季節のはざまに虹を架ける

 ほぼ平年通りでの梅雨入りに世間が肩を落とす六月初旬。
 止め処なく雨水が滴る傘をよく振ってから、私は初めて訪れる喫茶店の重たい扉を押し開いた。

「一人、先に入っていると思うんですが」
「確認しますので、お待ちください」

 こなすだけの接客が冷却水のごとく急いた私の心を落ち着けていく。おかげで傘袋の口を擦り続けていた指先がようやく確かな手ごたえを掴んだ。

「ご案内します」
 
 傘を袋に入れ終わるまで待ってくれる配慮は見せてから店員が踵を返した。その後を追いながら、私は乱れた髪を急いで手ぐしで整える。

 あれから香住くんとはやまべ動物病院でもよく話すようになった。
 突然仲良くなった私たちに院長や佐保子さんは驚いていたけど、二人は特に香住くんに同年代の友達ができたことに心の底から安堵しているようだった。

「実はね、あおいちゃんなら彼と仲良くなれるんじゃないかって思ってたの」

 と、ある日こっそり耳打ちしてきた佐保子さん。
 どうやら彼を紹介した裏にはご夫婦のそんな意図が隠れていたらしい。だったら、天気の話しかしていなかったころの私たちを二人はどんな気持ちで見ていたのだろう。
 残念ながら「今度ゆっくりお茶でも」という約束はまだ実現できていない。
 平日は香住くんの通信制高校の授業と私の学校の時間が微妙に合わなくて、実はやまべ動物病院での時間が唯一会える奇跡的なタイミングだということが発覚した。
 休日も私の中間考査やつい先日終えたばかりの文化祭に、涼介の試合の応援と思いのほか空けられず、やっとのことでまとまった日程はずいぶん先になってしまった。
 香住くんも頻繁にやり取りするタイプではないようで、散歩で会うときのほうが会話は盛り上がる。
 そんな中、あえてメッセージで取り上げることを選んだ話題が一つだけあった。

【気になってたんだけど、呼び方も変えたほうがいいよね?】
【今のままで大丈夫です。まだバイト先では打ち明けてないので】
【了解!】
【代わりと言ってはなんですが、ここでは「わたし」って書いてもいいですか?】
【もちろん! じゃあ、私も「あおい」にしようかな。家の中ではそう呼んでるんだよね】

 そんなこんなで慌ただしい日々がようやく落ち着いた、今日。

「別れてほしい」

 目を逸らすことなく告げられた涼介の意志に私は言葉を失った。
 【土曜日、時間もらえる? 場所はこことかどう?】というメッセージとともに送られてきたURLは、高校の最寄駅の二つ隣の駅にある喫茶店だった。
 放課後によく立ち寄った最寄駅近くのカフェではない時点で嫌な予感はしていたけど、勘というのはこういうときに限って当たってしまう。
 駅から少し歩く分穴場だという事前に見た口コミの通り、お客さんの入りはまばらだ。今日に限って言えば、天気も要因の一つかもしれない。
 決して話し声が聞こえないわけではないけど、控えめに流れているジャズがしっかり耳に届く程度には静けさが保たれている。きっとこういう場所のほうがじっくり話ができると思ったのだろう。
 だけど、この静けさが揺らぐ私の心にかえって刺さる。
 喧騒がない分、それほど張っていなくても涼介の声が鮮明に聞こえてしまうから、聞き間違いを装って躱すこともできない。
 薄暗い店内は意外と広く、意図的なのか偶然なのか、私たちの会話が聞こえる距離に座る人もいない。
 二人だけの空間と言ってしまっても差し支えない状況で、私は想い人の強い眼差しから逃れられないでいる。

「理由、聞いてもいい? ……って言いたいところだけど……」
「……」
「やっぱり、“あれ”だよね……?」

 落としていた視線を恐る恐る上げると、今度は涼介が逃げるように目を逸らしてから、たいそう気まずそうに頷いた。

「……『女の子扱いしないでほしい』っていう葵の頼みに、これからも応え続けられる自信がない」

 それなのに突き付けられた本音は、説得の余地が一寸たりとも見当たらないほど揺るぎないものだった。
 サイドと襟足を軽く刈り上げた清潔感のある黒髪、陽に焼けた肌と鍛えられた体つき、そして目尻の垂れた優しげな目元。遠くから、そしてもっと近くでも、数え切れないほど見て触れたそのすべてが、今はまるで知らないものみたいだ。

「……そっか……。そう、だよね……」

 約三ヶ月前。
 高校一年生の春休み前のこと。
 放課後に遊んだ帰り道、私は涼介に思い切って相談を持ちかけた。『普段は女性として扱って』なんて自己紹介では言ったけど、できればあまり性別を意識せずに接してほしいと。
 あれはあくまで学校という集団生活における私なりの処世術であって、より深い関係を築くことができた相手とは、もっと自分らしさを見せられる関係でありたいと思ってのお願いだった。
 ほんの一瞬、驚きとかすかな戸惑いを見せたものの、ほぼ二つ返事で了承してくれた涼介。初対面のときから変わらない人好きのする笑顔で、私がどういうところに性別を感じるのか、特に気を付けるべきところなど積極的に認識を擦り合わせてくれた。
 相談してよかった——そんな安堵は、まもなく後悔に変わる。

「私も反省してたんだ。あれから涼介の態度にぎこちなさを感じることが増えたから。私の相談は涼介自身を否定するものだったなって」

 満開の桜を背景に取ったあのツーショット。
 いつもなら私の肩を抱き寄せる涼介の手が入るのに、この写真の涼介は両手で背後の桜を指さしていた。
 四月ごろに話題になった不審者の件で涼介から送られてきたメッセージ。
 【帰り、送るよ】という一文には続きがあった。【ただ、心配なだけだから。他意はない】

「それは仕方ないだろ。俺だって葵に不快な思いさせたいわけじゃないから、嫌なことははっきり言ってくれたほうが助かるし。ただ、『あの相談は忘れて』『前みたいに女の子として扱ってくれていいから』って言われてから、ずっと考えてた。葵だけが我慢する関係って、本当に付き合ってるって言えるのか……って……」

 小春とショッピングモールに行く前に、時間を作って涼介と会ったときのことだ。

「それ、あのときも言ってくれたよね。『俺に合わせなくていい』って」
「そうだっけ」
「うん。でも、私も嫌々提案したわけじゃなかったよ? 涼介、言ってたでしょ? 『姉ちゃん二人のせいで、無意識に女子を丁重に扱ってしまう』って。でも見方を変えれば、それが涼介の自然体ってことだなって気付いて。それを抑え込んでまで、私のわがままを通したくなかったんだ」
「それ、あのときも言ってたな」
「そうだっけ」

 お互い少し申し訳なさそうに、それでいてどこかホッとした気持ちを滲ませながら控えめに笑い合った。
 変なの。二人とも相手の言ったことは憶えているのに。いつもの調子に戻ってきたくらいで、安堵の色をありありと浮かべているのに。
 この先隣にいないかもしれないなんて、本当に変だ。