帝都の喧騒から遠く離れた鳴神邸は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
屋敷の奥深く、志野が居る部屋へと続く長い廊下。
床に落ちた暗い影が、突如として泥のようにドロドロと沸騰し、一人の男の姿を形作った。
「……呆気ないものだ。最強の鵺も、双子の番犬も、雅様の幻術に釣られて屋敷を空けるとは」
水無月昭人が、銀縁の眼鏡を押し上げながら昏い笑みをこぼす。
彼の足元からは、無数の白蛇の影が這い出し、屋敷の結界の隙間を縫うように索敵を始めていた。
「さあ、迎えに来たよ、可愛いく哀れな我が義妹よ。もうあの恐ろしい長官殿の機嫌を取る必要はない。これからは私の影の中で、永遠に……」
「――鼠のように床を這い回るとは。水無月の次期当主殿は、随分と下賎な趣味をお持ちのようだ」
静寂を切り裂く、氷のように冷たく、理知的な声。
昭人がハッと視線を上げると、主室の襖の前に、一人の男が優雅に立ち塞がっていた。
鳴神鏡夜。
長老衆の会議に同席し、昭人を手引きした内通者だ。
「……おや、鏡夜殿。ご苦労様です。結界の操作、感謝いたしますよ」
昭人は、鏡夜が自分を待ち受けていたのだと勘違いし、余裕の笑みを浮かべて歩み寄った。
「長老衆の計画通り、あの『出来損ない』は私が引き取ります。……ああ、貴方もあの女には煮え湯を飲まされたのでしょう? ご安心を。私の手で、二度と太陽を拝めぬ身体に調教し直して――」
昭人が言葉を言い終えるより早く。
鏡夜の指先から放たれた鋭い青白い雷光が、昭人の足元を這っていた白蛇の影を、一瞬にして黒焦げの灰に変えた。
「……なっ!?」
昭人が驚愕に顔を歪め、後方に大きく飛び退く。
鏡夜は、眼鏡のない涼やかな瞳に、絶対零度の殺意と、それとは対極にある狂信的な熱を宿して昭人をねめつけた。
「気安く呼ぶな、三流の蛇め。……お前のような泥に塗れた輩が、私の気高き『姉上』の御名を口にすることすら、万死に値する」
「……姉上、だと? 貴様、何を狂ったことを……長老衆の計画を裏切るつもりか!? まさか、本当にアレの作る薬とやらに」
昭人が焦りと怒りを露わにし、背後の影から巨大な大蛇の幻影を実体化させようとする。
しかし、鏡夜は微塵も動じなかった。
朔夜の圧倒的な破壊とは違う。
鏡夜の鵺は、知性と精密さに特化した、裁きの雷だ。
「裏切る? ふふ……笑わせないでいただきたい。私は最初から、あの老害共の計画などすべて兄上に上申していたのですよ」
鏡夜が右手を高く掲げると、廊下の空気がビリビリと震え、無数の雷の矢が虚空に顕現した。
流れるように鮮やかな動作に、昭人の影が怯えたように縮み上がる。
「あのしょこらの……救いを知らぬ愚か者どもめ。……私は、鳴神鏡夜。姉上を永遠に守り抜くと誓った、ただの狂信者ですよ」
「狂っている……! 貴様も、朔夜も、あの無能な女に何をされたッ!!」
「無能? まだそんな寝言をほざいているのか。ならば、その眼球を焼き潰して教えてやろう」
鏡夜が冷酷な笑みを深め、雷矢を射ようとした、と同時に、屋敷の玄関側から、家屋の半分が吹き飛んだかのような凄まじい爆発音が轟いた。
廊下にいた鏡夜と昭人の身体が、その尋常ならざる霊圧の余波だけで激しく揺さぶられる。
「……おや。主役の御帰還にしては、随分と派手な足音ですね」
鏡夜がやれやれと肩をすくめる。
大気を焦がす匂いと、有無を言わさぬ絶対的な死の気配。
帰還した「最強の死神」が、愛する妻を狙う愚かな蛇の首を刎ねるため、地獄の釜の蓋を開けようと、片手を掲げた。



