「流行ってるもんね、多様性」
「……は?」
自分史上もっともドスが利いた声が響いたことに驚いている暇などなかった。
「鳴上さんだったんだね。性的マイノリティだって公表してる人」
ほんの数分前。
耳馴染みのいい声がなんの前触れもなく私の鼓膜を震わせた。
かれこれ二十分ほどは熱中していたであろう手元の漫画から顔を上げると、すぐに正面に座る朝凪令夏と視線が絡む。思わず、私は息を呑んだ。
彼の背後に佇む本棚には年季の入った書物が所狭しと並んでいる。室内に趣を添える、この部屋の顔とも言える存在。そんな年代物すらも、朝凪くんがそばにいてはおとなしく見えてしまう。
いつ見てもきれいな色……。
私をじっと見つめる、日本人にしては淡い瞳から目が離せない。まるで白昼夢のようなこの状況をなんとか処理しようと、脳がフル稼働しているのがぼんやり感じられた。
瞬間、全開にしてある窓を我が物顔で通った風が黄ばんだカーテンをぶわりと大きく揺らし、勢いそのままに私の頬めがけて吹き抜けてきた。冬の名残りを完全に捨て去った空気は今の季節にふさわしく少し霞んでいる。
無意識のうちに細めていた目を開いたところで
「そうだよ」
と、ようやく一言発することができた。
普通教室の半分ほどの広さの部屋の真ん中で向かい合わせに並んだ二脚の長机。その一方を陣取る私は向かって左手に積まれた二冊の単行本の一番上に、手にしていた一冊をパタンと軽い音を立てて乗せる。
「言ってなかったっけ? 私がXジェンダーだって」
朝凪くんも読んでいるページを開いたまま文庫本をそっと伏せた。
ついさっきまで読んでいた異世界漫画の影響だと言われても否定はできない。何気ない所作一つ取っても気品を感じられるその姿が、メルヘンな世界観ととても親和性が高そうに思えてしまうのだ。しかも、ごく一般的なブレザーの制服が貴族の装いに見えてしまうんだから、なかなかの重症度である。
その漫画のヒーローである公爵令息に実世界でまみえた心地に浸りながら、続く朝凪くんの上質な声に耳を傾けた。
「直接は聞いてないかな。公表した人がいるっていう噂は耳にしてたけど」
「……朝凪くん、一年生のとき六組だったっけ?」
「うん」
「私が一組だったから、廊下の端と端か。そこまで教室が離れてると、確かに正確には届かないのかも」
全く信憑性のない推論によってなんとか間を持たせているものの、ようやく没入感から這い出た私は内心ではすっかり面食らっていた。
文藝部員——正確には「元」だけど——という共通点以外、これといって関わりのない状態がかれこれ一年以上も続いていた私たち。まさか二年生に進級したばかりのこのタイミングでその関係に変化が訪れるなんて思ってもみなかった。
彼を文藝部に勧誘したのは私だ。
とはいえ他人との交流は最低限に抑えたかったのか、かつての部室であるこの場所での朝凪くんは驚くほどに口数が少なかった。
しかも最終下校時刻より少し早い午後四時四五分には必ず帰ってしまうから、帰りながらちょっと雑談でもなんて機会も与えてもらえない。
言うなれば、“同じ部活の赤の他人”。それが私たちの関係性であり、この距離は引退まで縮まることはないと思っていた。
もしかしたら、と一つの可能性に思い至る。
以前耳にした朝凪くんにまつわるある噂。突然声をかけてきたのは私が朝凪くんと“近い立場”——彼の言葉を借りるなら、性的マイノリティだと判明したからだとしたら。
そうでもなければ、少なくともこれまでの朝凪くんなら、一個人の噂の裏付けが取れたくらいで、わざわざその人に接触するようなことはしなかった気がする。それほど周囲に関心がない人として彼は有名だった。
「ふっ」
かすかな笑い声で我に返る。
見ると、軽く頬杖を突いた朝凪くんがまるでお手本のように口角を丁寧に上げていた。
「……え? なに?」
「いや、すごい見るなと思って」
「……私、見てた?」
「うん。百面相しながら」
「まじかー」嘆きながら、手の甲で目元を押さえて背もたれにくずおれる。
自分ではどんな表情だったのかわからない分、余計に恥ずかしい。ほぼ初めての会話だというのに、私は一体なにを晒しているんだ。
「ははっ」
正面から軽快な笑い声が上がった。私の情けない言動に対するものであることは言うまでもない。
