「……って、ごめん。えらそうに語ったけど、やっぱり全部綺麗事かも」
香住くんは首を大きく横に振ってくれた。
「僕のほうこそ、ごめんなさい。よく知りもしないで……。だけど、やっぱりぼくはそんなに上手く割り切れません……」
それっきり香住くんは口を噤んでしまった。
両手に握られていたはずのペットボトルはいつのまにか私たちの間に置かれている。中身はまだ少しも減っていない。
私はその横にある自分のお茶のキャップを捻る。たくさん話したせいで喉がカラッカラだ。途中からは時々喉がつっかかる感覚すら覚えていた。
でも、どうしても水分補給を挟みたくなかった。話を途切れさせたくなかったのだ。それくらい香住くんは待ってくれただろうけど、なんとなく私自身が止めたくなかった。
残り三分の一ほどになるまで一気に飲んだところで、香住くんが口を開く気配がして、ペットボトルを持つ手を下ろす。
「……どうして、そうまでして人と関わろうとするんですか?」
私たちの間に二本のペットボトルが並んだ。
「うーんと……?」
「いっそのことすべて断ち切ってしまえば、楽になれるのに……」
「確かに……」
「え?」
「それは思いつかなかった。なんでだろう?」
「なんでだろうって……」
「あ! あれかな? この件があったとき、お母さんに——……わっ!」
音が鳴るほどの強い風が吹いて、広場の砂が高く舞い上がった。
近くにいた数人の子どもがとっさに顔を覆ったり、目を細めたりしている。まもなく砂塵はこちらまでやって来て、私たちも反射的に顔を俯けた。
やがて聞こえてきた遊びを再開する高い声。それを合図とするように戻した私の視界の隅で、香住くんが髪を丁寧に耳に掛けた。
耳たぶに空いた穴には小ぶりなループ状のピアスが通されていて、色はピンクゴールド、輪っかの先端で石をあしらったモチーフが揺れている。
繊細で美しい、香住くんによく似合うピアスだ。
耳になにか付いているなとは思っていたけど、まじまじと見るわけにもいかなかったから、こんなに素敵なピアスをしているなんて知らなかった。バイト中に気になったことはないから、多分外しているのだと思う。
「……で、なんだっけ?」
流れるような仕草と露わになった耳元に意識を取られて、すっかり話が飛んでしまった。
「中学の出来事があったときに、お母さんがどうとか……」
「そうそう! お母さんに言われたんだ。『人生は石の積み重ねだ』って」
「石?」
やるせなさに肩を落とす私に対して、お母さんが教えてくれたこと。
いい経験は箱のようなきれいな四角い形をしていて、どれだけ高く積み重ねても安定している。反対によくない経験はいびつな形をしているから、今はかろうじてバランスを保っていたとしてもいつか崩れ落ちてしまう。
石の形を定めるのは自分次第。今は最悪だとしか思えないことも、後から振り返ると実は得難い経験になっていて、そこに気付くことができればそれはきれいな四角い形を取る。
彼女との出来事を私がどう受け止めるかで、残りの中学生活が、さらにはその先の人生が変わっていくのだと、肩を抱き寄せて教えてくれた。
「なんか、詩的ですね」
「はは、わかる。うちのお母さん、ちょっとポエマー気質なのかな? 趣味で漫画描いてるから、言語化が上手いのかも」
「なるほど」
「ちなみに私の絵は独創的だってよく言われる」
「それは、いわゆる……」
「あ、それ以上は言わないで」
香住くんが口元に手を当てて控えめに笑う。その顔は憑き物が落ちたように穏やかで、ひょっとしたら普段まあちが見ている彼もこんな感じなのかもしれないと思った。
「ちなみに私、去年は美術選択だったから。今度、傑作をご披露いたしましょう」
「ふふ、ありがとうございます」
「で、思ったんだけど」
「?」
「まあちにとって香住くんとの出会いは、絶対きれいな四角い形をしてると思うんだ」
