配慮される機会は多いはずなのに。それを馬鹿正直にいいことだって受け取って」

 褒めてる、よね? 私は直角になるほど頭を傾げた。

「それもトラウマになるほど、つらい経験だってしてるのにだよ?」

 褒め……てるか? ぎちぎちと口角が軋み始める。

「それでも懲りずに、ご丁寧に自ら餌食になるような要素まで提示してさ」

 褒めてないな。これは。

「ちょっと、さっきからなに——」
「そんな鳴上さんをずっと尊敬してたんだよ、おれ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ん? “ずっと”?」

 根拠なんてないけど、なぜかその一言が妙に引っかかった。

「……それは清水くんから私の話を聞いて、私が噂の人物だって一致してからの話……だよね?」

 そうだと頷いてくれるはずの、あまりにも当然な、答えのわかりきっている質問だというのに、期待通りの反応が望めない気がしてうろたえる。
 案の定、陽光を水面の輝きとして迎え入れる海のように、眩しい笑顔が私の期待を木っ端微塵に打ち砕いた。

「言ったでしょ。『“直接は”聞いてない』って」
「え、うん。だから、それは……」
「噂は耳に届いてたし、ここで先輩にスラックスを穿かない理由も話してたから、わりと早い段階で鳴上さんのことだって気付いてたよ」
「ええぇぇぇ……。じゃあ、なんで清水くんに聞いたなんて嘘吐いたの?」
「清水のことは本当だよ。きっかけにしただけ。おれは高校で友達作るつもりはなかったし、特に触れる必要もないと思ってた」
「そ、それなのに声をかけてきた理由は?」
「最初はね、わざわざ自分から配慮の対象になる要素を提示するなんて、浅はかなことしてるなって思ってたんだ」
「浅は——」
「だけど、先輩との接し方を見てたら、そうでもない気がしてきて。それで、一年生の終わりごろかな。保健室で寝てたときに、鳴上さんが青木先生に相談してるのが聞こえてきたんだよ」
「え゙っ」

 きっと朝凪くんは涼介に女の子扱いをやめるように伝えた日のことを言っている。
 タイミングや切り出し方、そして言葉選びなど、少しでも涼介が嫌な気持ちにならないように、入念に下準備を進めていたのだ。家族にももちろん相談したけど、養護教諭という立場上そういう言い回しは青木先生の得意分野だと思って、お昼休みに保健室まで走った。
 確かにそのとき『寝ている子がいるから静かにね』と言われて、声を殺して必死に事情を伝えた記憶があるけど。
 
「盗み聞きすぎじゃない?」
「不可抗力だよ」

 「そもそも先にいたのはおれだから」と笑う朝凪くんをキィッと睨み返す。

「それで考えを改めたんだ。性自認を自ら公表してるのは、形骸化した配慮の標的になるためなんかじゃなくて、鳴上さんの、おれたちに対する優しさなんだって」
「——……っ」

 すでにぱんぱんな目に、また下瞼の淵を沿う涙の気配を感じて反射的に目元が強張る。
 ところが、「中学のときの話を聞いて、その推測が確信になったよ」なんて追い打ちをかけるものだから、借りたままのハンカチを構える時間すら与えてもらうことなく、いくつもの雫が真下にあった私の両手の甲をそれぞれ濡らした。

「ありがとう……朝凪くん……」
「こちらこそ」

 なにに対する「こちらこそ」なのかピンと来なかったけど、それを訊く前に喉が嗚咽に負けてしまった。
 いつか、そう遠くない未来で、私は今日の出来事をきれいな石として積めているかもしれない。呼吸もままならないほどの涙に溺れながら、そう強く思った。
 結局、追加でしばらくハンカチを濡らし続けることになった私は、六時間目開始のチャイムが鳴ってしばらくしたころにようやく落ち着きを取り戻す。

「本当に六時間目までさぼるとか……」
「たまにはいいんだよ」
「朝凪くんこそ、さぼりから一番遠そうな人なのに」

 表情が綻んでいるのが自分でもわかった。
 先ほどとは比べ物にならないほど気分が晴れ晴れとしている。今なら校庭を全力で何周も走れるかもしれない。苦手な理系科目で発言することも、板書問題の解答を買って出ることもできるかもしれない。
 そんな高揚する胸の内を朝凪くんは見逃さなかった。

「どう? 今なら反論できそう?」
「え?」
「『性別に囚われてる』だっけ?」
「ああ……——うん」

 力強く頷く。

「性別をわざわざ意識しないのは、意識する必要もないほど当たり前の存在だから。呼吸するたびに酸素吸ってることなんて意識しないけど、そこに花粉が混ざった途端、花粉症の人が入念に対策するのと同じ。ちなみに、私は花粉症じゃないから全く気にならないよ」
「ははっ! いいね、かっこいい」

 ためらいなく口を開いて笑い声を上げた朝凪くんを窓から差し込む陽の光が照らした。この時間に来るのは初めてだけど、まだギリギリ日光が部屋の中まで届くらしい。
 ふと窓のほうを見ると、まだ雨は続いているものの雲の切れ間から青空が顔を覗かせていて、そのあまりの鮮やかさににっこり笑いかけられているような錯覚を起こした。
 一方せっかく光を得たというのに、この古ぼけた室内はやっぱり現役のころのように元通りとはいかない。でも、きっと仕方のないことなんだ。

「虹、出ないかなー」

 私の視線を辿って、朝凪くんも窓のほうへ顔を向ける。

「この時期は太陽の位置が高いから、もう少し日が落ちてからなら見えるかもね」
「そっかー。じゃあ、もうちょっと雨降っててほしい。で、虹出よう」
「出るんじゃない?」

 なぜか朝凪くんがじっと私を見た。

「鳴上さんがいるんだし」
「……っ適当すぎるでしょ!」

 虹の表面をそっと撫でるような優しい口ぶりに息を呑んだせいで、あまりにも口任せな発言に触れるのが一瞬遅れてしまった。
 また朝凪くんはからからと笑っている。

「そういえば、結局朝凪くんもマイノリティってことでいいんだよね?」
「ん?」
 
 透明度の高い瞳が細められる。その笑みに、嫌な予感がした。

「すぐにわかるよ」

 胡散臭そうに口の端を上げて長机から腰を離すと、朝凪くんは窓側を周って定位置である正面のパイプ椅子に腰を下ろした。

「いやいやいや……ねえ?」

 机に手をついて身を乗り出すけど、薄茶色の瞳はもう長机の上にある数冊の本へと向けられている。

「おーいっ! 聞けえぇぇぇ……!」

 体重をかけたせいで長机が軋み、すぐ横に積まれていた漫画がスルスルと雪崩のように崩れ落ちた。