——朝凪令夏は心が女で、恋愛対象は男らしい。
出どころは「朝凪くんの中学時代の同級生を友達に持つ誰か」という、あまりにも心許ないものだと聞いたことがある。
入学してまもなく「きれいな男子がいる」と学年を席巻した彼の名が、半年後には噂として確かな地位を得た不確かな情報に染まっているなんて誰が想像しただろう。
品のある顔立ちとバランスの取れた体つきが織りなす気高い雰囲気。それは貴公子と言っても差し支えないほどで、日本にあるごく一般的な公立高校ではとても目立った。
そのうえ入学して早々にある新入生テストで上位一桁の成績を獲得しただなんて、もはや注目されるためのお膳立てが揃いすぎているとしか言いようがない。
そんな人物をよく勧誘できたものだと今でも思う。
偶然通りかかった昇降口の前の廊下で時間を持て余しているように見えた朝凪くんに藁にも縋る思いで声をかけたのだ。
仮入部期間終了まで残り数時間。ちらつく「廃部」の二文字。そして、目の前には同じ上履きの色の生徒。
神の思し召しだ——あのときの私はそう信じて疑わなかった。
「私、一組の鳴上です。あの、もしまだ部活が決まってないなら、文藝部に入りませんか?」
勢いづいたそのままに声をかけた私は、その勢いを落とすことなくこう続けた。
「あと一人、部員が足りなくて……」
愚かにもほどがある。
馬鹿正直に人数稼ぎだと言ってしまえば、了承してもらえる可能性はぐんと下がってしまうというのに。もっともらしい理由をでっち上げる必要はないにしろ、どう考えても二言目は余計だった。
しかも、勧誘相手はかの有名な朝凪令夏だ。すでにたくさんの部活から声がかかっているかもしれないし、そうでなくても自身で入りたい部活を決めているにちがいない。
そう思ったのに——
「いいよ」
「やっぱり無理ですよ……——え?」
「入るよ。文藝部」
いまだに理由は知らない。
今考えても無礼極まりない勧誘をなんと朝凪くんはあっさり承諾してしまった。
「朝凪くん、恋人を作る気はないんだって」
風向きが変わり始めたのは、そんな友達の一言だった。
夏休み直前。「告白した子みんなにそう言ってるらしい」そう話す彼女が、深い溜め息とともに肩を落としていたのをよく憶えている。
そんな友達に追い打ちをかけるように、耳にする機会の増えた朝凪くんの性的マイノリティ説。
その信憑性を高める一翼を担ったのは、なんと朝凪くん本人だった。
真偽を問われて、否定も肯定もしなかったこと。
さらには、歳の近い男の子と仲よさげに歩いていたという目撃情報まで上がったこと。
朝凪くんの断り文句を周りが勝手に拡大解釈しただけだと相手にしていなかった友達だったけど、これらが致命傷となり、砂粒ほどもなくなってしまった告白の成功率に打ち拉がれていた。
そうして二学期の終盤にもなれば、すっかり事実として定着してしまった朝凪くんの噂。さすがに心配になった。でも、当の本人は静かに部室に来ては静かに本を読み、さっさと帰っていくだけで、特に変わった様子もない。微塵も気にしていないことが、それはもうこっちが笑ってしまうぐらいはっきり見て取れた。
だから、私もそれ以上踏み込むことはしなかった。
というより、それどころではなかったと言ったほうが正しいかもしれない。あのときの私は玉砕確実の告白に挑む勇気もなければ、きっぱりと諦めることもできない友達を慰めることに全力を注いでいたから。
やりきれない気持ちに心をすり減らす彼女を見ているのは、あまりにもつらかった。
「噂だけにとどまればいいけど。そうもいかない場合もあるんじゃない」
「ん? ああ、まあ……」
言いながら、この四月にクラスが離れてしまった友人の記憶をさっと頭の隅に寄せる。
「順風満帆かって言われると、もちろんそうじゃないけど……。でも、ほとんどの人が抵抗なく受け入れてくれるかな」
「へえ」
それまでずっと交わっていた視線が流れるように窓のほうへ移された。
その直前、朝凪くんの表情にほんの一瞬違和感を覚えたのに、横を向いたことでより長さの強調されたまつ毛に気を取られて深追いはしなかった。
そんな自身の判断を私はすぐに恨むことになる。
「まあ、流行ってるもんね。多様性」
わずか数秒の会話の空白。それをためらいなく切り裂いた言葉に私は耳を疑った。
「……は?」
たまらず鋭い声が薄汚れた床を這う。
今、この人はなんて言った? 多様性が“流行っている”?
