「そういえば、なんで朝凪くんがあそこに?」
「そりゃあ、教室の前であんなに派手にやってたら気にもなるよ」
私は首を傾げた。「教室の前」の意味がわからない。廊下にいたのだからどこにいようと“教室の前”だ。
体力の消耗によって思考力まで格段に低下した私の有り様を察したのだろうか。
「おれ、四組だから」
「四組って……」
私たちがちょうど立ち止まっていたところだ。
「え、じゃあ、全部……?」
「どうだろう? 『顔広いね』ってよく通る声が聞こえて」
ほぼ全部だな。
「……盗み聞きなんてひどい」
「不可抗力だよ。おれの席、廊下側一番後ろだから」
だとしても、廊下は人の往来がある。聞き耳を立てなくては会話なんて聞こえるはずがない。そんな不信感を込めて腫れきった目でじとっと見るも、朝凪くんは軽やかに無視である。
この「いつも通り」が疲れ切った全身にじんわりと染み渡り、今さらながら朝凪くんと会うのが少し久しぶりであることに気が付いた。
「……ていうか、体力あるんだね。余裕そうでびっくりした」
ここに着いた瞬間の私と朝凪くんの対照的な姿が思い出される。
体力を大幅に消耗した私ととても涼やかだった朝凪くん。元文藝部員同士だというのに、この歴然とした差は一体どこから来てるんだ。
「夜、走ってるから」
「あ、そうなんだ。えらい」
「見くびってたでしょ?」
「へっ?!」
「貧弱な男だとでも思ってた?」
「いやぁ、えーっと……ははは……」
朝凪くんはスタイルはいいけど、失礼ながら運動部のような体力のある体つきではない気がする。その真意を見抜いた鋭い指摘に、なんともお粗末な躱ししかできない。
そんな私を横目に「窓、開けよっか」と立ち上がると、マイペースに部屋の入口まで進んで扉を引いた。私がどんな印象を抱いているかなんて、どうでもいいのだろう。
相変わらずだ。あれほど騒然としていた人だかりを抜けて、私の激情をすべて受け止めてくれたというのに、日曜日の朝の静けさみたいに悠然としている。朝凪くんが取り乱す様子を想像してみるけど、上手くいかない。
まもなくカラカラと窓の滑る音が心地よく耳に届いた。
今日はほとんど風がないようで、吹き抜ける風がぶつかってくる感覚はない。
だけど、灰色の雲の先にかすかな光の気配を感じた気がした。
引き寄せられるように窓のそばに寄ると、雨脚が少しだけ弱まっている。もしかしたら帰るころには止んでいるかもしれない——……
そこまで考えて、はたと気付いた。
「えっ?! 授業は?!」
「とっくに始まってるよ」
勢いよく右隣へ問うと、事も無げに返される。
訊くと、ちょうど別館に入った辺りで五時間目の始業を知らせるチャイムが鳴ったらしい。
「いやいやいや……戻らないと」
入口へ向かおうと踵を返した私の左手首をまたもや朝凪くんが掴んだ。
静寂が腰を据える室内でパシッと軽い音が遠慮なく響く。音楽室をはじめとした特別教室での授業は行われていないのか、耳に届くのはわずかに開いた窓から聞こえる雨音だけだ。
「無理だよ、その状態じゃ」
「でも、さぼるのは……」
「大丈夫だよ。あと二時間ぐらい」
「えっ?! 六時間目もさぼるの?!」
「いいから」
「うわっ!」
いきなり両肩を掴まれたかと思うとそのままぐいぐい後方に押され、またパイプ椅子に戻ってきた。朝凪くんも同じように机に腰掛ける。
それから少しの間、お互いなにも話さなかった。
私に関しては泣いた後遺症がひどすぎたのと、座ったことでその疲労感を一気に実感してしまったせいなんだけど、多分朝凪くんはそんな私の状況をすべてわかった上での沈黙だったのだと思う。
その優しさに身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。やがて精度を増した聴覚が、すべてのもの一つ一つに丁寧に降り注ぐ雨音を捉えた。
昔から雨が好きだった。
傘をささなくてもなんとかなる小雨や叩きつけるような土砂降りじゃなくて、しとしとと静かに、けれども確実にこの世界を濡らしていく雨が一番好きだった。
