季節のはざまに虹を架ける

 朝凪くんに話した中学での出来事。
 保健室で着替えるのをやめて鎮まったと思ったあの子の炎は、三年生に進級してもまだ燻っていた。
 ある日、私のもとにひとつのリンクが届いた。それは彼女のSNSの裏アカウントで、そこにはどう見ても私に対するものであろう愚痴が延々と綴られていた。
 送ってきたのは彼女が直談判の際に連れていた子の一人で、彼女の度を超えた行動にさすがに罪悪感を覚えたらしい。性格的に自分から注意することは難しいから、せめてもの償いとして私に連絡してきたのだと言っていた。
 だけど、私はなにもしなかった。
 実害はなかったし、卒業してすぐにアカウントは削除されたから、結果的に正解だったのかもしれないけど。そうじゃなくて——

「思ったより、過激でした……」
 
 朝凪くんに話したことも含めて事の次第を一通り聞き終えた香住くんは、全身に目に見えて疲労をにじませた。

「ぼくなら、一瞬で学校辞めてます……」
「それもアリだよね」
「……でも、納得いきません。あなたは自分を抑えてまで相手の要求に従ったのに、相手はずっと引きずって陰口まで書いて……。密告した人だって、自分で注意すればいいのに……」
「ね。『じゃあどうして欲しかったんだ』とか、『わざわざ知らせてくれなくてよかったのに』とは私もちゃんと思った」
「だったら、どうしてなにも……」
「うーん……」

 落とした視線の先で、軽く引いた右足の下から砂をすり潰すような音が聞こえた。

「みんながスッキリする解決策なんて、きっとほとんどないんだよ」

 裏アカが彼女の本音なのだとしたら、私は転校しなくてはいけなかった。
 何事もなかったように楽しく過ごしているのが気に食わないのだと、言葉を変えて日を改めて何度も何度も吐き出していたから、それがクラスを分けても解消されないとなると、もう学校を移る以外矛を収めてもらう手立ては残っていなかった。
 そこまでするべきか両親と何度も話し合って、最終的には私がどうしたいのかを一番に考えることで落ち着いた。

「残るって……どうして……」
「学校では全く絡んでこなかったし、DMとかで直接なにか言ってくるわけでもなかったから。つらくなったり実害が出てきそうなら、即相談するって両親と約束して」
「でも、自分のことをよく思ってない人が、少なくとも一人はいるってことですよ?」
「確かにつらかったし、正直怖かった。まれにニュースになってる事件みたいなことが、自分の身にも起こるんじゃないかっていろいろ調べもしたし。今、一緒に笑ってる子たちのことも一気に信じられなくなったし……」

 当時の私はすっかり弱気になっていたから、 転校先まで勝手に探し始めていた。

「だけど、ふと思ったんだよね。転校先にだって、私を気に入らないと思う人はいるかもしれない。今度はもっとひどい目に遭うかもしれない。そしたらまた転校して……って、同じことの繰り返しになる」
「だとしても、居心地の悪いところにとどまり続ける必要なんて……」
「三年のクラスが最悪だったなら、すぐにでも転校したよ? でも、結構……ていうか、かなり楽しいクラスだったから、それを手放してまで得られるメリットがなくて。より馴染める環境を探し続けるのも一つの手だけど……ほら、仮にもマイノリティ側の人間だし、百パーセント満足できる場所なんてあるのかなって思ったんだよね」

 家族会議を重ねるうちに見えてきたもの。
 それは私がいなくなったところで解決するものではないということだった。
 事の発端は間違いなく私の自分本位な振る舞い。直談判した彼女を責めるつもりはないし、保健室の利用をやめたことに対する不満もない。
 そのうえで彼女が取った裏アカウントという行動は、私にはもうどうすることもできない域に達していた。
 私に向けたものであろう数々の言葉に紛れて、ぽつぽつと落ちていた彼女の本音。自分の外見に対する批判。理想の体型を持つ子への羨望。そして、激しい自己嫌悪。
 きっと私がこれ以上なにをしたって、なにを言ったって、彼女には響かなかった。

「で、残るって決めたなら、友達を疑ったまま学校行くのしんどいでしょ? しんどいこと好きじゃないし、『もういっかー!』って、あれこれ考えるの止めちゃった」
「そっ、そんなに簡単でいいんですか?!」
「私的には?」
「私的にはって……」

 その胸の内をはっきりと表すような、驚きと呆れの混じったため息が香住くんから漏れた。

「香住くんは印象よくない子に、わざわざ友達になろうって声かける?」
「ぼくは……一般的には、前向きな気持ちからなんじゃないですか」
「でしょ? 私もそう思う」

 一瞬言い淀んで、主語を変えたことには気付かないふりをする。

「直談判した子も最初から私を憎んでたわけじゃないと思うんだ。体型っていうコンプレックスがあって、周りを見て劣等感が強くなって、そこを私がちょうど刺激してしまった」

