「もう……いやだ…………」
込み上げるすべてのものをもう抑えきれない。
肩で息をしているせいで上手く話せないくせに、それでも口が、喉が、心が、吐き出すのを止めようとはしない。
「やっぱり……なんにも変わってなかったんだ……。大きらいな私は……まだいたんだよ……」
「大きらい?」
「中学のときの自分本位な私……」
ずっと怖かった。
香住くんに『本当にきらい』だと言った自分は、反省と改善によって本当にきれいさっぱり消滅したのかな。
いつだったかそんな一抹の不安を覚えてから、まだいるかもしれないあのときの自分に対する恐怖心が拭えなくなった。物陰から薄ら笑いを浮かべて私の隙を窺っているような、どこか落ち着かない感覚に苛まれるようになった。
持って生まれた性格なんてそう簡単に切り離せるはずがない。
成長して、あのころよりも考えて動けるようになったから表向きは協調的に振る舞えているだけで、本質はなにも変わっていない。
自信が揺らいで、不安が増えると、そんな考えに呑み込まれそうになる。
「怖くなるたびに言い聞かせてきた……。『大丈夫。たくさん叱られて、そのおかげで私はちゃんと反省できた』って……。『ちゃんと改善できてる』って……。でも、全然だった……ぜんぜん……なんにも、変わってない……」
「そんなことないよ」
「そんなことあるんだって!!」
いまだ掴まれたままだった左手を思いっきり振り払う。その暴力性に遅れて気付いたけど、止まれない。
「Xジェンダーとして、無性として、嫌だと思うことは当時からなにも変わってないんだよ?!」
弾む息遣いがみるみる声帯から潤いを奪っていき、ところどころ掠れた声になる。
「本当は女子として分類されるのなんて全部嫌だ! 女の子扱いだってされたくない! でも、集団の中で生きてくのに、わがままばっかり言ってられないから……! ……私の中に性別はない……ないんだよ……。ないのに……勝手に私の中から性別を見出さないでほしい……。まるで私が勝手にそう主張してるだけで、本当は女なんだみたいなこと……しないでほしい……」
女性だろうが男性だろうが、それ以外だろうが、性別を求めているわけじゃない。
それどころか欲を言えば、臓器も含めて性的特徴のない体を手に入れたいと思う。体のふくらみも、月に一度くるものも、声も、顔つきも、許されるのなら鳴上葵を構成するなにもかもから“性”という要素を徹底的に取り除きたい。
「私は……私の体が……気持ち、悪い……」
家族にすら伝えたことのない本音を人生で初めて口にする。
体自体が気持ち悪いのか、はたまた心の認識との不一致から生まれる違和感が不快なのか。いずれにしても、合っていない。私がこうだと頭で想像した通りの姿かたちじゃないものが、見下ろすたびに視界に映りこんでくる。得体の知れないものを見た感覚に襲われて、心底気持ちが悪い。
よく自分の体が自分のものじゃないみたいだと言うけど、本当にその通りだと思う。転生して、生前とはちがう性別の体に魂が入ったときに、最初はきっと平常心では見られないし使い勝手だってわからない。それをずっと持ち続けている感覚が近いのかもしれない。
「私の性別を守れるのは私だけなのに……」
体がそうではない以上、私の味方は私の心だけ。
私の心だけが私の性別の証人になれる。
「それなのに……私まで『女の子になれたら』なんて……思う、とか…………」
涼介に女の子扱いをやめてほしいと願い出たあの日から、少しずつ膨らんでいった不気味な欲望。そして、進級に伴って現れた明らかな“正解”の存在。
——私が心春だったら涼介を満足させてあげられるのかな。
付き合いに、私に、“女性”を求める涼介を見て、生まれて初めて芽生えた感情。それは同時に、Xジェンダー無性がただの主張でしかないことを容赦なく突き付けてきた。
“性別の感覚があるという感覚がわからない”という意識は今も変わらない。
だけど、羨ましいと強く思った。
不審者が出て心配する彼氏の気持ちを素直に受け取ることのできる小春が。
甘めのメイクやファッションを抵抗なく身に着けられる心春が。
自分の性別をなんの疑いもなく享受できる心春が。
涼介の望む彼女像そのものである心春が。
普段の学校生活で知らず知らず蓄積されていた羨望が、一緒に出かけたあの日とうとう限界を迎えた。
謝りたい一心でたくさん考えて、そうして気付いた。気付いてしまった。私もそうなれない体じゃないんだ——と。