人間が作るいろんな音がスッと蓋をしたかのように聞こえなくなって、雨粒がそこにあるものをただ打つだけの単調な音が続いていく。それが子どもの私にはとても神秘的な現象に思えてならなかった。
さすがにあのときほど濡れることに寛容ではなくなったけど、それでもやっぱり雨と私の心は親和性が高い。
童心に帰った心地になり、もれなく自分もそこにあるもののうちの一つであることを自覚させてもらった気になってから、ようやく私はゆっくりと口を開いた。
「聞いてくれてありがとう。あと、いきなりヒスってごめん。手も……本当にごめんね」
「それほど追い詰められてたんじゃない? むしろ、吐き出してくれて安心した」
「安心? なんで?」
「言葉は悪いけど、いい子すぎたから。明るくて前向き、ちゃんと反省と改善ができる。それは鳴上さんの周りの人にとっては長所だけど、鳴上さん自身には短所として働きそうだなって思ってた」
「私自身には短所……って、どういうこと?」
「良くない感情が生まれたときに、そんな自分を強く否定しそうだなって」
「…………っ」
核心を突かれた気がして、たちまち鼓動が強くなる。
「いや……だって、心春に嫉妬して、涼介を振り回して……人を傷付けたんだからちゃんと否定しないと。確かに、精一杯がんばったのにな、とは思うよ? わがまま聞いてもらう代わりに、自分にできることは全部やろうって……。でも、まちがってたんだよ……。なにもかも、結局ただの自己満だった……」
また振出しに戻らなくてはいけない。
家族に相談して、お兄ちゃんに正論で殴られて、それで——……前を向く。そんな力がまだ私の中に残っているのだろうか。
「なんで、こんなに壁ばっかりなんだろ……」
考えるより先に、自身の境遇に対する恨み言が口を衝いて出た。
ハッとしたけど、もう遅い。前を向き続けることに疲れていると、察しのいい朝凪くんにはきっと伝わってしまっている。
「諦めないからだよ、鳴上さんが」
「え?」
思いのほか力強く言い切られて、さらにはその意外な言葉に私は顔を上げた。
窓から差し込む微かな自然光によって私から見える側が少し陰になっているせいか、その横顔からは遣る瀬無さのようなものが見て取れた。
「距離を取れば楽なのに、人が好きなんだろうね。失敗から学んで改善策を講じてまで、人といることを諦めない。別に一人でいられない性格でもなさそうなのにさ」
似たようなことを香住くんにも言われたなと頭の片隅で思う。
あのときの私は確か人から離れない理由としてお母さんの訓えを挙げた。人生は石の積み重ね——今日の出来事をどんな形で積むのか、今の私にはまだ見えない。
「だから、言ったんだよ。“頭でっかちだ”って」
「ずっと気になってたんだけど、それどういう意味? 今となんの関係があるの?」
「ただの皮肉だよ。物事を素直にいいこととして受け取れない人間の」
「また言葉が足りないです」
「ふっ、失礼しました」
誤解を解いて、中学の出来事を打ち明けたあの日を境に、私たちの距離はぐっと縮まった。それはここで顔を合わせると、数十分はおしゃべりに興じるようになったほどに。
とはいえ真面目な話をしたのはあの日だけで、いつもは帰り際には忘れてしまうほどくだらないことしか口にしていない。もはや「憶えてないけど、なんか今日も楽しかった」という感覚だけ残るのが醍醐味と言えた。
そんなだから、あの日朝凪くんが口にした「頭でっかち」の意味も訊きそびれていたのだ。
「今の時代、ネットさえ繋がれば手に入れられない情報はない。だから多様性を“理解している”人は多いし、それによって生きやすいと感じる人は格段に増えた。いつだったか鳴上さんも言ってた通り、紛れもなくいいことなんだろうけど——……」
朝凪くんの目元を隠すように落ちた指通りのよさそうな髪。その一本一本が窓の外を静かに落ちる雨粒の軌道に見えた。
