帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 帝都の中心部に位置する豪奢な倶楽部。
 そこは、本来の身分やしがらみを脱ぎ捨てた者たちだけが集う、秘匿された夜の社交場であった。

 分厚いビロードのカーテンで外界から完全に遮断された薄暗い特別室に、鷹司雅の苛立ちを孕んだヒールの音だけが響いていた。

「……腹立たしい。あの埃臭い老いぼれ共は、自分たちの手を汚さずに、この私を顎で使おうというの? 父様まで口車に乗せられて」

 雅は、手にしていた舶来のグラスを、大理石のテーブルへと乱暴に叩きつけた。硬質な音が部屋に弾ける。
 彼女の背後には、主の怒りに呼応するように九つの妖狐の尾の幻影が、ゆらゆらと不気味に揺らめいていた。

 先の門仲町での一件。
 あの屈辱的な敗北の後、雅と昭人が禁衛府からの追及を免れたのは、他でもない鳴神総本家の長老衆が特例として手を回し、揉み消したからだ。
 だがしかしそれは、決して二人を庇ったわけではない。
 今回のように、朔夜の権力を削ぐための手駒として利用価値があったからに過ぎない。

「そうお怒りにならないでください、雅様。結果として、我々の利害は完全に一致しているではありませんか」

 部屋の隅、洋灯の光が届かない濃い影の中から、水無月昭人が音もなく歩み出た。
 完璧に着こなした三つ揃えの背広。
 銀縁の眼鏡の奥で、蛇のように冷たい瞳が、怒れる九尾の姫君を面白そうに観察している。

「あの老害共の目的は、志野を長老衆の管理下に置き『鳴神の共有財産』として幽閉すること。……ですが、我々にとってそんなことはどうでもいい。肝心なのは、忌々しい長官殿の懐から、あの『出来損ない』を引きずり出すという一点です」

 昭人が指を鳴らすと、足元の影から這い出た白蛇の幻影が、雅の足元へと擦り寄り、媚びるように鎌首をもたげた。
 雅はそれを厭そうに扇子で払いのけ、ふん、と鼻を鳴らす。

「……ええ、そうね。あの小娘が朔夜の隣で幸せそうに笑っているなど、私への冒涜以外の何物でもないわ。彼の傍から引きずり剥がし、二度と私の視界に入らぬよう、無惨に踏みにじってやらなければ気が済まない」

 雅の瞳に、昏い復讐の炎が灯る。

 彼女は長老衆の依頼通り、自らの絶大な幻術を用いて、帝都の四方に「凶喰」の偽装暴走を引き起こす手はずになっている。
 最強の鵺であり、懲罰省下禁衛府軍の長も兼任している朔夜は、それが罠であろうと、帝都の民を脅かす凶喰の幻影を放置することはできない。
 必ず右近と左近を引き連れて、屋敷を空けることになる。

「私の幻術は、あの男を半日は帝都の端に釘付けにできるわ。……その間に、貴方が影を伝って屋敷に入り、あの小娘を連れ出すのね?」

「ええ、私は志野の義兄ですからね。異質なるものの審問とやらに連れ出される前に、同行を求めましょう。鳴神の結界外――責任を持って、あの女を屋敷の外へ引きずり出します」

 昭人は、恭しく頭を下げる。
 雅は「せいぜいしくじらないことね」と吐き捨て、身支度を整えるために部屋を後にした。

 特別室に昭人が一人残された瞬間、彼が被っていた「従順な協力者」の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。

「……ふ、ふふふ……ははははっ!」

 昭人は眼鏡を押し上げ、腹の底から湧き上がるような、おぞましい歓喜の笑い声を漏らした。
 周囲の影という影が、彼の狂気に当てられてボコボコと沸騰し、無数の白蛇となって部屋中を這い回る。

「雅様も、長老の老いぼれ共も、本当に愚かで愛らしい。……誰が、あの獲物を貴様らなどに渡すものか」

 昭人は、懐から一枚の小さな写真を取り出した。
 それは、以前の夜会で、朔夜の隣に立ち、俯いていた志野を、隠し撮りさせたものだった。

 水無月の家では、父に怯え、自分に怯え、無価値な消費財としてただ、留め置かれていただけの哀れな義妹は。
 今や、帝都最強の男の庇護を受け、見たこともないような女の顔をしている。
 その事実が、昭人の内にある所有欲という名の狂気を、限界まで膨張させていた。

「審問からの追手から逃げた志野は、不運にも凶喰の暴走に巻き込まれ、死んだ……。そう偽装すれば、彼等も諦めざるを得ない。鳴神朔夜も、永遠に失われた幻影を追って絶望の底に沈むだろう」

 写真の志野の頬を、昭人の病的なまでに白い指先が、ねっとりとなぞる。

「志野。……お前が纏うべき色は、朔夜の紫ではない。私の影の、圧倒的な暗闇だ。二度と太陽の光など見えぬ地下深くで、手足をもぎ、私の寵愛だけを啜って生きる、哀れな人形にしてやるからな……待っていろ」

 長老衆を騙し、雅を囮として使い捨てる、極上の裏切り。
 志野を永遠に己の鳥籠に閉じ込めるため、水無月昭人は、帝都を業火に包む最悪の遊戯を開始した。