帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 鳴神総本家の奥の院。
 陽の光さえ届かぬ地下深くに設けられた秘密の評議室には、沈み込むような重苦しい白檀の香が立ち込めていた。

「――センからの報告書、皆も目を通したな」

 円卓の上座に座る、顔の半分を深い皺に覆われた大長老が、枯れ木のような指で一枚の書状を叩いた。
 周囲を取り囲む長老衆の顔には、一様に恐怖と、だがしかしそれを上回る醜悪な強欲さが張り付いている。

「あの水無月の娘……ただの無能かと思いきや、得体の知れぬ薬物を混入した異国の菓子を用い、鏡夜の自我を容易く奪い去るとは」

「あれほど純血を重んじていた鏡夜が、今や腑抜けのように『姉上』と譫言を繰り返すばかりだというではないか」

「朔夜が骨抜きにされている理由も合点がいく。あれは、対象の精神を破壊し、意のままに操る危険な呪術に違いない」

 長老衆が忌々しげに吐き捨てる言葉を、円卓の末席で片膝を突いている男――鳴神鏡夜は、感情を完全に殺した無表情で聞き流していた。

(自我を奪われた、だと? 精神を破壊された? センの報告書どうなってるんだ?)

 伏せられた鏡夜の整った瞳の奥で、烈火のごとき怒りと、それとは真逆の極彩色の悦びが渦巻いていた。

(違うな。私は姉上の神々しさに魂を浄化され、絶対的な真理へと至っただけだ。……あの『銀桜のしょこら』の甘美なる余韻、魂を包み込む慈愛。貴様らのような濁りきった老害には、一生理解できまいがな……おお、思い出すだけで、また姉上の御足元に跪きたくなってきた……っ。ああ、姉上っ)

 鏡夜は、己の内側から込み上げてくる、姉上への激重な心酔と、うっとりと緩みそうになる口元を必死に抑え込むため、ギリッと強く唇を噛み締めた。
 その、血が滲むほどの痛みに耐える鏡夜の姿を、長老衆は「異能モドキに洗脳された屈辱に震えている」と見事に勘違いした。

「嘆かわしいことだ、鏡夜よ。だが、案ずるな。お前のその屈辱は、我らが必ず晴らしてやろう」

「ええ。あの娘が本当に、鵺の『飢え』を抑え込むほどの霊薬を生み出せるのなら……一個人の妻として朔夜に独占させておくのは、一族の損失というもの。我ら長老衆の管理下に置き『鳴神の共有財産』として地下に幽閉し、永遠に薬を作らせるべきだ」

 大義名分を振りかざしながらも、その本質は「自分たちも呪いの飢えから逃れたい」という醜い生存本能だ。

(あの気高き姉上を地下に幽閉だと? 貴様ら、私が消し炭にしてやろうか)

 鏡夜は、内心で凄まじい殺意を滾らせながらも、表面上は恭しく頭を下げた。

「……大長老様。しかし、あの屋敷には朔夜兄上と、番犬の右近左近がおります。強硬手段に出れば、帝都を二分する内乱になりかねません」

 鏡夜があえて懸念を口にすると、大長老はひどく邪悪に嗤った。

「そのための手駒なら、既に用意してある。……鷹司の姫と、水無月の小童だ」

 その名が出た瞬間、鏡夜の涼やかな瞳が微かに細められた。
 先の門仲町の事件で、鏡夜とともに志野を罠に嵌めようとした雅と昭人。
 長老衆が裏から手を回して出牢させたあの二人が、再び動き出そうとしている。

「例えばじゃ、鷹司の姫が、持ち前の九尾の幻術で帝都の各地に『凶喰の偽装暴走』を引き起こす。懲罰省の長官たる朔夜と、禁衛府の双子は、帝都の治安を守るために必ず屋敷を空けねばならなくなる。その隙に――」

「水無月の小童が、影を伝って屋敷に潜入し、娘を『異質』の名目で連れ出す、という算段ですか」

 鏡夜が先を続けると、長老衆は満足げに頷いた。

「いかにも。生家の者が説得すれば、娘も大人しく従うだろう。……鏡夜、お前には内部の手引きを任せたい。あの忌々しい悪女への復讐、お前の手で直々に果たすが良い」

 長老衆の言葉に、鏡夜はゆっくりと顔を上げた。
 その瞳には、かつての冷徹な次期当主候補としての、ゾクゾクするような昏い光が宿っていた。

「……承知いたしました。この屈辱、必ずや私の手で……『完璧な形』で、終わらせてご覧に入れましょう」

 深々と一礼し、鏡夜は評議室を後にした。

 冷たい地下回廊に出た瞬間。
 鏡夜の顔から冷徹な仮面が剥がれ落ち、狂気じみた、けれどこの上なく愉悦に満ちた笑みがこぼれ落ちた。

「……愚か者どもめ。姉上の美しき御庭を泥足で荒らそうとは、万死に値する」

 雅も、昭人も、そして長老衆も。
 彼らは、自分たちが盤面を操っているつもりでいる。
 だが、この『最強の二重間者』によって、舞台は大荒れになるだろう。

「さて……まずは右近と左近に、この三文芝居の台本を流してやらねばな。兄上がどう怒り狂うか、見ものだ」

 鏡夜は、闇に溶けるように軽やかな足取りで歩き出した。
 志野を巡る防衛戦の火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。