 私と彼女は小学校もちがうし、一年のときも別のクラス。合同授業もかぶったことはなかった。
 正真正銘、ゼロから始まった私たちの関係。
 こうして紐解いてみるとよくわかる。人一人にできることはたかが知れているのに、それでいてその影響力は計り知れない。ほんのわずかな綻びが、のちに大きな亀裂を生むことになる。

「なら、結局できることって、“相応しい存在”でいることだけだなって思ったんだ」
「ふさわしい……?」
「うん。友達が困ったり悩んだりしてるときに、相談したいと思える存在でいること」 

 一見大人しそうだけど、実は話上手でいつも周りを笑わせてくれるグループの盛り上げ役だった彼女。私と同じ犬好きで、祖父母が飼っているという柴犬の写真や動画をよく共有してくれた。まあちにも会いに来てくれて、一緒に散歩に行ったことだってある。
 私は彼女のことが大好きだった。だけど——

「私がどれだけ彼女を好きでも、彼女のコンプレックスを消すことはできない。無くせるように一緒にがんばることはできるけど、そうなるためには信頼関係が必要になる」

 魔法みたいに杖を一振りすれば消えるのなら。
 彼女の劣等感を強めるきっかけとなった理想的な体型の女の子たちを、彼女の視界に入れないようにすることもできたかもしれない。
 コンプレックスそのものを消すことだって絵空事ではなかったかもしれない。
 だけど、そんな夢のような力なんて誰も持ち合わせていないから。

「今でも思うよ。彼女が抱えてた劣等感を吐き出せる場所になれてたら。気分転換ができる存在になれてたら……って」

 もしかしたらすべてを独りで抱え続けていたのかもしれない。抱えきれなくなった感情を唯一吐き出せる場所が、あの裏アカウントだったのかもしれない。
 だって、アカウントの登録日は彼女が直談判を決行するずいぶん前だった。

「もったいないと、思います……」
「ん?」
「どれだけ相手を想ったって、気付いてくれるとは限らないんですよ? 無下にされたり、悪用されたりするかもしれない……。あなたのその優しさがもったいないです……」

 まるで自分のことのように痛ましげな表情を浮かべてくれる香住くんが一番優しい。
 そう思ったものの、あえて口にはしなかった。今の私がそれを口にしたら、彼の気持ちを茶化しているように聞こえてしまいそうな気がしたのだ。

「だからだよ」
「え?」
「仮に無下にされたり悪用されたりしたとしても、あのときの私に怒る権利なんてなかった」
「……どういうことですか?」
「あのときの私は彼女にとって“相応しい存在”になろうとすらしてなかった」

 思えば、彼女は私に劣等感を見せたことがなかった。いや、言外ににじんでいたそれに私が気付いていなかったのかもしれない。
 でも、どちらだって変わらない。
 あのときの私はどちらだろうと、ただ彼女を追い詰める存在にしかなれなかったのだから。

「自分なりに彼女を大切にできてたら、同じ結果だったとしても諦めがついた。でも、私はあのときの自分が本当にきらい。家族にだって、家での扱いは当たり前じゃないって言われてたのに。保健室で着替え始めて、思ったよりもみんなが気を遣ってくれるから、調子に乗ってたんだよ……」
「…………」
「性的マイノリティとか関係ない。あのときの私は人間性が終わってた。優遇されて当然だって気持ちが、言葉や行動の節々に表れてたんだと思う」

 裏アカに積み重なった数々の愚痴の中には、私の過去の言動を非難するものもたくさんあって、私はそのほとんどに身に覚えがあった。
 そうして自分の振る舞いを客観的に見た私は、『こんな人間とは友達になりたくない』と強く思った。それが彼女が私に突き付けた答えだった。

「誰がなんと言おうと私はあの子に感謝してる。彼女的には不本意だと思うけど、結果的に私は自分の悪いところと向き合うことができた」
「……アカウントが消えたのは、一区切りついたということなんでしょうか」
「そう……思いたいよね。罪滅ぼしじゃないけど、本当は裏アカの件も最後までちゃんと解決したかったんだ。まあ、私が下手に動いたら火に油を注ぐことになるって、両親から止められたんだけど」

 あのころは何度両親と話し合ったかわからない。
 次の日だって仕事なはずなのに、お父さんもお母さんも決して匙を投げることなく、夜な夜な一緒に頭を抱えてくれた。

「もどかしいよね。かかわっても逆効果、そのくせ相手のすべての要望に従うこともできない。ただ時間が解決してくれるのを待つだけってさ」

 できることはただ一つ、反省すること。それだけだった。