「だけど、さすがだね。しっかり立ち直ってる。それもお兄さんのおかげ?」
「ああ……うん。そうだね」
「どんな風に支えてくれたの?」
「もう、滅茶苦茶だったよ。『家事当番代わるから犬と遊んでこい』って家追い出されたり、朝私を叩き起こして逆方向の中学まで送り届けてから自分の高校行ったり。高三で受験生なのに毎日私の心配してくれた。『一週間がんばったご褒美に好きな漫画七冊買ってやる』って、本屋さんに引っ張って行ってくれたこともあったな」
「なんか、勢いがすごいね」
「ほんとだよ。毎日なにかしら、もう鬱陶しいぐらい接触してくるから立ち止まってる暇なくて。……でも、それが逆に進んだままでいられたんだと思う。一度止まっちゃったら、きっともう歩けなくなってたから」
仲良くなったころの彼女は『葵は葵だよ』と言ってくれていた。保健室に行く私を笑顔で見送り、合流するときも『葵、こっちこっち!』と手を振って迎えてくれたのに。
いつからだろう。その笑顔が次第に貼り付けたみたいになったのは。合流しても反応がなくなったのは。呼び方が『鳴上さん』に変わっていたのは。
小さな違和感が実は大きな綻びの一部だと気付いたころには、もう手遅れだった。
「おかげでやっと反省しなきゃって気持ちになれた」
「粘ったんだ」
「恥ずかしながら。家族には私にも非があるってずっと言われてたんだけどね。特にお兄ちゃんに正論で殴られたときは、ぐうの音も出なくて……物理的に殴り返しちゃった」
己のとんだ暴挙に今さらながら身の置き所がなくて、頬を人差し指で掻きながら目を逸らして白状した。
「殴らないでね」
「は……?」
視線を戻し、まもなくその言葉の意味がわかった私はすかさずフォローを入れる。
「いやいやいやっ!? お兄ちゃん以外にはやらないよっ?!?!」
「お兄さんも殴っちゃダメだよ」
「そっ……れはそうだけど! そもそも、もう殴ってないから! それに当時のお兄ちゃん筋トレにハマってて、中二の拳なんて全然効いてなかったよ?! 私も成長して落ち着いたし! ね、信じてっ!!」
必死に訴える姿がよほど滑稽だったのか、とうとう朝凪くんはお腹を抱えて笑い声を上げた。
なんで自らの凶暴性を暴露することになってしまったんだ。笑い続ける朝凪くんの傍らで私は頭を抱える。
「はー、笑った……」
「楽しそうでなによりです」
「ふっ、質問よろしいですか」
「なんでしょう」
「“お兄さんの正論”ってなんだったの?」
「ああ。『性別は大切にするものであって、盾にするものじゃない』だったかな」
「盾?」
頷きながら、頭の中でとある箱の蓋をゆっくりと開ける。
生涯忘れることのない、忘れてはいけない、どれだけ新しい情報が入ろうと決して消えることのない特別な場所に置いてある記憶の箱。
「あのときの私のこと。Xジェンダーである自分を特別視して、周りを顧みずに好き勝手振舞ってたから。ネットで拾った都合のいい言葉だけを信じて、『社会が男女でできてるのが悪い』なんて思い上がってた。今思うと本当に恥ずかしいけど」
「想像できないね。今の鳴上さんからは」
「本当? じゃあ反省した甲斐あったのかな」
窓から吹き込んだ心地よい風に誘われて、組んだ手をグイッと頭上に伸ばした。
いつの間にか再開していた合唱部の歌声も今日はずっと明るくて、まるで少しずつ近づいている私たちの関係を祝福してくれているんじゃないかと都合よく捉えてしまいたくなる。
「実際、社会勉強になったなって自分でも思ってるんだよね。悩みの種類は性別だけじゃないって痛感したし、関わる人が多くなればなるほど、通したい意見も聞かなきゃいけない主張も増えるんだって知ったから。あの子と……あと、まあお兄ちゃんのおかげだよ」
「すごいね。相手のこともそんな風に受け止められるなんて」
「あー……美談で終わらせたくないから、白状するけど——……」
箱の中にうずくまる、あどけなさを強く残した顔がこちらを仰いだ。鋭い視線が数年後の自分とも知らず、容赦なく私を射抜く。