一瞬、ハッとしたような素振りを見せた香住くんだけど、すぐさま「……そんな馬鹿な」と自嘲気味に言い捨てた。
「犬がそんな判断をするなんて……」
「本当にそう思う?」
香住くんがとっさに目を伏せて、私の投げかけた問いから逃れる。
少なくとも私の知っている犬はみんな心を持っていて、人の本性を見抜く鋭い子だっている。それを動物病院で働く彼が知らないはずがない。
だから、「まあちが本当に石を積んでるかどうかは置いておいて」私はあえて続ける。
「聞いてると思うけど、まあちってすっごく人見知りなんだよ。初対面の人には絶対に懐かない。それなのに香住くんにはすぐに寄っていったでしょ? 院長や佐保子さんにだって、数回会ってからようやくだったのに」
「……それが、なんだって……」
「まあちは香住くんを近づいても大丈夫な人だと思ってる。それは間違いなく香住くんの評価されるところ。そして、私のかわいいまあちがそう言うなら、私も香住くんのことを『評価できるところなんてない』人だとは思わない」
ゆっくりと、戸惑いを残しながら、それでも香住くんはもう一度私を見た。
濃褐色の瞳はきらきらと揺らめいて、眉根を下げた表情は以前読んだ漫画に出てきた神に赦しを乞う人のそれに近いものを感じる。
「まあちと私のお墨付きじゃ不満ですか?」
香住くんの左目からあふれた一筋の雫が頬をゆっくりと伝う。
そして脱力したように軽く目を落とすと、
「ぼく……本当は…………」
消え入りそうな声が確かに耳に届いた。
「うん」
「ほん、とうは……」
「うん」
ようやく顎先に達した雫は少しの間しがみつくようにそこで留まっていたけど、やがてためらいを見せながらもそっとその身を重力に委ねた。
「女、なんです……。体は、男だけど……、中身は……女なんです……」
「そっか」
私の性自認を聞いたときの反応からして、なにか事情を抱えているような気はしていた。打ち明けてくれるとは思っていなかったけど。
体は男性で、心は女性。
つまり、香住くんはトランスジェンダー女性ということになるのだろう。
とはいえ、あくまで言葉は形を与えるためのもの。それが私の考え方だ。
ネットや書籍で見聞きしたXジェンダー無性の人たちの声。同じ「Xジェンダー無性」のはずなのに、その感覚が完全に一致する人には今まで出会ったことがない。
共感できる部分や近いと感じるところはあっても、ではそれが私の見ている世界を完璧に代弁してくれているかというと決してそうではなかった。
結局、単語一つではその人のことなんてほとんどわからないんだ。
「ぼくも、中学のときに——……わっ!」
香住くんのスマホから通話の受信音が鳴った。
慌てていたせいか応答することなく切ってしまったものの、届いていたメッセージにさっと目を通して「ごめんなさい……。伝えていた帰宅時間よりかなり遅れてしまってるから、家族が心配してるみたいで……」と申し訳なさいっぱいに説明してくれる。
「げっ! 本当だ、もうこんな時間! 私もまあちの散歩に行かなきゃ! 引き止めてごめんね、香住くん」
「い、いえ……! お話できて、う、嬉しかったです……」
「それはもちろん私もだよ! あっ! よかったら、また今度ゆっくりお茶でもしながら話さない?」
「ぜひ……っ!」
「じゃあ、連絡先交換しよ!」
SNSはメッセージアプリを除いてすべてのアカウントを削除してしまったとのことで、メッセージアプリを通して連絡を取ることになった。
友だち欄に新たに「KA」と表示されたアカウントが加わる。それを確認して腰を上げると、一拍遅れて香住くんも立ち上がった。
一緒に駅まで向かう途中、隣でごくごくと喉を鳴らす香住くんに「いい飲みっぷり」と笑いかけると、「ずっと喉乾いてたんです」と笑い返してくれた。まあちのおこぼれじゃなく、私に向けられた初めて笑顔。それはとても清々しく感じられた。