「私が気付いてないだけで、私の体はきっと“女性”を知ってる……。あとは、心だけだったのかもしれない……。そう、考えたら…………」
私の体が持つ得体の知れないもの。それを認知してはいけないと心が警笛を鳴らす。
だけどその警告は本来必要ないもので、正体を知ればなんら害のない、むしろもっと早く受け入れるべきものだったとしたら。
「もう……わかんなくなった…………」
傍から見たときに女性と判断できてしまう特徴を私はすでに持っていて、憧れを抱いたことによって文字通り身も心の一部も女性になってしまったのかもしれない。
だけどまだ自分の変化に追いつけていない心が取り残されていて、私は必死にそこにしがみつこうとしている。そう思うと、なにを以て「自分」なのか、そんな芯のようなものを見失ってしまった。
そして私自身は自分がわからないのに、他人が私を把握しているかもしれない状態に凄まじい嫌悪感を抱いた。
「スカートは……本当に好きだから穿いてるだけなんだよ……。でも、そんなの証明できないし……理由だって、こじつけてるだけだと思われてるかもしれない……」
私の姿を見た人はみんな、私を“女子”高校生だと認識する。私の身体的性別はスカート一枚で簡単に証明できてしまう。
女子の体育に混ざる。
グループ分けで女子としてカウントされる。
身体測定の基準値が女子になる。
女子更衣室で着替える。
自分のあるべき姿を突き付けられる場面はまだこの世界にたくさんあって、そのいずれも私が無意識のうちに固く閉ざした“女性”という扉の錠を抉じ開けようとしてくる。
私は必死に錠を頑丈なものに変えて、増やして、それでも心許なくて鍵を心の奥底に隠す。
もし、そんな抵抗を——悪足掻きを——止めてしまえば。ただ黙っていれば、私はどの場面にも簡単に馴染んでしまえるのだろう。
「性自認を振りかざすんじゃなくて、受け入れてもらえる程度を探そう」なんて、意味のないことだったんだ。Xジェンダーだと“言い張る”私は、周りの目には不平不満を垂れているだけの人間に映っているかもしれないんだから。
じわじわと私の心を蝕んでいた物恐ろしさ。それを明確にしたのが桑くんの言葉だった。
「……『性別に囚われてる』。本当に……その通りだよ……」
吐き捨てた言葉を最後に沈黙が訪れた。やがて、目の前にハンカチが差し出される。
個人的には二度目であるこのシチュエーション。今回は実際に触れて確かめなくてもわかっている。私の頬は今、洗顔後のようにびしょ濡れだ。
「あり、がと……」
ハンカチを使う前に深く息を吸ったら、嗅ぎ慣れた匂いが一気に鼻腔を駆け抜けた。
古びた紙特有の匂いと埃臭さ。そこでようやく自分が今、あの部屋にいることに気が付いた。背後にある入口の扉は閉じられていて、目の前には私をここへ導いた張本人——朝凪くんが、珍しく眉間に皺を寄せて立っている。
声をかけようと息を吸った瞬間、一瞬立ちくらみが走った。咄嗟に手を伸ばしてくれた朝凪くんに支えてもらいながら、いつものパイプ椅子へゆっくり腰を下ろす。窓のほうへ向いて座る私の前で朝凪くんも長机に軽く腰を預けた。
走ったあとに泣きながら大声で話し続けたせいで、酸欠にでもなっているのかもしれない。そういえば頭も重いし痛い。まぶたも腫れて熱を帯びているし、顔も涙が乾いたところはパリパリである。もう散々だ。
とりあえず借りたハンカチを目元へ運ぼうとして、手を止めた。
きっちりと角を揃えて正方形に折りたたまれたそれは、触ったところコットン素材のようで、紺地に水色と白のストライプが入っている。角には一ヶ所、ブランドの名前であろうアルファベットが刺繍されているけど、英語ではないのか読めなかった。
「これ……こんな高級そうなやつ、使えないよ……」
私なんかの涙を拭うには、あまりにももったいない。
ハンカチを持つ腕からふっと力が抜ける。そんな私の顔を朝凪くんが上体を少し屈めて覗き込んだ。纏う透明感が今の私にはとてつもなく眩しい。
「高校生がそんな高いもの使わないよ。あと、今日は雨だからもともと二枚持ってきてて、それは昼休みに入れ替えたばかりのものだから、安心して使って。大丈夫」
「……うん、じゃあ……お借りします」
「どうぞ」
いつになく優しい声に、冷え切った心がゆっくり温まっていく。
生成した分はすべて出させてくれと言わんばかりに出続ける涙がまだぽつぽつこぼれ落ちていたけど、やがてそれが落ち着くとともに気持ち的にも余裕が生まれ始めた。
ようやく私は朝凪くんに問いかける。