「お兄ちゃんに咎められるまでの私は醜い感情でいっぱいだった。直談判されるまで直接不満を言われたことはなかったから、裏切られた気持ちが強くて……。自分は被害者だって信じて疑わなかったし、『私の悩みは普通とはちがうんだから』って彼女に寄り添おうとすらしなかった。お兄ちゃんの指摘は、私を一番励ましてくれた人の言葉だったからこそ、効果覿面だったんだと思う」
「そっか……」ただの呟きとも取れる反応を残して、朝凪くんは静かに目を伏せた。
お兄ちゃんの言葉の意味を数日かけてようやく理解するまでの私のように、心の中でさまざまな感情が入り乱れているように見える。
「どう? なにか参考になった?」
「……うん、尊敬するよ。そんな強く手を引くやり方、おれにはできないから」
再審査を断ったときと同じ熱くも冷たくもない、温度のない笑顔。
私に対しても、そして朝凪くん自身に対しても心の扉をそっと閉ざしたような、そんな表情が意味すること。
「優劣の話じゃないよ」
少し前のめりになったから、お尻の下でパイプ椅子が静かな音を立てた。
「え?」
「善し悪しの話でもない。ただ、守り方がちがうだけ」
「なに……」
「朝凪くんがなにを考えてるのかは知らないけど、お兄ちゃんを正解だと思う必要はないから。あれは私だから効いただけ。だって、考えてみてよ? あんな強引なやり方、一歩間違えたらモラハラだよ? それに普段のお兄ちゃんなんて、ただの怠惰な大学生だから! 昨日だって当番のお風呂掃除、問答無用で押し付けられたし! やっぱり朝凪くんの参考資料としては不適切だと思う!」
「……ふっ、ひどい言われよう」
呆気に取られていた朝凪くんの顔に温かみが戻ってきた。
それが表面的なものじゃなく、湯船にゆっくり浸かったときのような内に長くとどまるぬくもりから来ているように見えたのは、ただの私の願望かもしれない。
「感謝してるんじゃなかったの?」
「そ、そりゃあ……まあ、ちょーっとはしてなくもないけど……」
黙りたいのか話したいのか、もにょもにょと口が奇妙な動き方をする。
「……って、今はそんなことどうでもよくて! 朝凪くんの持ち味は静かな優しさだと思うから、お兄ちゃんみたいな勢いで生きてる人とは守り方がちがって当然だよ」
何度空気を変えようとしても決して乗ろうとしなかった朝凪くんは、まるで私なんかよりもずっと大切にこのときの記憶に寄り添ってくれているようだった。
「不適切なんて言い切っちゃったけど、本当に自分に必要なものかどうかはちゃんと考えてほしいな。朝凪くんのやり方が必要な人だって絶対にいるから。てゆーか、私もできれば優しく導いてもらいたいし!」
「……ふっ、なにそれ」
朝凪くんの表情がもう一段階和らいだ。目や口を自然に綻ばせた、これまでで一番柔らかい笑みだ。すっかり肩の力が抜けた姿からは、もう以前のような孤高な雰囲気は感じられない。
さらに言えば、友達の距離を許されたような表情に全力で自惚れたくなる。これまでもいい笑顔は見せてくれていたけど、これまでよりもずっと心が近い。それが私の勘違いではないのだと肯定してもらいたい。
諦めなくてよかった。
こうやってお互いに小さな変化を繰り返して、一歩ずつ距離を縮めていくことでしか得られないものは絶対にある。私はその時間が好きで、なによりも楽しい。
——楽しさと言えば。はたと思い出した私は声をスキップさせて言った。
「そういえば、朝凪くんて実は部活楽しんでたんだね」
「突然なんの話?」
「廃部になっても部屋使いたいって言い出したの、朝凪くんだって聞いたよ?」
「単に放課後暇だったからだよ。外だとお金かかるし、時間潰すのにちょうどいいってだけで」
「ふーん」
「ああ、『鳴上さんが誘ってくれたから』とか言ったほうがよかった?」
「そんな義理堅い人なの?」
「どう思う?」
「知りませんけど」
「へえ、友達になりたいって言ってくれたのに、そんなこと言うんだ?」
「お時間ですので、とっととお帰りくださーい」
いつの間にか時刻は午後四時四十五分。私はにこやかに手のひらで出口を指し示した。