「……どういう、意味?」
「どうって、そのままの意味だけど?」
首を軽く傾げた朝凪くんは、まるで私を試すような面持ちだ。
気が付けば、部屋の暗がりが彼の体を呑み込み始めていた。あれほどの透明度を誇っていたはずの瞳も今は底の見えない深い湖のようで、そばに寄るものためらわれるほど。
そう思いながらも、ふつふつと沸き始めた感情を私は抑えることができそうにない。
表情からして、彼は間違いなく意図的に言葉を選んでいる。それが私の心の火力をグッと強め、気付いたときには「だから、どういう意味」と声に乗って再び床を這っていた。
「そんなに気に障った? 鳴上さんならわかるんじゃないかと思ったんだけど」
「勝手に自分のテリトリー内にいる人間だと思わないでくれる?」
私の言いたかった“近い立場”というのは、そういうことじゃない。
「テリトリー? そんな風には思ってないけど」
「じゃあ、なに」
「鳴上さんは思ったことない? 『なんで抵抗なく受け入れられるんだろう』って」
「…………」
喉元まで出たたくさんの反論をすべて飲み込んだ。
言いたいことは山ほどある。
だけど、とにかく今は彼の話を聞きたい。
生まれてこの方ずっとマイノリティに属してきて、たくさんの人に公表してきたけど、それを「流行っている」なんて捉える人は初めだ。
今のところ同意できそうな兆しは微塵もないとはいえ、ここで一方的に自分の意見を押し付けてしまうのは絶対にちがう。私が密かに求めていたのは他ならない朝凪くんの視点なんだから。
ずっと話してみたいと思っていた人。
その相手と私を繋げてくれるかもしれない、話してみたいと思っていた話題。
描いていた理想とはかけ離れているけど、夢が叶ったという事実が私にしては驚くほど冷静な判断をさせてくれている。本の中でもネットの世界でもない、同じコミュニティで初めて見つけた自分と近いかもしれない人。仲良くなれたら、嬉しい。
「この世界は本当に頭でっかちだから——」
なんて願いも虚しく、私を映したその瞳はまるで作り物のようだ。それどころか、
「あんまり自分のこと、安売りしないほうがいいと思うよ」
と軽やかに言い放った口元は恐ろしいほどに美しく弧を描いていた。
「……」
「……」
訪れた沈黙が少しずつ部屋の外の音を拾い始める。
換気のために開けっ放しになっている入口からは、階上にある音楽室で活動する合唱部の歌声が響いてきた。音楽には詳しくないけど、どことなく不穏な曲調が今の気分には合わなくて意識を聴覚から外らす。
持て余した意識が暴走しそうになったので、ぶつかったままになっていた視線を落として、ふうっと音が立つほど深く息を吐いた。
何度か繰り返していくうちに、煮えたぎる感情が徐々に鎮まっていくのがわかった。知らず知らず、ぎゅっと力の入っていた眉間も開放する。
そして口調に気をつけながら、仕切り直すように彼に挑んだ。
「言ってる意味がよくわからないけど。とりあえず私は多様性って大事だと思ってる。この言葉がここまで広まったのは、今までにたくさんの人が戦ってきた証拠だと思うから」
「本当、よく見るよね」と鼻で笑われて、またしても眉間に深い溝ができたのが自分でもわかる。
「『いろいろな性のかたちがあります!』『マイノリティも生きやすい世界を!』なんて、熱い想いの込められたメッセージ」
「なんか……すごい棘がある言い方」
「でも、事実じゃない?」
「事実どうこうじゃなくて、朝凪くんの言い方の話。あたかもその風潮に賛同してません、って言いたいみたい」
「どうだろ」
彼のパイプ椅子の軋む音が私の足元をわずかに震わせた。
「そもそも賛同する必要ってある?」
両腕を机の上で組んで、じっと私を見つめてくる。その微笑みはいやに美しい。
「多様性の世の中なんでしょ? じゃあ、くだらないって思ったっていいよね?」
