季節のはざまに虹を架ける

 終日曇り空となった昨日の憂さを晴らすかのごとく、今日は朝からずっと雨だ。
 しとしとと一定の強さで淡々と降り続く雨に打たれながらの登校。お昼休みを迎えた今も、校内ではお世辞にも活発的とは言えない空気が幅を利かせている。

「次、数Ⅱかぁ」

 手を洗う私の横でハンカチをポケットにしまいながら心春が肩を落とす。

「ねうなー」

 咥えたハンカチが邪魔をして上手く話せないでいると、後ろを通った知らない顔と鏡越しに一瞬目が合ってしまって若干の気まずさを覚えた。

「ふふっ、『寝るなー』?」
「へーかい」

 私の内心などつゆ知らずおかしそうに翻訳を試みる心春に、首を縦に振ってどうにか正解だと伝える。この手の泡を落とさないことにはどのみち話せない。

「でもいつも抗ってるよね、あおいちゃん。ふふっ、結構な頻度で負けてるけど」

 蛇口を閉じて軽く手の水を振り落としたらようやく口が解放された。
 話せないのをいいことに好き放題言われたけど、残念ながら事実なので返す言葉がございません。早々に反論は諦めて、開き直ることにした。

(ルート)出てくると一旦頭が考えるの止めるんだよ」
「そんなのわたし全部だよ。もう授業始まるのすら嫌だもん」
「この前の中間、泣きながら勉強してたもんね」
「あおいちゃんとの通話なかったら確実に赤点だったぁ。二人ともギリ平均足りてよかったよぉ」

 トイレを出るところで心春が左腕に縋りついてきた。
 無理もない。あのときの心春は本当に赤点回避の瀬戸際に立たされていたのだから。
 大成功を収めた二年記念日に全力を注ぎすぎた結果、中間テストの存在がすっかり頭から抜け落ちていたらしい。嬉々としてデートの様子を報告してくれていた心春のテンションは、終礼で配布されたテスト範囲を見て急降下していた。

「〇・三と〇・三は足しても一にならないのが悲しいな」

 恥ずかしながら、私も大して役に立たない。

「わたし、良くて〇・一だと思う」
「え、そんな?」

 腕は絡めたまま、教室に向かってのんびり廊下を進む。
 うちの学校は一つのフロアに一組から六組までの普通科クラスの教室がずらりと並んでいて、トイレは一組側に男子、六組側に女子という固定の配置だ。
 私は今年も一組になったので二年連続トイレが遠い。
 駆け込むようなことは今のところ起きていないけど、それでも単純に面倒である。

「見て見て、トレカ変えたの」

 心春にしては強めの力で腕を引かれたことに一瞬驚いたものの、すぐに理由がわかった。

「一気に大人な雰囲気になったね。これも好きだな」
「でしょ! ほんっと毎回表情管理完璧すぎるから、一枚に絞るの大変なんだぁ」

 まもなく五組の教室の前を通り過ぎる。
 涼介のいる、五組の教室を。
 隣ではいつも以上に饒舌な心春がトレーディングカードに写る推しについて熱弁をふるっている。それはもう私が視線を他所に移す暇もないほどに。
 別れてから早五日。
 近ごろの心春との話題といえば授業の愚痴や推しの女性アイドル、それに流行りの動画についてばかり。二年記念日の惚気話を聞いたのがずいぶん前のことに感じてしまうほど、その手の話題はぱったりなくなってしまった。
 きっと、いや絶対に、私が言い出さない限りこの状態は続く。
 心春に無理をさせている状態が、そして傷付けたままでいる状態が。
 昨日までの私では到底無理だったけど、佐保子さんのおかげで少しずつ心に余白が生まれ始めている今なら。
 きちんと伝えられる。うやむやにしてしまっていた気持ちを。
 正直にすべて打ち明けて、しっかり謝って、叶うならもう一度友達になってほしいと伝えたい——