もうちょっと押し殺すとか、堪えようとする配慮ぐらい見せてもいいのに。別にもう取り繕う気もないけどさ。内心でぼやきながら、私はのそのそと体を起こす。
でも、ちょっと意外かも。誠に勝手ながら物静かな印象も手伝って、口に手を当てて控えめに笑うものだと思っていたから、少年さながらの無邪気な感じだとは思わなかった。
瞼に対して平行に入った二重の目はきれいに細められ、ためらいなく口を開き、かすかに肩を震わせている。体の動きに合わせてサラサラと揺れる癖のない髪は色素が薄く、方角的に陽光が直接入らないこの時間帯ですらほんのり透けて見えるほど。
目の前にいるのは自分と同じただの人間で、その人がただ笑っているだけの光景。
そのはずなのに、条件が重ならないと見られない珍しい自然現象を目の当たりにしたような恍惚とした心地にさせられる。
この場に居合わせたかったと唇を噛む人はたくさんいるにちがいない。
「そんなに笑う?」
ひとしきり笑ったであろうあたりで半ばやけくそに尋ねた。
一気に距離は縮まった気がするけど、そのきっかけが自分だという事実には納得がいかない。
「ふっ……だって、あまりにもリアクションが多彩だから。かなり表現力あるんじゃない?」
「はあ、どうも」
これは褒められてないな。隠す必要もないかと思って、そのまま声に乗せてやった。
ところがそんな些細な抵抗などまるで意に介さないように、「で、なにが言いたかったの?」と華麗に躱される。
「言わなくても伝わるでしょ? ほら、私かなり表現力あるらしいから」
「言うね。怒ってる?」
「怒ってないけど、喜んでもいない」
朝凪くんがまたからから笑った。
この人は本当に他人に興味がないのだろうか、と胡乱な目を向けずにはいられない。あと、なんか悔しい。明らかにからかわれているのに、心が弾んでいる。
なんていうか朝凪くんとの会話はスッと心に馴染んでくる。繰り広げられる言葉の応酬が好みのリズムに乗る感覚に似ていて、とても心地がいい。
言葉数は少ないけど、それを柔らかい声音で包んで伝えてくるから、朝凪くんの意図がスムーズに私に溶けて、おかげで言いたいことが淀みなく頭に浮かぶ。
正直会話の内容に思うところはあるけど、充実感を得られていることは認めざるを得ない。同じ空間にいながら一年以上も話していなかったなんて嘘みたいだ。
「——で、どうして今になって、私のことだってわかったの?」
さらに二、三往復言葉を交わしたところでようやく本題に入った。お尻の下でギッとパイプ椅子が軋む。
「昨日の昼休み、鳴上さんのこと食堂で見かけたんだ」
朝凪くんの口調はすっかり落ち着いていて、笑いの余韻は少しも残っていない。
「清水ってわかる? 去年、鳴上さんと同じクラスだったって。今はおれと同じクラスなんだけど」
「ああ、うん。わかるよ。話しやすい人だよね」
どうやら友達がいないわけではないらしい。
失礼ながらそのことに小さな驚きを覚えつつ、お調子者の同級生の顔を脳内で手繰り寄せていると朝凪くんが続けた。
「そいつが久しぶりに鳴上さんを見たからか、思い出したように話し始めて。訊いてもいないのに、偶然隣にいたおれにまで話しかけてきて」
どうやら友達というわけではなさそうだ。
でも、清水くんが朝凪くんに話しかける姿は簡単に想像できる。誰にでも分け隔てなく接することのできるムードメーカーのような人だったから。
清水くんならたとえ朝凪くんが苦々しい顔をしていようとも、構わず肩を組むぐらいのことはできるにちがいない。
勝手に想像して笑いを堪えていると、
「ごめんね」
唐突に謝られた。
「ん? なにに対する謝罪??」
「本人のいないところで噂話なんかしたことに対する謝罪」
「え゙っ」
「どんな反応?」
「いや、だって……そんなのみんなしてるよ?」
「だからっていい気はしないでしょ」
ああ、やっぱり——
この人は本当に“知っている”のかもしれない。自分にとっての当たり前を、憶測というもっとも脆弱にして絶対的な根拠によって踏みにじられる悲しみを。
「大丈夫。噂ぐらい覚悟の上で公表してるから」
強がりでも気遣われることを案じてでもない、嘘偽りない私の本音。それを聞いて、朝凪くんはほんの少し目を瞠った。
