季節のはざまに虹を架ける

「あおいちゃん、なにかあった?」

 翌週の水曜日。
 お兄ちゃんの荒療治によって近所のコンビニまでおつかいに行かされていた私は、帰り道で偶然会った佐保子さんと並んで歩いていた。
 幹線道路ほどではないにしろ定期的に車が横を通過する歩道で、佐保子さんの問いだけが明瞭な形を伴って耳に届く。

「なにもないですよ? お兄ちゃんの使い走りをさせられて不機嫌なだけです」

 いつも通り発したはずなのに、声に力がないのが自分でもはっきりわかってしまった。
 佐保子さんの顔にも心配が色濃くにじんでいて、もはや取り繕えていないことは一目瞭然である。

「……そんなにちがいます? いつもの私と」
「あおいちゃんとはもう四年の仲になるからね」

 深みのある赤い色の唇がきれいな弧を描いた。内なる包容力がありありと表れた笑みに、たまらず縋りつきそうになる。
 私の知る佐保子さんは快活で動物を深く愛している、そんな人。特にまあちに対する愛情の注ぎ方は私と重なるところが多く、実際に同志だと固い握手を交わしたこともあって、失礼ながら私は半分ほど本気でそう思っていた。
 だけど、やっぱり大人の人だ。
 どれだけ足掻いても、最終的には懐柔されてもいいかと思えてしまう。そんな不思議な優しさを持っている。

「……落ち込むことが多くて、ちょっと気が滅入ってるんです」

 空も一面どんよりだ。

「ここ数日、あんまり元気なかったもんね」
「え?」
「ん?」
「……気付いてたんですか?」
「なんとなくね。あ、心配しないで。主人はなーんにも気付いてないから、絶対」

 思わず、そして久しぶりに表情が緩んだ。佐保子さんのいつも通りの明るさに救われる。
 涼介と別れた翌日、心春には別れたことだけを伝えるメッセージを送った。
 【じゃあ、これからはあおいちゃんをひとり占めできちゃうね!】
 返事の軽やかさに反して、週明けに学校で会った心春が恋愛の話題を口にすることはなかった。もちろんそれは自分のものも含めてだ。
 心の底から腹が立っている。
 うやむやにしたくないと思いながら、結局うやむやにしたままでいる自分に。
 友達を傷付けてしまったままでいる自分に。
 なにより心春の利他的とも言える心遣いに触れてもなお、とっくに整理のついているあのときの気持ちを隠しておきたいと思う狡い自分に。

「せっかくだし、一つぐらい話せそうなものあったりしない?」
「別に全部——……」

 話せるんですけど——言いかけて、右手に持ったコンビニのレジ袋の存在を思い出した。

「シュークリーム買ってきて。カスタードと生クリーム、両方入ってるやつな」

 学校から帰るや否や、そう言ってお兄ちゃんが送金してきた電子マネーの金額は二千円。シュークリーム一つを買うにしては潤沢すぎる資金に私は目を疑った。
 なんなんだ、私の異変を鋭敏に察知するこの嗅覚は。
 別れたことどころか付き合ったことすら言っていないはずなのに、あの日の夜にはもう私の変化に気付いていた。唯一涼介とのことを知っていたお母さんだって、次の日に打ち明けるまで気付いていなかったというのにだ。

「えー、帰って来たばっかなんだけど」
「おまえ、どう見ても暇だろ」

 確かに今日はあの部屋に寄ることなく直帰した。
 というより、今週はずっとそうだ。

「オレは今シュークリームの口なんだよ」
「えー、雨ー」
「今日は降らねーよ」

 まあちの散歩に行くには早いし、かといって真面目に宿題を片付ける気にもなれない。乾燥まで終わった洗濯物を畳むのも後でよければ、お風呂掃除はお兄ちゃんの当番。
 暇つぶしにはちょうどよかった。
 それに口で言うほど嫌がっていなかったというのが本音だ。
 これで好きなものでも買ってこい——この資金を前にして、そう解釈しないわけにはいかなかったから。
 結果、袋の中では高めのお菓子や飲み物がぎゅうぎゅうとものすごく動きづらそうにしている。シュークリームを一番上に詰めてくれた店員の機転に感謝しなくては。
 袋を持ち上げて、「全部話せるんですけど、お兄ちゃんがバイトに行くまでに帰らないといけないので、一つだけ……」と伝えると、佐保子さんはチューリップにも負けない鮮やかな笑顔で了承してくれた。

「実は恋人と別れちゃって……」
「そうだったんだ。つらいね……」
「復縁を望んでるとかじゃないんです。あとは受け入れるだけって感じで……。ただ……」

 瞬間、激しい走行音を伴った突風が吹き付けた。
 遅れて、真横をバスが通り過ぎたのだと理解する。それはほんの一時間前に私を運んだ路線のものだった。すっかり見飽きてしまった濃紺の車体は、今いる歩道の少し先にある停留所を停まることなく通過する。
 私の自己嫌悪をさらに強めるきっかけとなった乗客が降りた停留所を。