「…………」
言葉に詰まった。
朝凪くんが堂々としているからなのか、論理的に間違っているのかと言われるとそうでもない気がしてしまう。
近ごろは性自認や性的指向にフォーカスされることが多いけど、確か「多様性」って価値観とか障害とか、さまざまな要素に対して適応される言葉のはずだ。だから、朝凪くんの主張もきっとおかしくはない。
だけど少なくとも私はまだなにも納得していなければ、彼の意見に賛成もできない。
確かに「受け入れてくれる」と言う程度には身構えてしまう。さっきも言った通り、順風満帆と言い切れる過去では決してないから。
でも、それは仕方のないことだと思う。だって、もとよりこの世界は男女であることを前提として創られたのであって、だからこそそれ以外を禁忌とする前例が数え切れないほど存在している。前提が覆りつつあるとはいえ、大手を振って暮らすなんて私にはもうできない。
それでもすんなり受け入れてくれる人が増えたのは、間違いなく前提を覆そうと声を上げてくれた人たちがいるからだ。朝凪くんの価値観がそんな人たちを蔑ろにするものだというのなら、私は今の彼と手を取り合うつもりはない。
そんな私の内心を見透かしたとでも言うように、
「鳴上さんがおれを理解できないことも、別に批判されることじゃないから安心して」
なんて諭してくる朝凪くんはいたって落ち着いている。
さらには、さほど抑揚のない口調で
「ただ、ここは仲良くなれないって事実が生まれるだけ」
と人差し指で私と自身を交互に指した。
「…………」
呆気に取られているからか、その光景がどこか他人事のようにぼんやりと映る。
とうとう朝凪くんの姿は完全に闇に呑まれてしまった。重厚な鉄の扉が容赦なく二人の間に下ろされていくように、彼の体の上半分はもうほとんど見えない。
せっかく話せるようになったのに。
会話の相性がいいかもしれないと喜んだのに。
ただ一つの意見が合わないというだけで、朝凪くんはいとも簡単に私との関係を断ち切ってしまうんだ。
そろそろ部屋の電気を点けないと。そう思うのに、脚どころか全身の感覚が脳の制御から外れていて、もはや今の体勢を崩さないでいるのがやっとだ。
窓から差し込むほのかな自然光を頼りに、視界の端で膨らんでいたカーテンが舞い戻るのがなんとなく見えた。
——カチッ
人工的な光が唐突に目を刺して、反射的に目を細める。
恐る恐る瞼を上げると、指定のスクールバッグを肩に提げた朝凪くんが入口の扉の前に立っていた。
「あ……」
状況を上手く飲み込めなくて、そんな胸の内を代弁するように情けない声が漏れる。
「そろそろ時間だから。帰るね」
慌てて机の上のスマホを確認すると、時間はきっかり午後四時四十五分になっていた。
四月の下旬。時期的にまだ外は全然明るいはずなのに、この部屋は本当に時間の感覚を狂わせる。会話の密度も相まって、体感的にはもう午後六時を回っていてもおかしくないとすら思ってしまった。
「じゃあ……——またあした」
そう言い残し、朝凪くんは風のように去っていった。廊下に立ち込める薄暗さなど物ともせず、それはそれは軽快な足取りで。
帰りの挨拶なんて今まで一度もしたことないくせに。
「またあした」なんて、それこそ一度も言ったことないくせに。
次第にはっきりしてきた脳みそが今になって悪態をつくけど、絶叫マシンで暴力的な浮遊感を覚えたあとのような放心状態のせいで声にすらならなっていない。
「はあぁぁぁ…………」
疲れがドッと押し寄せてきて、両手を前に伸ばし額を机に押し付けるようにうなだれる。
なんなんだ。本当に、彼はなんなんだ。結局、なんだったんだ。
なにが言いたかったのかも、私にどうしてほしかったのかも、全くわからなかった。ただ私が躍起になっていただけで、もしかしたら端から理解してもらうつもりなんてなかったのかもしれないけど。