「おれにはそれがすごくしんどい」
「そりゃあ、教室の前であんなに派手にやってたら気にもなるよ」
私は首を傾げた。「教室の前」の意味がわからない。廊下にいたのだからどこにいようと“教室の前”だ。
体力の消耗によって思考力まで格段に低下した私の有り様を察したのだろうか。
「おれ、四組だから」
「四組って……」
私たちがちょうど立ち止まっていたところだ。
「え、じゃあ、全部……?」
「どうだろう? 『顔広いね』ってよく通る声が聞こえて」
ほぼ全部だな。
「……盗み聞きなんてひどい」
「不可抗力だよ。おれの席、廊下側一番後ろだから」
だとしても、廊下は人の往来がある。聞き耳を立てなくては会話なんて聞こえるはずがない。そんな不信感を込めて腫れきった目でじとっと見るも、朝凪くんは軽やかに無視である。
この「いつも通り」が疲れ切った全身にじんわりと染み渡り、今さらながら朝凪くんと会うのが少し久しぶりであることに気が付いた。
「……ていうか、体力あるんだね。余裕そうでびっくりした」
ここに着いた瞬間の私と朝凪くんの対照的な姿が思い出される。
体力を大幅に消耗した私ととても涼やかだった朝凪くん。元文藝部員同士だというのに、この歴然とした差は一体どこから来てるんだ。
「夜、走ってるから」
「あ、そうなんだ。えらい」
「見くびってたでしょ?」
「へっ?!」
「貧弱な男だとでも思ってた?」
「いやぁ、えーっと……ははは……」
朝凪くんはスタイルはいいけど、失礼ながら運動部のような体力のある体つきではない気がする。その真意を見抜いた鋭い指摘に、なんともお粗末な躱ししかできない。
そんな私を横目に「窓、開けよっか」と立ち上がると、マイペースに部屋の入口まで進んで扉を引いた。私がどんな印象を抱いているかなんて、どうでもいいのだろう。
相変わらずだ。あれほど騒然としていた人だかりを抜けて、私の激情をすべて受け止めてくれたというのに、日曜日の朝の静けさみたいに悠然としている。朝凪くんが取り乱す様子を想像してみるけど、上手くいかない。
まもなくカラカラと窓の滑る音が心地よく耳に届いた。
今日はほとんど風がないようで、吹き抜ける風がぶつかってくる感覚はない。
だけど、灰色の雲の先にかすかな光の気配を感じた気がした。
引き寄せられるように窓のそばに寄ると、雨脚が少しだけ弱まっている。もしかしたら帰るころには止んでいるかもしれない——……
そこまで考えて、はたと気付いた。
「えっ?! 授業は?!」
「とっくに始まってるよ」
勢いよく右隣へ問うと、事も無げに返される。
訊くと、ちょうど別館に入った辺りで五時間目の始業を知らせるチャイムが鳴ったらしい。
「いやいやいや……戻らないと」
入口へ向かおうと踵を返した私の左手首をまたもや朝凪くんが掴んだ。
静寂が腰を据える室内でパシッと軽い音が遠慮なく響く。音楽室をはじめとした特別教室での授業は行われていないのか、耳に届くのはわずかに開いた窓から聞こえる雨音だけだ。
「無理だよ、その状態じゃ」
「でも、さぼるのは……」
「大丈夫だよ。あと二時間ぐらい」
「えっ?! 六時間目もさぼるの?!」
「いいから」
「うわっ!」
いきなり両肩を掴まれたかと思うとそのままぐいぐい後方に押され、またパイプ椅子に戻ってきた。朝凪くんも同じように机に腰掛ける。
それから少しの間、お互いなにも話さなかった。
私に関しては泣いた後遺症がひどすぎたのと、座ったことでその疲労感を一気に実感してしまったせいなんだけど、多分朝凪くんはそんな私の状況をすべてわかった上での沈黙だったのだと思う。
その優しさに身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。やがて精度を増した聴覚が、すべてのもの一つ一つに丁寧に降り注ぐ雨音を捉えた。
昔から雨が好きだった。
傘をささなくてもなんとかなる小雨や叩きつけるような土砂降りじゃなくて、しとしとと静かに、けれども確実にこの世界を濡らしていく雨が一番好きだった。
