季節のはざまに虹を架ける

「えー、かわいい! なにこの寝方!」

 出してから気付いた大声に慌てて口を押さえ、そろりと腹部を確認してから、スマホの画面に視線を戻してハートマークをタップした。
 夕食やお風呂、宿題などを一通り終わらせてから、ようやく迎える至福のひととき。
 開放的な体勢でベットに寝転びながら、あおいは今SNSに上がっている余所さまのペットの動画を堪能させてもらっている。
 ほどよい硬さのマットレスに全身を委ねる安らぎと、そんなあおいのお腹を枕にして健やかに眠るまあちの愛おしさ。世界中の幸福をすべて詰め込んだようなこの瞬間はなにものにも代えがたい。
 しかも、今日は朝凪くんとほんの少し打ち解けることができた。
 朝凪くんが心の奥底に抱えているものは計り知れないけど、それでも一歩ずつ近づいていけたらいいと思う。

「あ。……トイレ行っとけばよかった」

 画面をスクロールする指は止めず、ほとんど口も動かさずに呟いた。
 この体勢になってからずいぶん経つとはいえ、天使の寝顔がこの体に乗っている以上、トイレだって限界を迎えるまでは行けやしない。

「寝る前には、トイレ行かせてね」

 そっと頭を撫でながら小声で話しかけたら、うーんっとまあちが小さく伸びをして、再び平和な寝顔を見せてくれる。これは本当に寝る前まで動けなさそうだ。
 今まで見ていたアプリを閉じ、わずかに指を彷徨わせてからまた別のアプリを開く。「手ake(テイク)」というこのアプリは、文章が投稿できるプラットフォームだ。
 ジャンルや形式は自由、さらには画像も投稿できて、「Take a note——自らの手で書き留める」という名前の由来の通り、たくさんの人が日記やエッセイなど、好きなことをのびのびと綴っている。
 そこで唯一フォローしている、ある人のページ。
 「HARU」と名乗るその人は明言はしていないものの、文面からして体は男性、心は女性のトランスジェンダーであることが推測できた。

 ずっと憧れていたお店の前まで行った
 結局、中には入れなかった
 お店の前で尻込みしてたら店員に怪しまれちゃって
 慌てて近くの雑貨屋さんに逃げ込んだ
 不審者だと思われて通報されなくてよかった
 今度はもっと人の多い時間に行かないと目立つな
 でも、SNSでずっと見てたイエローのワンピースが店頭に飾られてた
 こっそり近づいて間近で見たら本当にかわいくて
 鮮やかな色合いとかフリルの軽やかさとか全部理想だった
 いつか着てみたい
 わたしが着ても違和感のない世界で
 堂々と街を歩いてみたい

「お店まで行けたんだ……!」

 今日の昼間に更新されていた最新の投稿に心の中で盛大な拍手を送る。
 何様だと言われるかもしれないけど、初めて投稿を目にした二年前と比べるとずいぶん前向きな内容が増えた。
 当時は後ろ向きな感情が文面からにじみ出ていて、溜まりに溜まった心の澱を吐き出せる唯一の場所という印象だったから、公開設定にされてはいるものの、他人の心を勝手に覗いている感が拭えなくて読んでいいのかためらうほどだった。
 ありのままの自分でいたい。だけど、自分は体と心が繋がらずに生まれてきた欠陥品で、そのせいで周りに迷惑をかけてしまうことがなによりもつらい。
 息苦しさを嘆きながら、それでも自分を責めることを止められない葛藤が痛々しいほど鮮明に書き綴られていて、たまらずコメントを打っては冷静になって消してを繰り返した。結局、コメントはまだ一度もできていない。
 HARUさんの投稿を読んでいて、一つ気付かされたことがある。それはスラックスとスカートで迷うことができるのは体が女性だからということ。
 いくら校則がスカートの選択肢を全員に与えていたとしても、実際に身に付けられるかどうかはまた別の問題なのだ。
 スカートから覗く脚が男性の骨格であることによって、自分の着こなしに納得できず手に取ることを諦めてしまう人がいる。通学途中に出くわした大人に二度見されたり近所の人の反応がよくなかったりして、スカートを楽しめない人もいる。
 スカートを女性のものとして穿いていないあおいと、女性のものだからこそスカートを穿きたいHARUさん。同じ性的マイノリティに分類されていても悩みは全然ちがっていて、結局分類だけで人を把握することはできないのだと教えられた気がした。
 だからこそ、最近の投稿はとても明るい。
 バイト先の人や常連さんと上手く話せないからと、話術向上のために買った本の写真を載せていた。
 以前は家とバイト先の往復でやっとだったけど、最新の投稿然り、このごろは近くのモールに出向く気力が湧いてきたと綴られていたのが半年ほど前のことだ。
 身バレ防止のため年齢やバイト先などの詳細は伏せられているから、どこまでが事実なのかはわからない。それでもいつも自分を諦めないHARUさんに、あおいはずっと励まされてきた。

 ——ブブブッ……ブブブッ……
 
「うおぉ……!」

 HARUさんのページに出会ったころを思い出したせいか、懐かしくなって過去の投稿を遡っていると、突然画面が通話アプリの受信表示に切り替わった。
 発信者の名前は涼介になっている。
 もう何度も見ている画面だというのに、トクトクと踊るあおいの心臓は正直だ。