それにしたって、噂話をしたことを謝る配慮を見せておきながら急に突き放してくるなんて、あまりにも無神経すぎる。私のことをなんだと思っているんだ。
「うぬぼれてるつもりはなかったのになぁ……」
性的マイノリティと一口に言っても、性自認や性的指向などいろいろな概念が含まれているから、「仲間だね」と肩を組みたかったわけじゃない。救ってあげたいだとか、秘密を共有したいだとか、そんなおこがましいことだって望んでいない。
だけど、やっぱり気になった。
同じ年齢で、同じ学校で、同じ部活。同じ環境に身を置く彼はこの世界をどう見ているのか知りたかった。自分の在り方をどう捉えているのか聞いてみたかった。
友達に、なりたかった。
特別視している自覚はあったけど、私にとっては同じ趣味を持っている人に興味を抱く感覚に近いものだった。
それなのに踏み込む決心がつかなかったのは、自分の感覚がどこでも通用するわけではないと、もう知っているから。
私が“同じ趣味”程度に捉えられているものを、もっと深刻に、そしてもっと繊細に扱っている人がいる。“同じ”を理由に距離を詰めてくることを良しとしない人だっている。
そんな個々の事情を蹴散らしてまで、私の認識を押し通したいとはさすがに思わない。
ちゃんと、弁えていたはずなのに。きっと声をかけてもらったことに浮かれてしまった罰だ。朝凪くんは私と「仲良くなれない」とはっきり口にした。
「…………帰ろ」
机の額と接している部分がじんわりと熱を帯びてきた。そのぬるさがあまりにも不快で私はむくりと体を起こした。
出どころは「朝凪くんの中学時代の同級生を友達に持つ誰か」という、あまりにも心許ないものだと聞いたことがある。
入学してまもなく「きれいな男子がいる」と学年を席巻した彼の名が、半年後には噂として確かな地位を得た不確かな情報に染まっているなんて誰が想像しただろう。
品のある顔立ちとバランスの取れた体つきが織りなす気高い雰囲気。それは貴公子と言っても差し支えないほどで、日本にあるごく一般的な公立高校ではとても目立った。
そのうえ入学して早々にある新入生テストで上位一桁の成績を獲得しただなんて、もはや注目されるためのお膳立てが揃いすぎているとしか言いようがない。
そんな人物をよく勧誘できたものだと今でも思う。
偶然通りかかった昇降口の前の廊下で時間を持て余しているように見えた朝凪くんに藁にも縋る思いで声をかけたのだ。
仮入部期間終了まで残り数時間。ちらつく「廃部」の二文字。そして、目の前には同じ上履きの色の生徒。
神の思し召しだ——あのときの私はそう信じて疑わなかった。
「私、一組の鳴上です。あの、もしまだ部活が決まってないなら、文藝部に入りませんか?」
勢いづいたそのままに声をかけた私は、その勢いを落とすことなくこう続けた。
「あと一人、部員が足りなくて……」
愚かにもほどがある。
馬鹿正直に人数稼ぎだと言ってしまえば、了承してもらえる可能性はぐんと下がってしまうというのに。もっともらしい理由をでっち上げる必要はないにしろ、どう考えても二言目は余計だった。
しかも、勧誘相手はかの有名な朝凪令夏だ。すでにたくさんの部活から声がかかっているかもしれないし、そうでなくても自身で入りたい部活を決めているにちがいない。
そう思ったのに——
「いいよ」
「やっぱり無理ですよ……——え?」
「入るよ。文藝部」
いまだに理由は知らない。
今考えても無礼極まりない勧誘をなんと朝凪くんはあっさり承諾してしまった。
「朝凪くん、恋人を作る気はないんだって」
風向きが変わり始めたのは、そんな友達の一言だった。
夏休み直前。「告白した子みんなにそう言ってるらしい」そう話す彼女が、深い溜め息とともに肩を落としていたのをよく憶えている。
