帝都に、柔らかな春が訪れた。
鳴神邸の裏手では、かつて志野がその手で命を吹き込んだ『白銀の桜』が、いよいよ見事な満開の時を迎えていた。
穏やかな或る朝。
日差しの差し込む厨房で、温かい汁物を味見しようと匙を口に含んだ志野は、不意に胸の奥から込み上げる妙な吐き気に襲われ、思わず口元を押さえて蹲った。
「姉上!?」
「いかがなさいましたか、志野様!!」
鏡夜が血相を変え、いつの間にか志野の背後に控えていたセンが、目にも留まらぬ速さで木の椀を差し出す。
志野は小さく首を振り、青ざめた顔で荒い息を吐いた。
「大丈夫……です。少し、胸がむかむかして……」
「まさか毒!? 誰だ、姉上の食事に細工をした愚か者は! 今すぐ厨房の者を全員八つ裂きに――」
「鏡夜様、落ち着いてください。その汁物は私が調理し、十分前に毒見も済ませております。一切の異常はありませんでした」
激昂して刀に手をかけようとする鏡夜を、センが無表情かつ淡々とした声で制止する。
「ならば呪いか!? あの忌々しい長老衆の残党が、姉上に呪詛を……っ!」
「鏡夜さん、大きな声……少し頭に響きます……」
「ああっ、申し訳ありません姉上! 私としたことが! ……って、セン、姉上をすぐに寝室へお運びしろ!」
鏡夜の悲痛な怒声が邸内に響き渡る。
異常事態は、鏡夜の式を通じて直ちに懲罰省へと伝達された。
最愛の妻の危機という報せに、長官室の執務机を紫電で真っ二つにへし折った朔夜は、そのまま帝都の空を一直線に駆け抜ける。
出勤したばかりだったはずの長官殿が、表玄関を派手に突き破って帰還した。
「志野ッ! どこが痛い、誰に毒を盛られた!? 帝都中の名医を今すぐ力ずくで連れてこい!!」
かつてないほど激しく狼狽しながら、寝室の戸を吹き飛ばす勢いで朔夜が叫ぶ。
寝台に横たわる志野の傍らには、すでに鳴神家お抱えの老医師が静かに控えていた。
彼は、月に一度の定期健診のために、屋敷を訪れていたのだ。
殺気立つ朔夜を前に、老医師が、やれやれと肩をすくめて微笑む。
「鳴神の御当主様、どうかお鎮まりを。奥方様は病でも、毒でもございませんよ。……ご懐妊です。すでに三ヶ月に入っておりますな。安定期に入るまでは、内緒にと奥様に申し付けられておりまして。いやはや」
「…………は?」
帝都最強の死神の動きが、完全に凍りついた。
紫紺の瞳が限界まで見開かれたまま、錆びた機械のように、寝台で身を起こした志野へと向けられる。
「ご、かい……にん……?」
「……はい」
志野は、信じられないものを見るように固まる朔夜に向けて、愛おしさでいっぱいの、泣き出しそうな笑みを向けた。
そっと身を乗り出すと、行き場をなくして空中で震えている朔夜の大きな掌を両手で包み込み、自分のまだ平らなお腹へとゆっくりと導く。
「朔夜様。……ここです。私の中に、貴方と私の、新しい命が息づいているのです」
志野が嬉し涙を滲ませながらそう告げると、重なった掌越しに、かすかな命の熱が伝わったような気がした。
朔夜は寝台の傍らに崩れ落ちるように膝をついた。
そして、志野のお腹に当てられた自分の手を、まるで触れてはならない神聖な奇跡に触れるかのように、恐る恐る、けれどすがりつくように両手で包み込んだ。
「俺の子、が……? この、呪われた俺の血を引く子が、お前の中に……」
「呪いではありませんと何度も申し上げておりますのに……。この子は、貴方と私を受け継ぐ、鳴神の新しい希望です」
志野のその、あまりにも優しく力強い言葉に。
朔夜は息を呑み、紫紺の瞳を激しく揺らした。
ずっと忌み嫌い、絶望してきた己の血。
破壊しか生まないはずの呪われた業が、愛する人の中で形を変えて息づいている。
途方もない事実が、長年彼の魂を縛り付けていた冷たい軛ごと、すべてを温かく溶かしていく。
限界まで見開かれた瞳の端から、ぽろりと。
大粒の涙が溢れ出し、頬をつうっと銀色の筋となって伝い落ちた。
彼が泣く姿など、右近たちですら見たことがなかった。
地下牢の前で絶望し、心を閉ざしていた孤独な少年が今、愛する妻の温もりの中で、生まれて初めて喜びの涙を流したのだ。
「……っ、あ……」
朔夜は志野の腰にすがりつくように顔を埋め、まるでこれまでの張り詰めていた糸が切れたかのように、子供のように肩を震わせた。
彼女の寝間着を握りしめる手は、白く血の気が引くほどに強い力が込められていた。
「……ありがとう、志野。俺を見つけてくれて。俺を、一人にしないでくれて」
「それはこちらの言葉です……」
志野は、自分のお腹にすがりついて泣きじゃくる最強の死神の、その黒髪を慈しむように優しく梳いた。
朔夜の熱い涙が、薄い布越しに志野の肌へと染み込んでいく。
体温すらも、志野にとっては世界で一番愛おしいものだった。
「ありがとうございます、朔夜様。ただの道具として朽ちるはずだった私を……こんなにも愛に溢れた場所へ、連れ出してくださって」