ペットボトルのお茶は二人とももうほとんど残っていなかった。
香住くんは首を大きく横に振ってくれた。
「僕のほうこそ、ごめんなさい。よく知りもしないで……。だけど、やっぱりぼくはそんなに上手く割り切れません……」
それっきり香住くんは口を噤んでしまった。
両手に握られていたはずのペットボトルはいつのまにか私たちの間に置かれている。中身はまだ少しも減っていない。
私はその横にある自分のお茶のキャップを捻る。たくさん話したせいで喉がカラッカラだ。途中からは時々喉がつっかかる感覚すら覚えていた。
でも、どうしても水分補給を挟みたくなかった。話を途切れさせたくなかったのだ。それくらい香住くんは待ってくれただろうけど、なんとなく私自身が止めたくなかった。
残り三分の一ほどになるまで一気に飲んだところで、香住くんが口を開く気配がして、ペットボトルを持つ手を下ろす。
「……どうして、そうまでして人と関わろうとするんですか?」
私たちの間に二本のペットボトルが並んだ。
「うーんと……?」
「いっそのことすべて断ち切ってしまえば、楽になれるのに……」
「確かに……」
「え?」
「それは思いつかなかった。なんでだろう?」
「なんでだろうって……」
「あ! あれかな? この件があったとき、お母さんに——……わっ!」
音が鳴るほどの強い風が吹いて、広場の砂が高く舞い上がった。
近くにいた数人の子どもがとっさに顔を覆ったり、目を細めたりしている。まもなく砂塵はこちらまでやって来て、私たちも反射的に顔を俯けた。
やがて聞こえてきた遊びを再開する高い声。それを合図とするように戻した私の視界の隅で、香住くんが髪を丁寧に耳に掛けた。
耳たぶに空いた穴には小ぶりなループ状のピアスが通されていて、色はピンクゴールド、輪っかの先端で石をあしらったモチーフが揺れている。
繊細で美しい、香住くんによく似合うピアスだ。
耳になにか付いているなとは思っていたけど、まじまじと見るわけにもいかなかったから、こんなに素敵なピアスをしているなんて知らなかった。バイト中に気になったことはないから、多分外しているのだと思う。
「……で、なんだっけ?」
流れるような仕草と露わになった耳元に意識を取られて、すっかり話が飛んでしまった。
「中学の出来事があったときに、お母さんがどうとか……」
「そうそう! お母さんに言われたんだ。『人生は石の積み重ねだ』って」
「石?」
やるせなさに肩を落とす私に対して、お母さんが教えてくれたこと。
いい経験は箱のようなきれいな四角い形をしていて、どれだけ高く積み重ねても安定している。反対によくない経験はいびつな形をしているから、今はかろうじてバランスを保っていたとしてもいつか崩れ落ちてしまう。
石の形を定めるのは自分次第。今は最悪だとしか思えないことも、後から振り返ると実は得難い経験になっていて、そこに気付くことができればそれはきれいな四角い形を取る。
彼女との出来事を私がどう受け止めるかで、残りの中学生活が、さらにはその先の人生が変わっていくのだと、肩を抱き寄せて教えてくれた。
「なんか、詩的ですね」
「はは、わかる。うちのお母さん、ちょっとポエマー気質なのかな? 趣味で漫画描いてるから、言語化が上手いのかも」
「なるほど」
「ちなみに私の絵は独創的だってよく言われる」
「それは、いわゆる……」
「あ、それ以上は言わないで」
香住くんが口元に手を当てて控えめに笑う。その顔は憑き物が落ちたように穏やかで、ひょっとしたら普段まあちが見ている彼もこんな感じなのかもしれないと思った。
「ちなみに私、去年は美術選択だったから。今度、傑作をご披露いたしましょう」
「ふふ、ありがとうございます」
「で、思ったんだけど」
「?」
「まあちにとって香住くんとの出会いは、絶対きれいな四角い形をしてると思うんだ」
一瞬、ハッとしたような素振りを見せた香住くんだけど、すぐさま「……そんな馬鹿な」と自嘲気味に言い捨てた。
