季節のはざまに虹を架ける

 突き付けられた事実にひどく動揺する傍らで、どこか冷静に思い当たる違和感を記憶の大海から掬っている自分がいた。
 直接なにか言われたことがあるわけじゃない。
 試合の応援に行ったときに何度か涼介を交えて顔を合わせたけど、特別敵視されているとも感じなかった。
 寡黙な人なんだと思う。
 私と涼介の会話に積極的に混ざるというよりは、そばで静かに聞いているような人だったから。それでも折良く挟まれる絶妙な一言から頭の良さが伺えて、もっと話してみたいと興味を抱いたのは間違いない。
 でも、一つだけ引っかかることがあった。
 桑くんは素っ気ないわけではないけど、たいして友好的でもなかったのだ。
 廊下でばったり会ってもスッと目を逸らしてそのまま通り過ぎてしまう。それは「あっ!」とか「桑くん」とか私から目に見えるリアクションがあったとしても同じだった。
 そこまでされてもなにも思わなかったのは、人見知りが激しい人だと涼介から聞かされていたからだ。『桑くんはさっさと立ち去るものだと思っていた』のもそういう理由からで、まさか友人の恋愛事情に踏み込んでくるなんて夢にも思わなかった。
 だけど、ちがっていた。
 桑くんの態度はちゃんとした意思表示だったんだ。

「ちょっと、どういうこと——」
「心春、いいから」

 食って掛かろうとする心春の左腕を今度は私が強く引く。
 止められるとは思っていなかったようで、「あおいちゃん……」心春は納得のいかない表情だ。

「大丈夫」

 私は友人の瞳を真っ直ぐに見て諭すように深く頷いた。
 言いたいことを呑み込むように口をぎゅっと噤んだ心春を残して視線を戻すと、今度は正義感に燃えた眼差しと対峙する。
 左背後に心春がそっと寄り添うような気配がして、たちまち心に強さが宿った。

「詳しく教えてもらっていいかな。そうした理由」

 受けて立つとでも言うように桑くんが一歩前に出た。

「昔からあいつの好みは女性らしい人だった。それこそあんたのような」
「えっ、わたし?!」

 背後から上がった高い声に、反射的に上半身が右へ傾く。

「あっ、あおいちゃん! わたし、文野くんとはなにもないからね?!」
「大丈夫。わかってるよ」

 肩口をグッと掴んで必死に訴えてくる心春に半身で振り返って私は言った。
 いきなり話の矛先を向けられて、それでもなによりまず私の心配をしてくれる心春はやっぱり優しい。

「善し悪しの話じゃない。あくまであいつの好みがそういう人だということだ」
「それは私もなんとなく感じてた」
「だから、付き合うと言われたときは驚いた。そして止めた。少なくともあいつにとっては無理をする付き合いになる。そう思ったからだ」
「じゃあ、桑くんの予想は合ってたわけだ。……結果的に私たちはその“無理”が理由で、別れたんだから……」

 つい、あははっと乾いた笑いを漏らしたら、肩口に乗せられたままだった心春の手に力が入った。

「俺はあんたのその態度が気に入らない」
「え?」
「傷付いているのは自分だけだとでも思っているのか」
「……え?」
「あんたと付き合っている間のあいつは本当に幸せそうだった。心配するだけ無駄だったのだと思い直したほどだ。だが、次第に雲行きが怪しくなってきた」
「…………」
「あんたが『女扱いをやめてくれ』とあいつに言ってからだ」

 桑くんが言い切るとほぼ同時に、背後から「えっ」とほとんど声になっていない驚きが上がり、咄嗟に口元を手で押さえた気配がした。
 すでに早まっていた鼓動のリズムがたちまち乱れていく。
 行き交う生徒から注がれる興味が増えたように感じるけど、わざわざ確かめている余裕なんてない。私の視線は斜め下、自分と同じ学年色の入った桑くんの上履きから動かせないでいる。

「あんたは知らないだろう。そう言われて、涼介がどれほど思い悩んでいたか。あいつの細やかな気配りはもうほとんど気質に近いものだ。どれだけ気を付けていても無意識に出てしまう。それをどうにか抑えたいと何度も相談してきた。姉にも頼ったと言っていた。それなのにあんたは——」