そんな友達に追い打ちをかけるように、耳にする機会の増えた朝凪くんの性的マイノリティ説。
その信憑性を高める一翼を担ったのは、なんと朝凪くん本人だった。
真偽を問われて、否定も肯定もしなかったこと。
さらには、歳の近い男の子と仲よさげに歩いていたという目撃情報まで上がったこと。
朝凪くんの断り文句を周りが勝手に拡大解釈しただけだと相手にしていなかった友達だったけど、これらが致命傷となり、砂粒ほどもなくなってしまった告白の成功率に打ち拉がれていた。
そうして二学期の終盤にもなれば、すっかり事実として定着してしまった朝凪くんの噂。さすがに心配になった。でも、当の本人は静かに部室に来ては静かに本を読み、さっさと帰っていくだけで、特に変わった様子もない。微塵も気にしていないことが、それはもうこっちが笑ってしまうぐらいはっきり見て取れた。
だから、私もそれ以上踏み込むことはしなかった。
というより、それどころではなかったと言ったほうが正しいかもしれない。あのときの私は玉砕確実の告白に挑む勇気もなければ、きっぱりと諦めることもできない友達を慰めることに全力を注いでいたから。
やりきれない気持ちに心をすり減らす彼女を見ているのは、あまりにもつらかった。
「噂だけにとどまればいいけど。そうもいかない場合もあるんじゃない」
「ん? ああ、まあ……」
言いながら、この四月にクラスが離れてしまった友人の記憶をさっと頭の隅に寄せる。
「順風満帆かって言われると、もちろんそうじゃないけど……。でも、ほとんどの人が抵抗なく受け入れてくれるかな」
「へえ」
それまでずっと交わっていた視線が流れるように窓のほうへ移された。
その直前、朝凪くんの表情にほんの一瞬違和感を覚えたのに、横を向いたことでより長さの強調されたまつ毛に気を取られて深追いはしなかった。
そんな自身の判断を私はすぐに恨むことになる。
「まあ、流行ってるもんね。多様性」
わずか数秒の会話の空白。それをためらいなく切り裂いた言葉に私は耳を疑った。
「……は?」
たまらず鋭い声が薄汚れた床を這う。
今、この人はなんて言った? 多様性が“流行っている”?
「……どういう、意味?」
「どうって、そのままの意味だけど?」
首を軽く傾げた朝凪くんは、まるで私を試すような面持ちだ。
気が付けば、部屋の暗がりが彼の体を呑み込み始めていた。あれほどの透明度を誇っていたはずの瞳も今は底の見えない深い湖のようで、そばに寄るものためらわれるほど。
そう思いながらも、ふつふつと沸き始めた感情を私は抑えることができそうにない。
表情からして、彼は間違いなく意図的に言葉を選んでいる。それが私の心の火力をグッと強め、気付いたときには「だから、どういう意味」と声に乗って再び床を這っていた。
「そんなに気に障った? 鳴上さんならわかるんじゃないかと思ったんだけど」
「勝手に自分のテリトリー内にいる人間だと思わないでくれる?」
私の言いたかった“近い立場”というのは、そういうことじゃない。
「テリトリー? そんな風には思ってないけど」
「じゃあ、なに」
「鳴上さんは思ったことない? 『なんで抵抗なく受け入れられるんだろう』って」
「…………」
喉元まで出たたくさんの反論をすべて飲み込んだ。
言いたいことは山ほどある。
だけど、とにかく今は彼の話を聞きたい。
生まれてこの方ずっとマイノリティに属してきて、たくさんの人に公表してきたけど、それを「流行っている」なんて捉える人は初めだ。
今のところ同意できそうな兆しは微塵もないとはいえ、ここで一方的に自分の意見を押し付けてしまうのは絶対にちがう。私が密かに求めていたのは他ならない朝凪くんの視点なんだから。
ずっと話してみたいと思っていた人。
その相手と私を繋げてくれるかもしれない、話してみたいと思っていた話題。