「犬がそんな判断をするなんて……」
「本当にそう思う?」
香住くんがとっさに目を伏せて、私の投げかけた問いから逃れる。
少なくとも私の知っている犬はみんな心を持っていて、人の本性を見抜く鋭い子だっている。それを動物病院で働く彼が知らないはずがない。
だから、「まあちが本当に石を積んでるかどうかは置いておいて」私はあえて続ける。
「聞いてると思うけど、まあちってすっごく人見知りなんだよ。初対面の人には絶対に懐かない。それなのに香住くんにはすぐに寄っていったでしょ? 院長や佐保子さんにだって、数回会ってからようやくだったのに」
「……それが、なんだって……」
「まあちは香住くんを近づいても大丈夫な人だと思ってる。それは間違いなく香住くんの評価されるところ。そして、私のかわいいまあちがそう言うなら、私も香住くんのことを『評価できるところなんてない』人だとは思わない」
ゆっくりと、戸惑いを残しながら、それでも香住くんはもう一度私を見た。
濃褐色の瞳はきらきらと揺らめいて、眉根を下げた表情は以前読んだ漫画に出てきた神に赦しを乞う人のそれに近いものを感じる。
「まあちと私のお墨付きじゃ不満ですか?」
香住くんの左目からあふれた一筋の雫が頬をゆっくりと伝う。
そして脱力したように軽く目を落とすと、
「ぼく……本当は…………」
消え入りそうな声が確かに耳に届いた。
「うん」
「ほん、とうは……」
「うん」
ようやく顎先に達した雫は少しの間しがみつくようにそこで留まっていたけど、やがてためらいを見せながらもそっとその身を重力に委ねた。
「女、なんです……。体は、男だけど……、中身は……女なんです……」
「そっか」
私の性自認を聞いたときの反応からして、なにか事情を抱えているような気はしていた。打ち明けてくれるとは思っていなかったけど。
体は男性で、心は女性。
つまり、香住くんはトランスジェンダー女性ということになるのだろう。
とはいえ、あくまで言葉は形を与えるためのもの。それが私の考え方だ。
ネットや書籍で見聞きしたXジェンダー無性の人たちの声。同じ「Xジェンダー無性」のはずなのに、その感覚が完全に一致する人には今まで出会ったことがない。
共感できる部分や近いと感じるところはあっても、ではそれが私の見ている世界を完璧に代弁してくれているかというと決してそうではなかった。
結局、単語一つではその人のことなんてほとんどわからないんだ。
「ぼくも、中学のときに——……わっ!」
香住くんのスマホから通話の受信音が鳴った。
慌てていたせいか応答することなく切ってしまったものの、届いていたメッセージにさっと目を通して「ごめんなさい……。伝えていた帰宅時間よりかなり遅れてしまってるから、家族が心配してるみたいで……」と申し訳なさいっぱいに説明してくれる。
「げっ! 本当だ、もうこんな時間! 私もまあちの散歩に行かなきゃ! 引き止めてごめんね、香住くん」
「い、いえ……! お話できて、う、嬉しかったです……」
「それはもちろん私もだよ! あっ! よかったら、また今度ゆっくりお茶でもしながら話さない?」
「ぜひ……っ!」
「じゃあ、連絡先交換しよ!」
SNSはメッセージアプリを除いてすべてのアカウントを削除してしまったとのことで、メッセージアプリを通して連絡を取ることになった。
友だち欄に新たに「KA」と表示されたアカウントが加わる。それを確認して腰を上げると、一拍遅れて香住くんも立ち上がった。
一緒に駅まで向かう途中、隣でごくごくと喉を鳴らす香住くんに「いい飲みっぷり」と笑いかけると、「ずっと喉乾いてたんです」と笑い返してくれた。まあちのおこぼれじゃなく、私に向けられた初めて笑顔。それはとても清々しく感じられた。
ペットボトルのお茶は二人とももうほとんど残っていなかった。