 先に言われることがわかってしまって、私はぎゅっと目を閉じた。

「簡単に自身の発言を撤回したんだ」

 込み上げるものがあふれてしまわないように口を引き結ぶ。視界も遮断している今、桑くんの言葉だけが何度も脳裏をこだました。
 こうして人伝に聞くと自分の身勝手さがよくわかる。
 涼介の苦悩は目に見えて明らかで、だからこそ彼の良さを殺してしまう付き合い方なんて正しくないと思っての判断だった。だけど単に撤回するのではなく、二人で話し合って涼介の苦しみに寄り添うべきだったんだ。

「あんたはそれでスッキリしたのかもしれないが、涼介はさらに悩むことになった。『無理やり言わせた』だのなんだのと自分を責めて、部活にだって支障が出たんだぞ。だから言ったんだ。『別れるべきだ』と。でも、あいつは首を縦に振らなかった。『性別がないのがあいつだから』と、あくまでそれを知って付き合っている自分が悪いのだと言い張った」
「…………」

 矢継ぎ早に話して疲れたのか、はたまた私に向けたものなのか、桑くんは深いため息をひとつ挟む。

「だいたいあいつは優しすぎる。やっと別れる決心をしたと思ったら、結局あんたにはなにも言わず、あろうことかあんたの今後にまで気を回すような別れ方をして。そのせいで今もずっと塞ぎ込んでる。……俺は腹の虫が治まらない」

 初めて聞く涼介の気持ち。
 勉強や部活について相談されることはあったけど、この手の本音は一度も聞いたことがなかった。そしてそれは私も同じだった。
 どうしてだろう。
 今考えれば他のなによりも話し合わなくちゃいけないものなのに。お互い相手にはなにも言わず裏で勝手に結論付けて、それをまるで宿題のように提出するだけだった。
 『精一杯大切にした自信はある』なんて、よくも大きな顔をして言えたものだ。

「あまりにも身勝手だろう。撤回するなら最初から言わなければいいものを、どうして悩みの種だけ植え付けて放置するようなことをするんだ。植えたのであれば、それを一つ残らず摘みきるぐらいの気概を見せろ」
「……確かに、不誠実なところはあった」

 ようやく発した言葉はしなびた花よりも頼りないものだった。
 しかも顔は上げられなくて床に向かって発したも同然だから、桑くんの耳に届いたかどうかすら定かではない。

「はっ。不誠実なところしかないだろう」

 聞こえていたところで、桑くんの勢いは衰えなかった。

「元はと言えば、女扱いでいいなどと自ら公言するから面倒なことになるんだ。涼介に限った話ではない。わざわざ誤解させるようなことをしておいて途中で掌を返すなんて、されたほうの身にもなってみろ。混乱するのは当然だろう」
「…………」

 返す言葉が見つからなくて、両手にぎゅっと力を込めてささやかな抵抗を試みる。
 私なりに中学の出来事から学んで、集団の中でも自分らしさを見失わず、なおかつ周囲と上手くやれる方法を見出したつもりだった。
 正解なんて求め始めたらきりがない。
 誰かの正解が誰かの不正解なんてこともざらにあるこの世界で、時には正解でも不正解でもないはずの選択が正解となることもある。
 それなら軸は自分の中に持っておこう。そう思った。
 自分のことなんだから、せめて自分だけは正解だと信じられる道を進めるように。
 自分自身から手を放すことだけは決してしないように。
 真新しい制服に身を包んだ高校一年生の私は、そう決心して新たな生活へと踏み出したはずだったのに。

「性自認なんて関係ない。あんたの人間性の話だ」

 いつかの自分の言葉を聞いた気がして、弾かれたように顔を上げる。
 瞬間、獲物を狙う鋭い眼光に射竦められた。桑くんはずっとこんな目で私を見ていたんだ。友人を大切にできない元恋人に心の底から軽蔑している目。それが直談判したあの子のものと少し重なって胸がひんやりする。
 ややあって、一層目力を強めた桑くんは言い放った。