「……心春、あのさ……」
「ん?」

 心春が満足したであろう頃合いで私は足を止めた。ちょうど四組と三組の間辺りだ。
 腕が絡んだままの心春は一歩踏み出した足を戻して立ち止まってくれる。

「……今週、どこか空いてる? 話したいことが——」
「鳴上葵」

 突然名前を呼ばれ、開いた口が言葉を発することなく止まる。
 そのまま声のしたほうを見ると、私より頭一つ分以上、多分香住くんよりも背丈のある男子が、なんとも厳しい顔つきでこちらを見下ろしていた。
 私はこの人を知っている。
 
(くわ)くん。久しぶり」
「……」
「あおいちゃん、知り合い?」
「うん。桑拓実(たくみ)くん。涼介と同じサッカー部で、確か涼介とは小学校のころに入ってたクラブチームからの知り合いだったはず。だよね、桑くん」
「……」
「……へえ。さすが文野くん、顔広いね!」

 桑くんは刺すような眼差しを向けてくるだけで口を開こうとはしない。それとなく助け舟を出してくれた心春に心の中でお礼を言った。
 それにしても相変わらず迫力がすごい。
 涼介に負けず劣らず陽に焼けた肌に、涼介よりも厚い胸板、そして広い肩幅という優れた体躯は前に立つだけで圧倒される。しかも男子の中でも短い髪が彫りの深い目元の印象を際立たせているせいか、どこかの組織の一員だと言われても真に受けてしまいそうだ。
 だけど、決して粗暴な人なんかじゃない。
 それどころか勤勉で物堅い性格は、以前漫画で読んだ近衛兵の精神に近いものがある。部員からの信頼も厚く、涼介も気の置けない一番の友達だと言っていた。

「…………」
「…………」
「えーっと、最近雨ばっかりで外で練習できてないんじゃない?」
「…………」
「…………」
「…………」

 驚くほど重い沈黙にさすがに焦る。
 桑くんはさっさと立ち去るものだと思っていたから、ただ無言で見下ろしてくるその意図がまるで掴めない。心春に至っては板挟みにされて戸惑いの色をありありと浮かべている。
 一体どうしたのだろう。

「えーっと、私になにか用だった?」

 話の腰を折るようなことをしてまで言わなくてはいけないこと。それが思い当らないほど私は鈍感じゃない。だからといって、自分から触れる必要性も感じなかった。
 でも、逆効果だったかもしれない。
 より一層濃くなった目元の影が、まもなく言葉を伴って私を貫いたのだ。

「別れたんだってな」

 声質のせいか、廊下を満たす昼休みの解放感にかき消されてしまいそうな一言。それが、最高品質のノイズキャンセリング機能が搭載されたイヤホンさながらの解像度で私の耳には届いた。

「行こう、あおいちゃん」

 早く立ち去るべきだと思ったのか、心春が金縛りにあった私の腕を五組の前を通ったときよりも強い力で引く。
 だけど、私の足は微動だにしなかった。
 それを聞く意思と捉えたようで、桑くんが続ける。

「安心しろ。涼介はなにも言ってこなかった。俺が無理やり聞き出したんだ」

 全身に聴力が宿ったのかと錯覚するほど、昼休みの廊下の喧騒の中で桑くんの低音だけがよく響く。
 そばを通った男子生徒の一人が興味の視線を寄越したけど、すぐに隣を歩く友人との会話に戻っていった。

「あんたの性自認とやらを否定するつもりはない。積極的に公表しているというのも、本人なりに自分らしく過ごせるようにと思ってのものなのだろう。だが——」

 怒気を孕んだような声がピリピリとした刺激となって皮膚の表面をなぞっていく。理解を示してもらえているはずなのに、私の体は刺激を拒むように強張る一方だ。
 対して刺激の発生源である桑くんは私の反応になんて興味がないのだろう。ひと呼吸置いてこう続けた。

「俺はようやく肩の荷が下りた気分だ」
「——……っ」

 
 満足そうな顔つきに私は目を瞠る。
 もしかして、いや、もしかしなくても。

「桑くんが、仕向けたの……? 涼介に……私と、別れるように……?」
「そう捉えてもらって構わない」
「…………っ」