季節のはざまに虹を架ける

「はい」
「え……でも……」
「お誘い代、ってことで」
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」

 駅から十分ほど歩いて公園に着いた私たちは、入口からそう離れていないところにあるベンチに腰を下ろす。
 道中のコンビニで買った小さいサイズのペットボトルのお茶を一本手渡すと、香住くんは渋りながらも受け取ってくれた。
 構わずキャップを開けて飲む私の右隣に一・五人分ほど空けて座る彼は、ラベルをじっと見つめたままで口をつけようとはしない。
 それを見なかったことにしてキャップを閉めていると、片方の手で娘を抱きかかえて反対の手でその子のものと思しきキックバイクを持ったお父さんと、赤ちゃんの乗ったベビーカーを押すお母さんが前を通り過ぎていった。
 赤ちゃんは眠っているのか動きはないけど、会話の中心にいる女の子もそんな娘を見守る両親も見るからに幸せそうだ。

「あの……」

 微笑ましい光景を眺めながらどう切り出そうか考えていると、意外なことに香住くんのほうから話の口火を切った。

「余計なことじゃない、です……」
「ん?」
「さっきの、あれ……」
「……——ああ! 私が謝ったこと?」

 香住くんはこくりと一つ頷いた。

「そっか……! それならよかった、です」

 握りしめるものがバッグのストラップからペットボトルに変わったものの、目を見て話せるようになるにはまだ時間がかかりそう。
 それでも私の行動は間違ってなかったと言葉にしてくれるところに、香住くんの人柄が表れている気がする。
 やっぱりまあちは最初から彼が心優しい性格の持ち主だと嗅ぎ取っていたんだ。香住くんから感じたもの言いたげな空気を見過ごさなくてよかった。

「でも……どうしてですか?」
「ん?」
「どうして、声を……」
「ああ、うん。なんとなくね、なんとなーくだけど……、あの二人といる香住くんが苦しそうに見えて」
「そっ……」
「で、勢いそのままにいっちゃった感じかな」
「…………」

 しまった。「苦しそう」なんて、もっとオブラートに包んで伝えるべきだった。
 薄っすらにじんだ冷や汗が、香住くんが黙り込んだことによって尋常ではない量になる。

「……く……んですか……」

 ようやく口を開いてくれた彼の言葉のほとんどは、入口前の道路を通過したトラックの音にかき消されてしまった。
 「ごめん、トラックでよく聞こえなかった」重心を香住くん側に少しだけ傾けて耳をそばだてる。
 
「き……もち悪く、ないんですか……。ぼくのこと……」
「え……っと、なんで?」
「見た目とか、仕草とか……、あと、中身……とか……」

 香住くんがぎゅっと身を竦めた。
 それによって私が無意識に彼の全身をじっと見ていたことに気がついて、「ごめん!! 今のはダメだね……!」すかさず謝る。
 仕切り直すつもりで居住まいを正してから私は断言した。

「まず、見た目とか仕草を気持ち悪いと思ったことはないよ」

 日中の陽気に温められた風が背後にある木々をそっとくすぐった。
 目の前に広がる砂地の広場にはまだまだ人が残っていて、母親同士で集まっていたり、数人の男の子が地面に描いた陣地に沿って走り回ったりしている。

「中身は、正直まだよくわからない」
「…………」
「今の私が知ってるのは、まあちをかわいがってくれる香住くんと仕事熱心な香住くん。あと、『余計なことじゃない』ってちゃんと伝えてくれる香住くん。あ、仕事熱心なのは院長と佐保子さんから聞いたんだ。口数は多くないけど接客は丁寧だし、動物に対する愛情がすごく深いって」

 奥にある複合遊具ではさまざまな子が入り乱れるように遊んでいるから、外から見守る大人がどの子の親なのかも、誰と誰が友達なのかも遠目ではわからない。

「だから、もっと知ってからかな。香住くんがどんな人なのか判断するのは」
「でも、知ったら…………」
「?」
「知ったら、絶対気持ち悪いって思うから……」
「そりゃあ、思わない保証なんてないけど……」

 これまで出会ったたくさんの人たちの顔が過る。
 そのいずれも出会えてよかったと心の底から思える人たちのものだ。

「でも、私を私より評価してくれる人ってたくさんいるから——……」

 自分でも気付いていない私の魅力を、言葉で、行動で教えてくれた人たち。

「そっちに賭けたい」
「そ、んなの……」

 香住くんの両手の中でペットボトルがミシッミシッと音を立てた。

「そんなの綺麗事です……っ! 仲良いフリして、理解あるフリして、本当はみんな…………っ」
「香住くん……」

 ハッとした香住くんは先の発言を取り消すように首を横に振ると、「そもそもぼくには評価できるところありませんから……」と力なく続けた。
 まとめきれなかった横の髪が、彼の抱える空虚感を代弁するようにだらりと揺れる。

「そうだよね」
「……へ?」

 肯定されると思っていなかったのか、香住くんから気の抜けた声が上がった。

「“仲良いフリ”も“理解あるフリ”もどこにでもある」

 口に出しながら、その言葉はブーメランのごとく私の心をも抉る。
 謝り合ったものの、落着とは到底言い難いショッピングモールでの出来事。変わらず一緒に過ごしながら、私と心春の間に流れる空気はすっかり変わってしまった。
 お互いがどこか一歩引いているような、それこそ常に行動の最適解を探しているような状態が続いている。
 一緒にいることを諦めたいわけでも、放棄したいわけでもない。それはきっと心春も同じだと思う。だけど、私が気持ちに名前を付けられないせいで、元に戻るきっかけすらも失ってしまった。

「あの……」

 一向に話し出さない私を案じて、香住くんがおずおずと声をかけてきた。

「あっ、ごめん!」

 頭を軽く左右に振って切り替える。

「……えっと、私もね、『そんなことない』って言えるほど、人との繋がりに理想ばかりを抱いてるわけじゃないんだ」

 たくさんの出会いの中には、上手くいかなかった関係だって当然あった。

「でも、『みんな』ではないと思う。少なくとも、私は『みんな』じゃなかった。Xジェンダーを個性として受け止めて、ありのままの私と一緒にいてくれる子はちゃんといたから」
「えっ?」
「ん?」
「Xジェンダー……なんですか……?」

 香住くんが目を瞠った。
 その濃褐色の瞳に初めて私の姿がくっきりと映る。どちらかと言えば凛々しい印象の目元からは、これまでずっと浮かんでいた不安や怯えが薄らいでいるのが見て取れた。

「うん、そうだよ。学校でも公表してる。強いて言えば、無性かな。一応」
「一応?」
「本当は“性別の感覚がない”っていうより、“『性別の感覚がある』っていう感覚がわからない”のほうが正しいんだよね」
「なるほど……」
「まあ、詳しく掘り下げるほどのことでもないから、わかりやすく『性別の感覚がない』って言ってるんだけど」
「…………」
「香住くん?」

 考えを巡らせるように、少しの間その眼差しが落とされた。

「こんなこと、訊いていいのかわからないんですけど……」
「うん、どうぞ?」
「『そんなことない』って言えないっていうのも、性別(それ)が原因……ですか……?」
「あー……うん、そうだね」