季節のはざまに虹を架ける

 歩道にそこまでの広さがないので立ち止まることができず、歩きながら頬を拭う。ハンカチから漂うほのかな甘い香りが、私の好きな紅茶——お母さんがたまに淹れてくれる高いやつ——に似ていて、なおのこと気持ちを落ち着けてくれた。
 自分でも気付かないほどの静かな涙。枕を濡らす夜が続いているというのに、まだ泣き足りないらしい。その事実に我ながらびっくりした。なんのために人知れず泣いていたと思ってるんだ。

「精一杯、大切にした自信はあるんです……」

 か細い声が出た。頭上を覆う分厚い雲なんて絶対に突き抜けられない。

「喧嘩もしたけどちゃんと仲直りできたし、忙しさを理由に距離ができることもなかった……」
「それだけ満足のいく付き合い方ができてたってことね」
「だといいんですけど……」

 角を曲がって通りから一本入っただけで、静けさの密度がずいぶんと増した。
 佐保子さんの声がやっとストレスなく耳に入ってくる。

「なら、なおさら自分を責める必要なんてないんじゃない? りょうすけ君が選んだ別れの言葉は、あおいちゃんが今彼にそうしているように、あおいちゃんのこれからを想ってのものでしょ。それはあおいちゃんの自信が自己満足じゃなかったって証拠だよ」

 睫毛に残っていた小さな雫がまばたきによって弾け飛んだ。

「もし仮にあおいちゃんの行動が広まっちゃったとしても、それくらいのことで泥を塗られるほど、軽い気持ちで一緒にいたわけじゃないと思うな。彼も」
「…………」
「だから、今あおいちゃんが大切にするのは自分自身だよ」
「…………っ」

 胸の奥から込み上げる気持ちを無視できそうになかった。

「………………寂しい、です……」

 先に私から離れた雫ほどの小さな呟きが、水分を多分に含んだ空気中で彷徨っている。

「…………すっごく……すっっっごく寂しい……っ!」

 あの日から、宝物を失くしたときのような深い喪失感にずっと支配されている。
 嫌な予感と向き合わなかったせいで、失う準備なんてこれっぽっちもできていなかったから——……ううん、ちがう。失う準備なんてしたくなかった。あと一ヶ月ほどで迎えるはずだった一年記念日。それをささやかながらお祝いする準備をしたかった。
 これから始まる夏も、続く秋も冬も、そして、またやって来る春も。公園の四阿(あずまや)から眺めた梅雨だって。何度も巡る季節を一つとして同じものはない思い出で埋め尽くしたかった。
 涼介との恋は当然寸分の狂いなく整った四角い石だというのに、ずっと積むことができないでいた理由。それはきっと思い出としてあっさり積んで終わりたくないという気持ちの表れだったんだ。

「……でも、ちがいますよね。これじゃあ、受け入れるのを拒絶しているのと変わらない……」

 私がやるべきことは石をずっと抱えていることじゃない。
 ハンカチを持った手にぎゅっと力を込めたら、ほどくような手つきで佐保子さんが触れてきた。手元から顔を上げると、佐保子さんは縋りつきたくなった微笑みをまた浮かべている。

「ゆっくりでいいからね。今だって、きっと必要な時間なのよ。新しい形になった心が、あおいちゃんと馴染むために必要な時間。だから、焦らなくていい。いろんな人に助けてもらいながら、ゆっくり向き合っていけばいいから」
「佐保子さん……」
「席を譲るのだってそうだよ。あおいちゃんが一人で世界を背負う必要なんてないんだから」
「なんか……急に少年漫画の主人公みたいですね」

 得意分野ネタだからか、気持ちが少しだけ上向いた。

「本当だね。ちなみに、私も主人公だったことあったんだよ」
「え、佐保子さんも?」
「うん。うんと昔の、通勤に電車を使ってたころの話だけどね。自分の乗ってる車両の、ううん、電車全体の秩序を私一人が担ってる気持ちでいたなって、今なら思う。仕事が大変で譲る余裕も気力もなくて、そんな自分を責めたことだってたくさんあった」
「全然想像できない……」
「あははっ、よく言われる!」

 そばの家にある木の葉が風によって踊るように揺れる。

「余裕の容量を一人分で考えちゃうと、ずいぶん小さく感じちゃうけどさ。バス全体とか車両全体とか、その場で一つの容量として捉えると、意外と残ってるものなんだよ。ほら、あおいちゃんだって前の人が譲ってくれたって言ってたでしょ?」
「はい……」
「それでいいんだよ。心って本来持ち主のためにあるものなんだから、全部持ち主のために使ったっていいの。持ち主を犠牲にしてまで他人に使う必要はない」
「犠牲、か……」

 今まで何度も席を譲ったことがあるけど、「犠牲」に当てはまってしまう場面にいくつか思い当ってしまう。
 そういうときは決まって、なにかが上手くいっていないときだった。

「まずは満杯になってる容量を減らさなきゃ、余裕なんて生まれない。だからって急がなくていいからね。じっくり時間をかけて、少しずつ空きを作っていけばいいの。『誇らしい自分でいる』って、なにも対外的なものばかりである必要はないんだから」
「はい」

 緩やかな坂道を少しペースを落として上っていく。
 二人ともスニーカーだから、ペースを変える必要はなかったのかもしれない。
 だけど、急ぐ必要もない。たとえお兄ちゃんの出発に間に合わなくても、シュークリームはバイト終わりに食べればいいんだから。

「相談に乗ってくれてありがとうございました」

 病院の前に着いて、私は深々と頭を下げる。

「なんか、ちょっとスッキリしました」
「お役に立てたならよかったわ」
「あ、ハンカチは洗ってお返しします」
「いいよいいよ。まとめて洗っちゃうから!」
「いえ、さすがにそれは」
「じゃあ、お願いしようかな。ありがとう。帰り、気を付けてね」
「はい、また」

 見送ってくれる佐保子さんに一礼して、私はいつもの散歩コースを家に向かって一人で歩く。
 大丈夫。寂しさが馴染むにはまだまだ時間がかかるけど、それでもこの石はいつかちゃんと積めるようになる。
 そう思っていたのに——
 果てしなく続くこの分厚い雲は、まだその先に広がる真っ青な空を見せてはくれないらしい。