「はーい」
『元気ー?』
「え? 生存確認?」
『ふっ、まあそんなとこ。最近、ちゃんと会えてないだろ』
 
 涼介の部活は水曜日が固定の休みなので、その日に寄り道して帰ることが多い。
 だけど、近ごろは大会前ということもあってそれどころではない。水曜日も自主練に充てたり、週末は練習試合で遠征していたりと、なにかと慌ただしくしている涼介にはとりあえず休んでほしいからだ。
 その代わりと言ってはなんだけど、受験生さながらに隙間時間を活用するようになった。
 お弁当を一緒に食べる、部活のあとに十五分だけ会う……。いろいろと工夫を凝らして一緒に過ごす時間を捻出している中、格段に増えたのが今のような何気ない電話。
 確かに涼介の都合のいいときに好きに掛けていいとは言ったけど、誇張なしに週の半分以上は声を聞いているから驚きだ。
 いや、電話だけじゃない。メッセージの返信頻度や不審者の件だって。どれだけ忙しくても決して人を蔑ろにしない涼介を、私は出会ったころから変わらず尊敬している。
 涼介とは一年生の四月にあった新入生歓迎遠足をきっかけに仲良くなった。
 同じクラスで同じ班。学校近くの山でハイキングをして、その先にある研修施設で一泊するだけの簡単な行事だったけど、ほぼ人見知りで構成されていたうちの班を持ち前の社交性で上手くまとめてくれた。
 あおいは人見知りするほうではないとはいえ、活動に消極的な班員を鼓舞できるほどの統率力はない。その点、涼介にはとても助けられた。
 ハイキングの最中や研修施設で行われた飯ごう炊さんでも、積極的に班員に話しかけている姿が印象的だった。最初はお互いに様子を伺っていた班員も一日目が終わるころには完全に打ち解けていて、二日目の解散時には遠足お疲れ様会を約束したほど。そのお疲れ様会だって、涼介が主体となって企画してくれた。
 そんな涼介からSNSを通して連絡が来たときは驚いたけど、これまでの彼の姿を見て好印象を抱かない理由はなかった。そうしてしばらくやり取りを続けて何度か遊びに行ったあと、涼介の告白を受けて付き合うことになったのだ。
 あれから約九ヶ月。
 涼介はずっと、本当にずっと、あおいのことを大切にしてくれている。
 言葉で、行動で、できる限りを尽くして想ってくれているのが伝わってくる。
 それは、あおいだって負けていない。

「あおいは涼介のこと、サッカー部のSNSで結構見てるけどね。昨日も踊らされてたでしょ? あれ、ほんと爆笑した」
『それは見なくていいから。恥ずかしい』
「そうやって恥ずかしがるから、余計に駆り出されるんだって」
『葵だって、佐寄のアカウントに出てただろ。謎のポーズで後ろ通過してるやつ』
「えー、そんなのあった……あったね!」

 そうして三十分ほどは盛り上がっただろうか。

『なあ、日曜日空いてる?』
「日曜日……は、心春とモール行く約束してる。涼介は午後から練習試合だよね?」
『よく憶えてるな』
「この前の電話で向こう二週間の予定、教えてくれたでしょ」
『そうだっけ』
「そうだが。それで、日曜日がどうしたの?」
『いや、昼前にちょっと会えないかって思っただけ。予定あるならいいよ』
「会おうよ! モール行く前に涼介の家寄ればいけるんじゃない? 全くの反対方向ってわけでもないし」

 わずかな時間のために申し訳ないと渋る涼介を、これぐらいさせてほしいと押し切るかたちで決定した日曜日の予定。
 待ち合わせ時間と場所を決めて、通話は終了となった。
 きっとものすごく眠かったのだろう。最後のほうの涼介はほとんど寝言と会話しているようなものだった。

「涼介と会う……っと」

 カレンダーアプリに予定を入れて、早速行き方を調べてみる。ショッピングモールに行くために乗り換える駅の一つ手前で降りればいいだけなので、本当に大した手間じゃない。
 久しぶりに涼介に会える。
 はっきりとした胸の高鳴りが、自然とあおいの指を思い出の詰まった写真アプリまで運んだ。
 最後に遠出をしたのは春休みに行ったお花見。
 桜は満開、天気は快晴のベストコンディションの中、若干微妙な画角に収まる満面の笑みを浮かべたあおいたち。自撮りが苦手なのはお互い様なので、私たちのツーショットはどちらがスマホを構えても、たいてい写したいものをきちんと収められない。このときは桜がほとんど私たちで隠れてしまっている。

「味があるね、味」
「だな。いい写真」

 写真を確認するときの常套句である。
 スライドすれば、あおいの作ったサンドウィッチを美味しそうに食べてくれる涼介の動画が続いていた。
 頭上に広がる桜の世界を仰ぐ涼介、垂れ下がる桜の枝に囲まれた涼介、散った桜の花を拾い上げる涼介。どの写真の涼介も盛夏を思わせる眩しい笑顔を浮かべている。
 付き合い始めてからというもの、あおいの写真アプリはまあち以外ほとんど涼介で埋め尽くされていた。

「……大丈夫。大丈夫……」

 起き上がったあおいは、いつの間にかお腹を離れて足元で転がっていたまあちを撫でながらそう呟いた。