込み上げるすべてのものをもう抑えきれない。
肩で息をしているせいで上手く話せないくせに、それでも口が、喉が、心が、吐き出すのを止めようとはしない。
「やっぱり……なんにも変わってなかったんだ……。大きらいな私は……まだいたんだよ……」
「大きらい?」
「中学のときの自分本位な私……」
ずっと怖かった。
香住くんに『本当にきらい』だと言った自分は、反省と改善によって本当にきれいさっぱり消滅したのかな。
いつだったかそんな一抹の不安を覚えてから、まだいるかもしれないあのときの自分に対する恐怖心が拭えなくなった。物陰から薄ら笑いを浮かべて私の隙を窺っているような、どこか落ち着かない感覚に苛まれるようになった。
持って生まれた性格なんてそう簡単に切り離せるはずがない。
成長して、あのころよりも考えて動けるようになったから表向きは協調的に振る舞えているだけで、本質はなにも変わっていない。
自信が揺らいで、不安が増えると、そんな考えに呑み込まれそうになる。
「怖くなるたびに言い聞かせてきた……。『大丈夫。たくさん叱られて、そのおかげで私はちゃんと反省できた』って……。『ちゃんと改善できてる』って……。でも、全然だった……ぜんぜん……なんにも、変わってない……」
「そんなことないよ」
「そんなことあるんだって!!」
いまだ掴まれたままだった左手を思いっきり振り払う。その暴力性に遅れて気付いたけど、止まれない。
「Xジェンダーとして、無性として、嫌だと思うことは当時からなにも変わってないんだよ?!」
弾む息遣いがみるみる声帯から潤いを奪っていき、ところどころ掠れた声になる。
「本当は女子として分類されるのなんて全部嫌だ! 女の子扱いだってされたくない! でも、集団の中で生きてくのに、わがままばっかり言ってられないから……! ……私の中に性別はない……ないんだよ……。ないのに……勝手に私の中から性別を見出さないでほしい……。まるで私が勝手にそう主張してるだけで、本当は女なんだみたいなこと……しないでほしい……」
女性だろうが男性だろうが、それ以外だろうが、性別を求めているわけじゃない。
それどころか欲を言えば、臓器も含めて性的特徴のない体を手に入れたいと思う。体のふくらみも、月に一度くるものも、声も、顔つきも、許されるのなら鳴上葵を構成するなにもかもから“性”という要素を徹底的に取り除きたい。
「私は……私の体が……気持ち、悪い……」
家族にすら伝えたことのない本音を人生で初めて口にする。
体自体が気持ち悪いのか、はたまた心の認識との不一致から生まれる違和感が不快なのか。いずれにしても、合っていない。私がこうだと頭で想像した通りの姿かたちじゃないものが、見下ろすたびに視界に映りこんでくる。得体の知れないものを見た感覚に襲われて、心底気持ちが悪い。
よく自分の体が自分のものじゃないみたいだと言うけど、本当にその通りだと思う。転生して、生前とはちがう性別の体に魂が入ったときに、最初はきっと平常心では見られないし使い勝手だってわからない。それをずっと持ち続けている感覚が近いのかもしれない。
「私の性別を守れるのは私だけなのに……」
体がそうではない以上、私の味方は私の心だけ。
私の心だけが私の性別の証人になれる。
「それなのに……私まで『女の子になれたら』なんて……思う、とか…………」
涼介に女の子扱いをやめてほしいと願い出たあの日から、少しずつ膨らんでいった不気味な欲望。そして、進級に伴って現れた明らかな“正解”の存在。
——私が心春だったら涼介を満足させてあげられるのかな。
付き合いに、私に、“女性”を求める涼介を見て、生まれて初めて芽生えた感情。それは同時に、Xジェンダー無性がただの主張でしかないことを容赦なく突き付けてきた。
“性別の感覚があるという感覚がわからない”という意識は今も変わらない。
だけど、羨ましいと強く思った。
不審者が出て心配する彼氏の気持ちを素直に受け取ることのできる小春が。
甘めのメイクやファッションを抵抗なく身に着けられる心春が。
自分の性別をなんの疑いもなく享受できる心春が。
涼介の望む彼女像そのものである心春が。
普段の学校生活で知らず知らず蓄積されていた羨望が、一緒に出かけたあの日とうとう限界を迎えた。
謝りたい一心でたくさん考えて、そうして気付いた。気付いてしまった。私もそうなれない体じゃないんだ——と。