描いていた理想とはかけ離れているけど、夢が叶ったという事実が私にしては驚くほど冷静な判断をさせてくれている。本の中でもネットの世界でもない、同じコミュニティで初めて見つけた自分と近いかもしれない人。仲良くなれたら、嬉しい。
「この世界は本当に頭でっかちだから——」
なんて願いも虚しく、私を映したその瞳はまるで作り物のようだ。それどころか、
「あんまり自分のこと、安売りしないほうがいいと思うよ」
と軽やかに言い放った口元は恐ろしいほどに美しく弧を描いていた。
「……」
「……」
訪れた沈黙が少しずつ部屋の外の音を拾い始める。
換気のために開けっ放しになっている入口からは、階上にある音楽室で活動する合唱部の歌声が響いてきた。音楽には詳しくないけど、どことなく不穏な曲調が今の気分には合わなくて意識を聴覚から外らす。
持て余した意識が暴走しそうになったので、ぶつかったままになっていた視線を落として、ふうっと音が立つほど深く息を吐いた。
何度か繰り返していくうちに、煮えたぎる感情が徐々に鎮まっていくのがわかった。知らず知らず、ぎゅっと力の入っていた眉間も開放する。
そして口調に気をつけながら、仕切り直すように彼に挑んだ。
「言ってる意味がよくわからないけど。とりあえず私は多様性って大事だと思ってる。この言葉がここまで広まったのは、今までにたくさんの人が戦ってきた証拠だと思うから」
「本当、よく見るよね」と鼻で笑われて、またしても眉間に深い溝ができたのが自分でもわかる。
「『いろいろな性のかたちがあります!』『マイノリティも生きやすい世界を!』なんて、熱い想いの込められたメッセージ」
「なんか……すごい棘がある言い方」
「でも、事実じゃない?」
「事実どうこうじゃなくて、朝凪くんの言い方の話。あたかもその風潮に賛同してません、って言いたいみたい」
「どうだろ」
彼のパイプ椅子の軋む音が私の足元をわずかに震わせた。
「そもそも賛同する必要ってある?」
両腕を机の上で組んで、じっと私を見つめてくる。その微笑みはいやに美しい。
「多様性の世の中なんでしょ? じゃあ、くだらないって思ったっていいよね?」
「…………」
言葉に詰まった。
朝凪くんが堂々としているからなのか、論理的に間違っているのかと言われるとそうでもない気がしてしまう。
近ごろは性自認や性的指向にフォーカスされることが多いけど、確か「多様性」って価値観とか障害とか、さまざまな要素に対して適応される言葉のはずだ。だから、朝凪くんの主張もきっとおかしくはない。
だけど少なくとも私はまだなにも納得していなければ、彼の意見に賛成もできない。
確かに「受け入れてくれる」と言う程度には身構えてしまう。さっきも言った通り、順風満帆と言い切れる過去では決してないから。
でも、それは仕方のないことだと思う。だって、もとよりこの世界は男女であることを前提として創られたのであって、だからこそそれ以外を禁忌とする前例が数え切れないほど存在している。前提が覆りつつあるとはいえ、大手を振って暮らすなんて私にはもうできない。
それでもすんなり受け入れてくれる人が増えたのは、間違いなく前提を覆そうと声を上げてくれた人たちがいるからだ。朝凪くんの価値観がそんな人たちを蔑ろにするものだというのなら、私は今の彼と手を取り合うつもりはない。
そんな私の内心を見透かしたとでも言うように、
「鳴上さんがおれを理解できないことも、別に批判されることじゃないから安心して」
なんて諭してくる朝凪くんはいたって落ち着いている。
さらには、さほど抑揚のない口調で
「ただ、ここは仲良くなれないって事実が生まれるだけ」
と人差し指で私と自身を交互に指した。
「…………」
呆気に取られているからか、その光景がどこか他人事のようにぼんやりと映る。