「ああ……うん。そうだね」
「どんな風に支えてくれたの?」
「もう、滅茶苦茶だったよ。『家事当番代わるから犬と遊んでこい』って家追い出されたり、朝私を叩き起こして逆方向の中学まで送り届けてから自分の高校行ったり。高三で受験生なのに毎日私の心配してくれた。『一週間がんばったご褒美に好きな漫画七冊買ってやる』って、本屋さんに引っ張って行ってくれたこともあったな」
「なんか、勢いがすごいね」
「ほんとだよ。毎日なにかしら、もう鬱陶しいぐらい接触してくるから立ち止まってる暇なくて。……でも、それが逆に進んだままでいられたんだと思う。一度止まっちゃったら、きっともう歩けなくなってたから」
仲良くなったころの彼女は『葵は葵だよ』と言ってくれていた。保健室に行く私を笑顔で見送り、合流するときも『葵、こっちこっち!』と手を振って迎えてくれたのに。
いつからだろう。その笑顔が次第に貼り付けたみたいになったのは。合流しても反応がなくなったのは。呼び方が『鳴上さん』に変わっていたのは。
小さな違和感が実は大きな綻びの一部だと気付いたころには、もう手遅れだった。
「おかげでやっと反省しなきゃって気持ちになれた」
「粘ったんだ」
「恥ずかしながら。家族には私にも非があるってずっと言われてたんだけどね。特にお兄ちゃんに正論で殴られたときは、ぐうの音も出なくて……物理的に殴り返しちゃった」
己のとんだ暴挙に今さらながら身の置き所がなくて、頬を人差し指で掻きながら目を逸らして白状した。
「殴らないでね」
「は……?」
視線を戻し、まもなくその言葉の意味がわかった私はすかさずフォローを入れる。
「いやいやいやっ!? お兄ちゃん以外にはやらないよっ?!?!」
「お兄さんも殴っちゃダメだよ」
「そっ……れはそうだけど! そもそも、もう殴ってないから! それに当時のお兄ちゃん筋トレにハマってて、中二の拳なんて全然効いてなかったよ?! 私も成長して落ち着いたし! ね、信じてっ!!」
必死に訴える姿がよほど滑稽だったのか、とうとう朝凪くんはお腹を抱えて笑い声を上げた。
なんで自らの凶暴性を暴露することになってしまったんだ。笑い続ける朝凪くんの傍らで私は頭を抱える。
「はー、笑った……」
「楽しそうでなによりです」
「ふっ、質問よろしいですか」
「なんでしょう」
「“お兄さんの正論”ってなんだったの?」
「ああ。『性別は大切にするものであって、盾にするものじゃない』だったかな」
「盾?」
頷きながら、頭の中でとある箱の蓋をゆっくりと開ける。
生涯忘れることのない、忘れてはいけない、どれだけ新しい情報が入ろうと決して消えることのない特別な場所に置いてある記憶の箱。
「あのときの私のこと。Xジェンダーである自分を特別視して、周りを顧みずに好き勝手振舞ってたから。ネットで拾った都合のいい言葉だけを信じて、『社会が男女でできてるのが悪い』なんて思い上がってた。今思うと本当に恥ずかしいけど」
「想像できないね。今の鳴上さんからは」
「本当? じゃあ反省した甲斐あったのかな」
窓から吹き込んだ心地よい風に誘われて、組んだ手をグイッと頭上に伸ばした。
いつの間にか再開していた合唱部の歌声も今日はずっと明るくて、まるで少しずつ近づいている私たちの関係を祝福してくれているんじゃないかと都合よく捉えてしまいたくなる。
「実際、社会勉強になったなって自分でも思ってるんだよね。悩みの種類は性別だけじゃないって痛感したし、関わる人が多くなればなるほど、通したい意見も聞かなきゃいけない主張も増えるんだって知ったから。あの子と……あと、まあお兄ちゃんのおかげだよ」
「すごいね。相手のこともそんな風に受け止められるなんて」
「あー……美談で終わらせたくないから、白状するけど——……」
箱の中にうずくまる、あどけなさを強く残した顔がこちらを仰いだ。鋭い視線が数年後の自分とも知らず、容赦なく私を射抜く。
