帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 主室へと続く薄暗い廊下は、もはや現世の理から完全に切り離された牢獄と化していた。
 大穴の開いた玄関から、濃密な死の気配とともに悠然と歩みを進めてくるのは朔夜だ。
 その表情には、もはや怒りすら浮かんでいない。
 あるのはただ、眼前の獲物を跡形もなく蹂躙するという、純粋で絶対的な静けさだけだった。
 彼の歩みに呼応するように、廊下の空気が悲鳴を上げる。
 焦げた臭いが鼻をつき、呼吸をするだけで肺が焼ける。

 彼の後方からは、煙と血の匂いを纏った右近と左近が、音もなく姿を現した。
 雅が展開したはずの強固な幻術空間を、文字通り踏破して駆けつけた二人は、退路を完全に塞ぐように抜刀し、氷のような視線を昭人へと突き刺していた。
 そして前方には、当主の圧倒的な力にあてられ、どこか狂信的な笑みを浮かべて立ち塞がる鏡夜の姿があった。

「鼠のように逃げ回るのも終わりだ。水無月昭人」

 朔夜の低く、地鳴りのような声が響く。
 次の瞬間、周囲の大気が限界を迎えたようにバチバチと紫電を帯びて激しく鳴動する。
 廊下の障子が内側から弾け飛び、木々の軋む音が邸宅の断末魔のように響き渡った。

 あまりにも圧倒的な格の違いを見せつけられて、昭人のひび割れた眼鏡の奥に在る瞳は、限界まで見開かれた。
 すでに、己の野心の象徴であった自慢の白蛇の影をすべて焼き払われ、無様に追いつめられているという現実。
 背広は無残に焦げ、火傷を負った皮膚がぴりつく。

「ば、馬鹿な……。帝都の端から、これほどの短時間で……っ! 九尾の幻術はどうした!? あれは……っ!」

「あんな子供騙しの幻影など、鵺の雷撃一つで終わりですよ。……貴方の小賢しく、薄汚い計画もね」

 左近が、靴底で這いつくばる昭人の指先を踏みにじりながら冷たく見下す。
 右近は刀の血振りをしながら「さて、どこの骨から折ってやろうか。志野様を泣かせた分、千回は死んでもらわねえとな」と、残虐な笑みで首を鳴らした。

 帝都最強を謳う異能者。
 そしてその側近たちに完全に囲まれ、昭人の両膝が、屈辱と、それを上回る根源的な恐怖でガクガクと震え始める。
 喉の奥で引き攣った音が鳴り、もはや声すらまともに発することができない。

 朔夜が右手を静かに持ち上げる。
 掌に圧縮された凄まじい紫電が、網膜を焼くほどの眩い光を放ちながら、確実に命を刈り取る『雷槍』へと形を変えていく。
 チリチリと、昭人の髪が静電気で逆立つ。

 朔夜が、その無慈悲な処刑の槍を振り下ろそうとした、刹那。

「――お待ちください、朔夜様!」

 呼吸を弾ませた声と共に駆け込んできた志野が、回廊の奥から姿を現した。

「セン、離れに匿えと言ったはずだぞ!」

 朔夜が慌てて雷槍を収め、志野を庇うようにその前に立ち塞がる。
 しかし、志野は朔夜の背中からそっと前に出ると、地に這いつくばる昭人を見下ろした。

「……お義兄様」

「し、志野……っ! お前からも言ってやれ! 私はお前を迎えに来ただけだと! お前の亡き母のよすがに、せめてお前だけは大切にしようと……っ! ……そう、この恐ろしい場所から救い出しに来ただけなんだ! 頼む志野、私を見殺しにする気か!?」

 昭人が、切羽詰まった縋るような目を向ける。
 かつてなら、志野は義兄が自分に呼び掛けたという事実に怯え、萎縮していただろう。
 だが今の志野は、一切の恐れを見せず、ただ静かに、深い憐れみを込めて彼を見つめていた。

「今まで、私を育ててくださり、ありがとうございました。水無月の家には、感謝しております」

 志野は、深く一礼した。
 それは、家族としての態度ではない。
 完全に他家の者としての、冷たくも礼儀正しい決別の挨拶だった。

「お義兄様。私はもう水無月の消費財ではありません。……私の帰る場所は、鳴神朔夜さまの腕の中。どうか、二度と私の前に姿を見せないでください」

 志野の言葉は、雷の直撃よりも残酷に、昭人の歪んだ自尊心を粉々に打ち砕いた。
 自分よりも下等で、無価値で、永遠に――影の中で怯えているはずだった小娘。
 今は見下ろされ、あまつさえ憐れみで命が潰えるのを、庇われている。

「……あ、ああ……っ」

 昭人の瞳から光が消え失せた。
 手も足も出ず、最も見下していた存在に情けをかけられる。
 これ以上の屈辱は、彼の人生に存在しなかった。

「……志野の慈悲に感謝しろ。そして二度と俺の視界に入るな、失せろ」

 朔夜が氷のように冷たく言い放つ。
 昭人は、もはや言葉を発することすらできず、残されたわずかな影を身に纏い、這うようにして屋敷から逃げ出していった。
 傲慢な面影など微塵もない、無様な敗残兵のそれとして。

 水無月昭人の気配が完全に消え去った回廊で、朔夜は大きなため息をつき、志野の身体を力強く抱き寄せた。

「……お前は本当に、俺の心臓に悪い」

「申し訳ありません、朔夜様。でも、私、きっと私自身の言葉で、お義兄様にきちんとお伝えしたかったのですわ」

 志野が安堵の微笑みを浮かべ、朔夜の広い胸にそっと額を預ける。
 右近と左近が剣を納めて静かに見守り、鏡夜が「さすがは私の姉上だ」と一人感涙に咽び泣き、センがその様子を無表情で報告書に書き留める。

 志野の過去との決別は、鳴神邸に、穏やかな朝を連れてこようとしているように見えた。