「……は?」
自分史上もっともドスが利いた声が響いたことに驚いている暇などなかった。
「鳴上さんだったんだね。性的マイノリティだって公表してる人」
ほんの数分前。
耳馴染みのいい声がなんの前触れもなく私の鼓膜を震わせた。
かれこれ二十分ほどは熱中していたであろう手元の漫画から顔を上げると、すぐに正面に座る朝凪令夏と視線が絡む。思わず、私は息を呑んだ。
彼の背後に佇む本棚には年季の入った書物が所狭しと並んでいる。室内に趣を添える、この部屋の顔とも言える存在。そんな年代物すらも、朝凪くんがそばにいてはおとなしく見えてしまう。
いつ見てもきれいな色……。
私をじっと見つめる、日本人にしては淡い瞳から目が離せない。まるで白昼夢のようなこの状況をなんとか処理しようと、脳がフル稼働しているのがぼんやり感じられた。
瞬間、全開にしてある窓を我が物顔で通った風が黄ばんだカーテンをぶわりと大きく揺らし、勢いそのままに私の頬めがけて吹き抜けてきた。冬の名残りを完全に捨て去った空気は今の季節にふさわしく少し霞んでいる。
無意識のうちに細めていた目を開いたところで
「そうだよ」
と、ようやく一言発することができた。
普通教室の半分ほどの広さの部屋の真ん中で向かい合わせに並んだ二脚の長机。その一方を陣取る私は向かって左手に積まれた二冊の単行本の一番上に、手にしていた一冊をパタンと軽い音を立てて乗せる。
「言ってなかったっけ? 私がXジェンダーだって」
朝凪くんも読んでいるページを開いたまま文庫本をそっと伏せた。
ついさっきまで読んでいた異世界漫画の影響だと言われても否定はできない。何気ない所作一つ取っても気品を感じられるその姿が、メルヘンな世界観ととても親和性が高そうに思えてしまうのだ。しかも、ごく一般的なブレザーの制服が貴族の装いに見えてしまうんだから、なかなかの重症度である。
その漫画のヒーローである公爵令息に実世界でまみえた心地に浸りながら、続く朝凪くんの上質な声に耳を傾けた。
「直接は聞いてないかな。公表した人がいるっていう噂は耳にしてたけど」
「……朝凪くん、一年生のとき六組だったっけ?」
「うん」
「私が一組だったから、廊下の端と端か。そこまで教室が離れてると、確かに正確には届かないのかも」
全く信憑性のない推論によってなんとか間を持たせているものの、ようやく没入感から這い出た私は内心ではすっかり面食らっていた。
文藝部員——正確には「元」だけど——という共通点以外、これといって関わりのない状態がかれこれ一年以上も続いていた私たち。まさか二年生に進級したばかりのこのタイミングでその関係に変化が訪れるなんて思ってもみなかった。
彼を文藝部に勧誘したのは私だ。
とはいえ他人との交流は最低限に抑えたかったのか、かつての部室であるこの場所での朝凪くんは驚くほどに口数が少なかった。
しかも最終下校時刻より少し早い午後四時四五分には必ず帰ってしまうから、帰りながらちょっと雑談でもなんて機会も与えてもらえない。
言うなれば、“同じ部活の赤の他人”。それが私たちの関係性であり、この距離は引退まで縮まることはないと思っていた。
もしかしたら、と一つの可能性に思い至る。
以前耳にした朝凪くんにまつわるある噂。突然声をかけてきたのは私が朝凪くんと“近い立場”——彼の言葉を借りるなら、性的マイノリティだと判明したからだとしたら。
そうでもなければ、少なくともこれまでの朝凪くんなら、一個人の噂の裏付けが取れたくらいで、わざわざその人に接触するようなことはしなかった気がする。それほど周囲に関心がない人として彼は有名だった。
「ふっ」
かすかな笑い声で我に返る。
見ると、軽く頬杖を突いた朝凪くんがまるでお手本のように口角を丁寧に上げていた。
「……え? なに?」
「いや、すごい見るなと思って」
「……私、見てた?」
「うん。百面相しながら」
「まじかー」嘆きながら、手の甲で目元を押さえて背もたれにくずおれる。
自分ではどんな表情だったのかわからない分、余計に恥ずかしい。ほぼ初めての会話だというのに、私は一体なにを晒しているんだ。
「ははっ」
正面から軽快な笑い声が上がった。私の情けない言動に対するものであることは言うまでもない。