鳴神邸の裏手では、かつて志野がその手で命を吹き込んだ『白銀の桜』が、いよいよ見事な満開の時を迎えていた。
穏やかな或る朝。
日差しの差し込む厨房で、温かい汁物を味見しようと匙を口に含んだ志野は、不意に胸の奥から込み上げる妙な吐き気に襲われ、思わず口元を押さえて蹲った。
「姉上!?」
「いかがなさいましたか、志野様!!」
鏡夜が血相を変え、いつの間にか志野の背後に控えていたセンが、目にも留まらぬ速さで木の椀を差し出す。
志野は小さく首を振り、青ざめた顔で荒い息を吐いた。
「大丈夫……です。少し、胸がむかむかして……」
「まさか毒!? 誰だ、姉上の食事に細工をした愚か者は! 今すぐ厨房の者を全員八つ裂きに――」
「鏡夜様、落ち着いてください。その汁物は私が調理し、十分前に毒見も済ませております。一切の異常はありませんでした」
激昂して刀に手をかけようとする鏡夜を、センが無表情かつ淡々とした声で制止する。
「ならば呪いか!? あの忌々しい長老衆の残党が、姉上に呪詛を……っ!」
「鏡夜さん、大きな声……少し頭に響きます……」
「ああっ、申し訳ありません姉上! 私としたことが! ……って、セン、姉上をすぐに寝室へお運びしろ!」
鏡夜の悲痛な怒声が邸内に響き渡る。
異常事態は、鏡夜の式を通じて直ちに懲罰省へと伝達された。
最愛の妻の危機という報せに、長官室の執務机を紫電で真っ二つにへし折った朔夜は、そのまま帝都の空を一直線に駆け抜ける。
出勤したばかりだったはずの長官殿が、表玄関を派手に突き破って帰還した。
「志野ッ! どこが痛い、誰に毒を盛られた!? 帝都中の名医を今すぐ力ずくで連れてこい!!」
かつてないほど激しく狼狽しながら、寝室の戸を吹き飛ばす勢いで朔夜が叫ぶ。
寝台に横たわる志野の傍らには、すでに鳴神家お抱えの老医師が静かに控えていた。
彼は、月に一度の定期健診のために、屋敷を訪れていたのだ。
殺気立つ朔夜を前に、老医師が、やれやれと肩をすくめて微笑む。
「鳴神の御当主様、どうかお鎮まりを。奥方様は病でも、毒でもございませんよ。……ご懐妊です。すでに三ヶ月に入っておりますな。安定期に入るまでは、内緒にと奥様に申し付けられておりまして。いやはや」
「…………は?」
帝都最強の死神の動きが、完全に凍りついた。
紫紺の瞳が限界まで見開かれたまま、錆びた機械のように、寝台で身を起こした志野へと向けられる。
「ご、かい……にん……?」
「……はい」
志野は、信じられないものを見るように固まる朔夜に向けて、愛おしさでいっぱいの、泣き出しそうな笑みを向けた。
そっと身を乗り出すと、行き場をなくして空中で震えている朔夜の大きな掌を両手で包み込み、自分のまだ平らなお腹へとゆっくりと導く。
「朔夜様。……ここです。私の中に、貴方と私の、新しい命が息づいているのです」
志野が嬉し涙を滲ませながらそう告げると、重なった掌越しに、かすかな命の熱が伝わったような気がした。
朔夜は寝台の傍らに崩れ落ちるように膝をついた。
そして、志野のお腹に当てられた自分の手を、まるで触れてはならない神聖な奇跡に触れるかのように、恐る恐る、けれどすがりつくように両手で包み込んだ。
「俺の子、が……? この、呪われた俺の血を引く子が、お前の中に……」
「呪いではありませんと何度も申し上げておりますのに……。この子は、貴方と私を受け継ぐ、鳴神の新しい希望です」
志野のその、あまりにも優しく力強い言葉に。
朔夜は息を呑み、紫紺の瞳を激しく揺らした。
ずっと忌み嫌い、絶望してきた己の血。
破壊しか生まないはずの呪われた業が、愛する人の中で形を変えて息づいている。
途方もない事実が、長年彼の魂を縛り付けていた冷たい軛ごと、すべてを温かく溶かしていく。
限界まで見開かれた瞳の端から、ぽろりと。
大粒の涙が溢れ出し、頬をつうっと銀色の筋となって伝い落ちた。
彼が泣く姿など、右近たちですら見たことがなかった。
地下牢の前で絶望し、心を閉ざしていた孤独な少年が今、愛する妻の温もりの中で、生まれて初めて喜びの涙を流したのだ。
「……っ、あ……」
朔夜は志野の腰にすがりつくように顔を埋め、まるでこれまでの張り詰めていた糸が切れたかのように、子供のように肩を震わせた。
彼女の寝間着を握りしめる手は、白く血の気が引くほどに強い力が込められていた。
「……ありがとう、志野。俺を見つけてくれて。俺を、一人にしないでくれて」
「それはこちらの言葉です……」
志野は、自分のお腹にすがりついて泣きじゃくる最強の死神の、その黒髪を慈しむように優しく梳いた。
朔夜の熱い涙が、薄い布越しに志野の肌へと染み込んでいく。
体温すらも、志野にとっては世界で一番愛おしいものだった。
「ありがとうございます、朔夜様。ただの道具として朽ちるはずだった私を……こんなにも愛に溢れた場所へ、連れ出してくださって」