「呆然としてたんです……席も譲れなくなった、自分に」
「席?」
「ついさっき、学校からの帰りに乗ったバスの話なんですけど……。後方の二人掛けの通路側に座ったんです。まだ席には余裕があったし、優先座席も空いてたからいいかなって。だけど、やっぱり途中で混んできて……斜め前に妊婦さんが立ったんですよね……」

 誤解のないように言うと、妊婦さんが席を譲るように圧力をかけてきたわけじゃない。
 ただ、立って乗っていただけだった。
 まだそこまでお腹は目立っておらず、従姉(いとこ)が悩まされていた悪阻(つわり)のように体調が悪い感じも見受けられなかったから、周りの人もほとんど気付いてなかったかもしれない。
 私はワイヤレスイヤホンをしていたものの、その人の鞄に付いていたマタニティマークがちょうど目の高さにあって気が付いた。

「やまべ動物病院にお世話になり始めたころかな? 私の性自認についてお伝えしたことがあると思うんですけど」
「憶えてるよ。性別の感覚がわからないって言ってたよね」
「はい。それに関連してっていうか、私『誇らしい自分でいる』っていう座右の銘があって。性自認でわがまま聞いてもらう代わりに、人間性はちゃんとしていよう、みたいな」

 席を譲るだけじゃない。
 生きていくうえで、もう二度と自分のことをきらいになりたくないから。
 自分の好きなように大切な人を大切にしたいから。
 自分を律する強さを忘れずに持ち続けようと心に決めた。

「でも……」

 押さえつけていた記憶の箱の蓋が爆ぜる。
 戒めの色をまとったあの箱とはまた別の特別な場所に丁寧に保管された、星や宝石やこの世の美しいものすべてを詰め込んだような、生涯絶対に忘れたくない一箱。

「今日はどうしても無理だったんです……。イヤホンはなんとか外したけど、立ち上がれなかった……」
「妊婦さんはそのまま降りるまで立ち続けていたの?」
 
 首をゆっくり横に振る。

「すぐに私の前に座る人が気付いて譲ってくれました」
「だったら、そんなに自分を責めなくても大丈夫だよ」
「結果だけ見れば、そうかもしれないですけど……」

 切り替えようとしてもなお頭を支配するのは、約一年私の心を掴んで離さなかった燦々と照り付ける太陽のような笑顔。
 ただ、好きだった。
 一般的な恋愛感情と呼ばれるものかどうか自信はないけど、それでも恋心だと胸を張って言える気持ちだった。特別な愛おしさのたっぷり詰まった気持ちが私の中に確かにあった。
 無理なく背筋が伸びる感覚や肌のぬくもりを欲する気持ち、その笑顔を向ける相手がずっと私であればいいのにという強い願い。
 これまでとちがって実った恋心だからかもしれない。涼介との恋はさまざまな万華鏡を代わる代わる覗くような高揚感を孕んでいて、過去の一方的なものとは一線を画していた。
 こんな相手にはきっとなかなか出会えない。なんとなくそう感じていた私は自分のすべてを以て大切にしようと決めた。
 そして、その決意はたとえ終わりを迎えたとしても変わらないものでありたかったのに。

「涼介の進む道に、影を落とすような存在にはなりたくなかったのに……」

 同じ通学路を使う生徒は他にもたくさんいる。
 もし知り合いがバスでの私を目撃していたら。私の悪評が涼介に伝わるだけならまだしも、見る目がないと涼介の評判まで下がってしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だったのに。

「別れ話のとき、涼介は私が自分の性自認を責めないように気を遣ってくれたんです。それが本当に嬉しかった……」

 「私なんて」「私のせいで」なんて考えは、涼介の優しさを無下にすることになってしまうから。なら、今の私にできることは——……
 気持ちがあふれて言葉に詰まった私の背中にそっと手が添えられた。

「別れてからの彼も大切にしたかったんだね」

 佐保子さんが続けられなかった私の想いを静かに包み込む。
 いつもより少しだけ低い声は初めて聞くからだろうか、心の脆いところをきゅっと絞った。数秒かけてやっと頷く。

「立派だよ、あおいちゃん」

 手が肩に回されて、より大きな温もりが全身をも包む。

「付き合ってる間だけじゃなくて、そのあとの相手の人生まで考えられるなんて。大人だってなかなかできることじゃない」

 言いながら、佐保子さんが空いているほうの手でハンカチを差し出した。上品な黄色のタオル生地の上では猫が数匹ごろりとくつろいでいる。
 とりあえず受け取って目を合わせると、微笑んだ佐保子さんがぽんぽんと人差し指で自身の頬を軽く叩いた。
 真似るように自分の顔に触れて私はようやく気付く。知らず知らず頬がしっとり濡れていた。

「ありがとう、ございます……」