「真摯に向き合おうとするあいつに感謝するどころか、踏み躙るようなことしかできないやつに涼介は渡さない」

 ピキッピキッとひびの入る音がする。あの日、新一年生の私が歩く桜の花びらで埋め尽くされた道に。
 新たな出会いに対する期待を胸に、胃が引き絞られるような不安と緊張を抱えた私の足元が次第にぐらついていく。
 それでもなんとか立て直そうと必死に足掻く私は一歩ずつ前に進み、けれども不意を突かれたようにとうとう道の裂け目に躓いてしまった。
 その時機(とき)を待ち侘びていたかのごとく、

「『性別がない』だったか」

 桑くんが仕留めにかかる。

「はっきり言わせてもらうと、俺にはあんたのほうがよっぽど性別に囚われてるように見える。普通に生きていたら、性別なんてそこまで気にしない。あんたは性自認を免罪符にして、あいつの気持ちを蔑ろにしたんだ」

 道がついに砕け散った。
 新たに現れたのは、暗闇に伸びる一本道。そして、闇を埋め尽くすたくさんの目。それらは桑くんや直談判した子と同じ厳しい目つきで道行く私を絶えず見下ろし、私の信念などただのくだらない盲信だと無いはずの口で怒号を轟かせる。
 新一年生の私が立っていたのは、そして今も変わらず続いていると思っていた道は、美しい桜色などではなかったのだ。本当は、本当は——……
 視界が下のほうからじわじわと歪んでいく。
 迫り上がる感情が呼吸のリズムを激しく乱し、息苦しさを覚えた。足の着かないプールで顔が水面と水中を行ったり来たりするときと似た焦りに襲われる。
 だからといってプールサイドに手を伸ばしても届かない。助けを求めて声を上げても、そこに人は——……。

「——いい加減にして!!」

 突如、私と桑くんの間に入ってきた人影を見て、ようやく心春の存在を思い出した。

「さっきからなんなの?! あおいちゃんが黙ってるのをいいことに、自分の言いたいことばっかり押し付けて。どれも文野くんから聞いた話を自分の都合よく解釈しただけじゃない!」

 初めて聞く心春の力強い声に私は目を瞠った。
 私より少し低い背丈に一回り小柄な背中が今は驚くほど大きく見える。ジャーマンシェパードとチワワぐらいの体格差だというのに、彼女からは恐怖心など微塵も感じない。

「はっ、なにを——」
「逃げなよ、あおいちゃん!」

 桑くんの反論など一顧だにせず、こちらを振り返った心春はきっぱりと言い切った。

「…………え?」

 意表を突かれて反応に遅れる。
 今、心春はなんて言った?
 逃げるって——なにから?
 情けなくもぼんやりしていると、桑くんの背後から「拓実、お前なにやってんだよ!」と聞き慣れた声が響き渡った。
 グッと強く掴まれた桑くんの肩越しにかつての恋人の顔が現れる。

「なんだよ、涼介。お前がなにも言わないから、俺が代わりに言ってやったんだろ」
「俺がそんなこと一度でも頼んだかっ?!」

 どうやらこれまでのことはすべて桑くんの独断によるものらしい。
 涼介に頼まれたかのかなんて考える余裕すらなかったというのに、そうではなかったことに厚かましくも安堵してしまう。

「頼まれてなくとも、あんなに傷付いたお前を見ればなにかしてやりたくもなるだろう。おい、あんた——」
「あおいちゃん!」

 再び私に向きそうになった話の矛先を心春の高く強い声が弾く。

「逃げて!!」

 ——グイッ

「えっ?!」

 瞬間、左手首を強く掴まれて体が後方に傾いた。
 たたらを踏みながらもなんとか立て直し、ただ導かれるがままに足を動かす。
 知らない間にできていた群衆を抜けてようやく目に入ったのは、私の左手首から伸びる右腕の先で体の動きに合わせてサラサラと揺れる色素の薄い髪。私より頭半分ほど高い位置でなびくそれは、こんな天気だというのに相変わらずの透明感だ。
 そんな非現実的で日常的な光景に私はひどく安心感を覚える。
 もう二年生のフロアなどとっくに抜けたというのに、私は走り続けるその背中をただ見つめていた。