もうちょっと押し殺すとか、堪えようとする配慮ぐらい見せてもいいのに。別にもう取り繕う気もないけどさ。内心でぼやきながら、私はのそのそと体を起こす。
でも、ちょっと意外かも。誠に勝手ながら物静かな印象も手伝って、口に手を当てて控えめに笑うものだと思っていたから、少年さながらの無邪気な感じだとは思わなかった。
瞼に対して平行に入った二重の目はきれいに細められ、ためらいなく口を開き、かすかに肩を震わせている。体の動きに合わせてサラサラと揺れる癖のない髪は色素が薄く、方角的に陽光が直接入らないこの時間帯ですらほんのり透けて見えるほど。
目の前にいるのは自分と同じただの人間で、その人がただ笑っているだけの光景。
そのはずなのに、条件が重ならないと見られない珍しい自然現象を目の当たりにしたような恍惚とした心地にさせられる。
この場に居合わせたかったと唇を噛む人はたくさんいるにちがいない。
「そんなに笑う?」
ひとしきり笑ったであろうあたりで半ばやけくそに尋ねた。
一気に距離は縮まった気がするけど、そのきっかけが自分だという事実には納得がいかない。
「ふっ……だって、あまりにもリアクションが多彩だから。かなり表現力あるんじゃない?」
「はあ、どうも」
これは褒められてないな。隠す必要もないかと思って、そのまま声に乗せてやった。
ところがそんな些細な抵抗などまるで意に介さないように、「で、なにが言いたかったの?」と華麗に躱される。
「言わなくても伝わるでしょ? ほら、私かなり表現力あるらしいから」
「言うね。怒ってる?」
「怒ってないけど、喜んでもいない」
朝凪くんがまたからから笑った。
この人は本当に他人に興味がないのだろうか、と胡乱な目を向けずにはいられない。あと、なんか悔しい。明らかにからかわれているのに、心が弾んでいる。
なんていうか朝凪くんとの会話はスッと心に馴染んでくる。繰り広げられる言葉の応酬が好みのリズムに乗る感覚に似ていて、とても心地がいい。
言葉数は少ないけど、それを柔らかい声音で包んで伝えてくるから、朝凪くんの意図がスムーズに私に溶けて、おかげで言いたいことが淀みなく頭に浮かぶ。
正直会話の内容に思うところはあるけど、充実感を得られていることは認めざるを得ない。同じ空間にいながら一年以上も話していなかったなんて嘘みたいだ。
「——で、どうして今になって、私のことだってわかったの?」
さらに二、三往復言葉を交わしたところでようやく本題に入った。お尻の下でギッとパイプ椅子が軋む。
「昨日の昼休み、鳴上さんのこと食堂で見かけたんだ」
朝凪くんの口調はすっかり落ち着いていて、笑いの余韻は少しも残っていない。
「清水ってわかる? 去年、鳴上さんと同じクラスだったって。今はおれと同じクラスなんだけど」
「ああ、うん。わかるよ。話しやすい人だよね」
どうやら友達がいないわけではないらしい。
失礼ながらそのことに小さな驚きを覚えつつ、お調子者の同級生の顔を脳内で手繰り寄せていると朝凪くんが続けた。
「そいつが久しぶりに鳴上さんを見たからか、思い出したように話し始めて。訊いてもいないのに、偶然隣にいたおれにまで話しかけてきて」
どうやら友達というわけではなさそうだ。
でも、清水くんが朝凪くんに話しかける姿は簡単に想像できる。誰にでも分け隔てなく接することのできるムードメーカーのような人だったから。
清水くんならたとえ朝凪くんが苦々しい顔をしていようとも、構わず肩を組むぐらいのことはできるにちがいない。
勝手に想像して笑いを堪えていると、
「ごめんね」
唐突に謝られた。
「ん? なにに対する謝罪??」
「本人のいないところで噂話なんかしたことに対する謝罪」
「え゙っ」
「どんな反応?」
「いや、だって……そんなのみんなしてるよ?」
「だからっていい気はしないでしょ」
ああ、やっぱり——
この人は本当に“知っている”のかもしれない。自分にとっての当たり前を、憶測というもっとも脆弱にして絶対的な根拠によって踏みにじられる悲しみを。
「大丈夫。噂ぐらい覚悟の上で公表してるから」
強がりでも気遣われることを案じてでもない、嘘偽りない私の本音。それを聞いて、朝凪くんはほんの少し目を瞠った。