「お兄ちゃんに咎められるまでの私は醜い感情でいっぱいだった。直談判されるまで直接不満を言われたことはなかったから、裏切られた気持ちが強くて……。自分は被害者だって信じて疑わなかったし、『私の悩みは普通とはちがうんだから』って彼女に寄り添おうとすらしなかった。お兄ちゃんの指摘は、私を一番励ましてくれた人の言葉だったからこそ、効果覿面だったんだと思う」
「そっか……」ただの呟きとも取れる反応を残して、朝凪くんは静かに目を伏せた。
お兄ちゃんの言葉の意味を数日かけてようやく理解するまでの私のように、心の中でさまざまな感情が入り乱れているように見える。
「どう? なにか参考になった?」
「……うん、尊敬するよ。そんな強く手を引くやり方、おれにはできないから」
再審査を断ったときと同じ熱くも冷たくもない、温度のない笑顔。
私に対しても、そして朝凪くん自身に対しても心の扉をそっと閉ざしたような、そんな表情が意味すること。
「優劣の話じゃないよ」
少し前のめりになったから、お尻の下でパイプ椅子が静かな音を立てた。
「え?」
「善し悪しの話でもない。ただ、守り方がちがうだけ」
「なに……」
「朝凪くんがなにを考えてるのかは知らないけど、お兄ちゃんを正解だと思う必要はないから。あれは私だから効いただけ。だって、考えてみてよ? あんな強引なやり方、一歩間違えたらモラハラだよ? それに普段のお兄ちゃんなんて、ただの怠惰な大学生だから! 昨日だって当番のお風呂掃除、問答無用で押し付けられたし! やっぱり朝凪くんの参考資料としては不適切だと思う!」
「……ふっ、ひどい言われよう」
呆気に取られていた朝凪くんの顔に温かみが戻ってきた。
それが表面的なものじゃなく、湯船にゆっくり浸かったときのような内に長くとどまるぬくもりから来ているように見えたのは、ただの私の願望かもしれない。
「感謝してるんじゃなかったの?」
「そ、そりゃあ……まあ、ちょーっとはしてなくもないけど……」
黙りたいのか話したいのか、もにょもにょと口が奇妙な動き方をする。
「……って、今はそんなことどうでもよくて! 朝凪くんの持ち味は静かな優しさだと思うから、お兄ちゃんみたいな勢いで生きてる人とは守り方がちがって当然だよ」
何度空気を変えようとしても決して乗ろうとしなかった朝凪くんは、まるで私なんかよりもずっと大切にこのときの記憶に寄り添ってくれているようだった。
「不適切なんて言い切っちゃったけど、本当に自分に必要なものかどうかはちゃんと考えてほしいな。朝凪くんのやり方が必要な人だって絶対にいるから。てゆーか、私もできれば優しく導いてもらいたいし!」
「……ふっ、なにそれ」
朝凪くんの表情がもう一段階和らいだ。目や口を自然に綻ばせた、これまでで一番柔らかい笑みだ。すっかり肩の力が抜けた姿からは、もう以前のような孤高な雰囲気は感じられない。
さらに言えば、友達の距離を許されたような表情に全力で自惚れたくなる。これまでもいい笑顔は見せてくれていたけど、これまでよりもずっと心が近い。それが私の勘違いではないのだと肯定してもらいたい。
諦めなくてよかった。
こうやってお互いに小さな変化を繰り返して、一歩ずつ距離を縮めていくことでしか得られないものは絶対にある。私はその時間が好きで、なによりも楽しい。
——楽しさと言えば。はたと思い出した私は声をスキップさせて言った。
「そういえば、朝凪くんて実は部活楽しんでたんだね」
「突然なんの話?」
「廃部になっても部屋使いたいって言い出したの、朝凪くんだって聞いたよ?」
「単に放課後暇だったからだよ。外だとお金かかるし、時間潰すのにちょうどいいってだけで」
「ふーん」
「ああ、『鳴上さんが誘ってくれたから』とか言ったほうがよかった?」
「そんな義理堅い人なの?」
「どう思う?」
「知りませんけど」
「へえ、友達になりたいって言ってくれたのに、そんなこと言うんだ?」
「お時間ですので、とっととお帰りくださーい」
いつの間にか時刻は午後四時四十五分。私はにこやかに手のひらで出口を指し示した。