人間が作るいろんな音がスッと蓋をしたかのように聞こえなくなって、雨粒がそこにあるものをただ打つだけの単調な音が続いていく。それが子どもの私にはとても神秘的な現象に思えてならなかった。
さすがにあのときほど濡れることに寛容ではなくなったけど、それでもやっぱり雨と私の心は親和性が高い。
童心に帰った心地になり、もれなく自分もそこにあるもののうちの一つであることを自覚させてもらった気になってから、ようやく私はゆっくりと口を開いた。
「聞いてくれてありがとう。あと、いきなりヒスってごめん。手も……本当にごめんね」
「それほど追い詰められてたんじゃない? むしろ、吐き出してくれて安心した」
「安心? なんで?」
「言葉は悪いけど、いい子すぎたから。明るくて前向き、ちゃんと反省と改善ができる。それは鳴上さんの周りの人にとっては長所だけど、鳴上さん自身には短所として働きそうだなって思ってた」
「私自身には短所……って、どういうこと?」
「良くない感情が生まれたときに、そんな自分を強く否定しそうだなって」
「…………っ」
核心を突かれた気がして、たちまち鼓動が強くなる。
「いや……だって、心春に嫉妬して、涼介を振り回して……人を傷付けたんだからちゃんと否定しないと。確かに、精一杯がんばったのにな、とは思うよ? わがまま聞いてもらう代わりに、自分にできることは全部やろうって……。でも、まちがってたんだよ……。なにもかも、結局ただの自己満だった……」
また振出しに戻らなくてはいけない。
家族に相談して、お兄ちゃんに正論で殴られて、それで——……前を向く。そんな力がまだ私の中に残っているのだろうか。
「なんで、こんなに壁ばっかりなんだろ……」
考えるより先に、自身の境遇に対する恨み言が口を衝いて出た。
ハッとしたけど、もう遅い。前を向き続けることに疲れていると、察しのいい朝凪くんにはきっと伝わってしまっている。
「諦めないからだよ、鳴上さんが」
「え?」
思いのほか力強く言い切られて、さらにはその意外な言葉に私は顔を上げた。
窓から差し込む微かな自然光によって私から見える側が少し陰になっているせいか、その横顔からは遣る瀬無さのようなものが見て取れた。
「距離を取れば楽なのに、人が好きなんだろうね。失敗から学んで改善策を講じてまで、人といることを諦めない。別に一人でいられない性格でもなさそうなのにさ」
似たようなことを香住くんにも言われたなと頭の片隅で思う。
あのときの私は確か人から離れない理由としてお母さんの訓えを挙げた。人生は石の積み重ね——今日の出来事をどんな形で積むのか、今の私にはまだ見えない。
「だから、言ったんだよ。“頭でっかちだ”って」
「ずっと気になってたんだけど、それどういう意味? 今となんの関係があるの?」
「ただの皮肉だよ。物事を素直にいいこととして受け取れない人間の」
「また言葉が足りないです」
「ふっ、失礼しました」
誤解を解いて、中学の出来事を打ち明けたあの日を境に、私たちの距離はぐっと縮まった。それはここで顔を合わせると、数十分はおしゃべりに興じるようになったほどに。
とはいえ真面目な話をしたのはあの日だけで、いつもは帰り際には忘れてしまうほどくだらないことしか口にしていない。もはや「憶えてないけど、なんか今日も楽しかった」という感覚だけ残るのが醍醐味と言えた。
そんなだから、あの日朝凪くんが口にした「頭でっかち」の意味も訊きそびれていたのだ。
「今の時代、ネットさえ繋がれば手に入れられない情報はない。だから多様性を“理解している”人は多いし、それによって生きやすいと感じる人は格段に増えた。いつだったか鳴上さんも言ってた通り、紛れもなくいいことなんだろうけど——……」
朝凪くんの目元を隠すように落ちた指通りのよさそうな髪。その一本一本が窓の外を静かに落ちる雨粒の軌道に見えた。
「おれにはそれがすごくしんどい」