とうとう朝凪くんの姿は完全に闇に呑まれてしまった。重厚な鉄の扉が容赦なく二人の間に下ろされていくように、彼の体の上半分はもうほとんど見えない。
せっかく話せるようになったのに。
会話の相性がいいかもしれないと喜んだのに。
ただ一つの意見が合わないというだけで、朝凪くんはいとも簡単に私との関係を断ち切ってしまうんだ。
そろそろ部屋の電気を点けないと。そう思うのに、脚どころか全身の感覚が脳の制御から外れていて、もはや今の体勢を崩さないでいるのがやっとだ。
窓から差し込むほのかな自然光を頼りに、視界の端で膨らんでいたカーテンが舞い戻るのがなんとなく見えた。
——カチッ
人工的な光が唐突に目を刺して、反射的に目を細める。
恐る恐る瞼を上げると、指定のスクールバッグを肩に提げた朝凪くんが入口の扉の前に立っていた。
「あ……」
状況を上手く飲み込めなくて、そんな胸の内を代弁するように情けない声が漏れる。
「そろそろ時間だから。帰るね」
慌てて机の上のスマホを確認すると、時間はきっかり午後四時四十五分になっていた。
四月の下旬。時期的にまだ外は全然明るいはずなのに、この部屋は本当に時間の感覚を狂わせる。会話の密度も相まって、体感的にはもう午後六時を回っていてもおかしくないとすら思ってしまった。
「じゃあ……——またあした」
そう言い残し、朝凪くんは風のように去っていった。廊下に立ち込める薄暗さなど物ともせず、それはそれは軽快な足取りで。
帰りの挨拶なんて今まで一度もしたことないくせに。
「またあした」なんて、それこそ一度も言ったことないくせに。
次第にはっきりしてきた脳みそが今になって悪態をつくけど、絶叫マシンで暴力的な浮遊感を覚えたあとのような放心状態のせいで声にすらならなっていない。
「はあぁぁぁ…………」
疲れがドッと押し寄せてきて、両手を前に伸ばし額を机に押し付けるようにうなだれる。
なんなんだ。本当に、彼はなんなんだ。結局、なんだったんだ。
なにが言いたかったのかも、私にどうしてほしかったのかも、全くわからなかった。ただ私が躍起になっていただけで、もしかしたら端から理解してもらうつもりなんてなかったのかもしれないけど。
それにしたって、噂話をしたことを謝る配慮を見せておきながら急に突き放してくるなんて、あまりにも無神経すぎる。私のことをなんだと思っているんだ。
「うぬぼれてるつもりはなかったのになぁ……」
性的マイノリティと一口に言っても、性自認や性的指向などいろいろな概念が含まれているから、「仲間だね」と肩を組みたかったわけじゃない。救ってあげたいだとか、秘密を共有したいだとか、そんなおこがましいことだって望んでいない。
だけど、やっぱり気になった。
同じ年齢で、同じ学校で、同じ部活。同じ環境に身を置く彼はこの世界をどう見ているのか知りたかった。自分の在り方をどう捉えているのか聞いてみたかった。
友達に、なりたかった。
特別視している自覚はあったけど、私にとっては同じ趣味を持っている人に興味を抱く感覚に近いものだった。
それなのに踏み込む決心がつかなかったのは、自分の感覚がどこでも通用するわけではないと、もう知っているから。
私が“同じ趣味”程度に捉えられているものを、もっと深刻に、そしてもっと繊細に扱っている人がいる。“同じ”を理由に距離を詰めてくることを良しとしない人だっている。
そんな個々の事情を蹴散らしてまで、私の認識を押し通したいとはさすがに思わない。
ちゃんと、弁えていたはずなのに。きっと声をかけてもらったことに浮かれてしまった罰だ。朝凪くんは私と「仲良くなれない」とはっきり口にした。
「…………帰ろ」
机の額と接している部分がじんわりと熱を帯びてきた。そのぬるさがあまりにも不快で私はむくりと体を起こした。