「私が気付いてないだけで、私の体はきっと“女性”を知ってる……。あとは、心だけだったのかもしれない……。そう、考えたら…………」
私の体が持つ得体の知れないもの。それを認知してはいけないと心が警笛を鳴らす。
だけどその警告は本来必要ないもので、正体を知ればなんら害のない、むしろもっと早く受け入れるべきものだったとしたら。
「もう……わかんなくなった…………」
傍から見たときに女性と判断できてしまう特徴を私はすでに持っていて、憧れを抱いたことによって文字通り身も心の一部も女性になってしまったのかもしれない。
だけどまだ自分の変化に追いつけていない心が取り残されていて、私は必死にそこにしがみつこうとしている。そう思うと、なにを以て「自分」なのか、そんな芯のようなものを見失ってしまった。
そして私自身は自分がわからないのに、他人が私を把握しているかもしれない状態に凄まじい嫌悪感を抱いた。
「スカートは……本当に好きだから穿いてるだけなんだよ……。でも、そんなの証明できないし……理由だって、こじつけてるだけだと思われてるかもしれない……」
私の姿を見た人はみんな、私を“女子”高校生だと認識する。私の身体的性別はスカート一枚で簡単に証明できてしまう。
女子の体育に混ざる。
グループ分けで女子としてカウントされる。
身体測定の基準値が女子になる。
女子更衣室で着替える。
自分のあるべき姿を突き付けられる場面はまだこの世界にたくさんあって、そのいずれも私が無意識のうちに固く閉ざした“女性”という扉の錠を抉じ開けようとしてくる。
私は必死に錠を頑丈なものに変えて、増やして、それでも心許なくて鍵を心の奥底に隠す。
もし、そんな抵抗を——悪足掻きを——止めてしまえば。ただ黙っていれば、私はどの場面にも簡単に馴染んでしまえるのだろう。
「性自認を振りかざすんじゃなくて、受け入れてもらえる程度を探そう」なんて、意味のないことだったんだ。Xジェンダーだと“言い張る”私は、周りの目には不平不満を垂れているだけの人間に映っているかもしれないんだから。
じわじわと私の心を蝕んでいた物恐ろしさ。それを明確にしたのが桑くんの言葉だった。
「……『性別に囚われてる』。本当に……その通りだよ……」
吐き捨てた言葉を最後に沈黙が訪れた。やがて、目の前にハンカチが差し出される。
個人的には二度目であるこのシチュエーション。今回は実際に触れて確かめなくてもわかっている。私の頬は今、洗顔後のようにびしょ濡れだ。
「あり、がと……」
ハンカチを使う前に深く息を吸ったら、嗅ぎ慣れた匂いが一気に鼻腔を駆け抜けた。
古びた紙特有の匂いと埃臭さ。そこでようやく自分が今、あの部屋にいることに気が付いた。背後にある入口の扉は閉じられていて、目の前には私をここへ導いた張本人——朝凪くんが、珍しく眉間に皺を寄せて立っている。
声をかけようと息を吸った瞬間、一瞬立ちくらみが走った。咄嗟に手を伸ばしてくれた朝凪くんに支えてもらいながら、いつものパイプ椅子へゆっくり腰を下ろす。窓のほうへ向いて座る私の前で朝凪くんも長机に軽く腰を預けた。
走ったあとに泣きながら大声で話し続けたせいで、酸欠にでもなっているのかもしれない。そういえば頭も重いし痛い。まぶたも腫れて熱を帯びているし、顔も涙が乾いたところはパリパリである。もう散々だ。
とりあえず借りたハンカチを目元へ運ぼうとして、手を止めた。
きっちりと角を揃えて正方形に折りたたまれたそれは、触ったところコットン素材のようで、紺地に水色と白のストライプが入っている。角には一ヶ所、ブランドの名前であろうアルファベットが刺繍されているけど、英語ではないのか読めなかった。
「これ……こんな高級そうなやつ、使えないよ……」
私なんかの涙を拭うには、あまりにももったいない。
ハンカチを持つ腕からふっと力が抜ける。そんな私の顔を朝凪くんが上体を少し屈めて覗き込んだ。纏う透明感が今の私にはとてつもなく眩しい。
「高校生がそんな高いもの使わないよ。あと、今日は雨だからもともと二枚持ってきてて、それは昼休みに入れ替えたばかりのものだから、安心して使って。大丈夫」
「……うん、じゃあ……お借りします」
「どうぞ」
いつになく優しい声に、冷え切った心がゆっくり温まっていく。
生成した分はすべて出させてくれと言わんばかりに出続ける涙がまだぽつぽつこぼれ落ちていたけど、やがてそれが落ち着くとともに気持ち的にも余裕が生まれ始めた。
ようやく私は朝凪くんに問いかける。

