帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


 現れたのは、鏡夜だった。
 朔夜による雷撃事件があったばかりだというのに、彼は懲りる様子もなく、むしろ何かに引き寄せられるようにして、ふらふらと厨房へ足を踏み入れた。
 その瞳は、志野が持つ皿の上のしょこらに、釘付けになっている。

「鏡夜。……貴様に食わせるものなど、一粒たりともない。死にたくなければ今すぐ――」

「朔夜様。えっと、鏡夜様も、少し気が立っていらしただけでしょう? 甘いものを摂ると、幸せな気持ちになるのは、皆同じだと思うのです。宜しければ、鏡夜様も一ついかがですか?」

 志野の、あまりにも無防備な慈愛。
 朔夜が「甘やかすな!」と叫ぶよりも早く、飢えた獣のような素早さで、鏡夜の手が皿へと伸びた。

 鏡夜は、迷うことなく口に放り込む。
 次の瞬間。

「…………っ!!」

 鏡夜の身体が、ビクリと大きく跳ねた。
 冷たさに揺れていた瞳が、これ以上ないほどに見開かれる。
 彼の中に渦巻いていた、冷酷な野心や、地下牢へ堕ちることへの底冷えするような恐怖、そして朔夜への歪んだ劣等感。
 それらすべての心の棘が、しょこらに溶け込んだ銀の桜の成分によって、一瞬にして中和されていく。

(……温かい。なんだ、これは……)

 かつて母に抱かれた時よりも、あるいは神仏に祈った時よりも、遥かに絶対的な安寧。
 鵺の血を引く者にとって、これほどまでの静寂を与えてくれる存在が、この世にあるなどと信じられなかった。

「……ああ、ああ……っ」

 鏡夜は、その場に力なく膝をついた。
 端正な顔立ちを、涙とも、悦びともつかぬ複雑な表情で歪ませ、彼は志野の足元へとしがみつこうとする。

「……私は、なんて愚かだったんだ」

「あの……鏡夜様……?」

「こんなにも尊い方を、獲物だなどと……。貴女は、天から遣わされた鳴神の救世主だ。……貴女に触れることなど、もはや恐れ多い。ただ、その御足元で、この安らぎを一生守り続けたい……」

 鏡夜の瞳からは、先ほどまでの冷笑が完全に消え去っていた。
 代わりに宿っているのは、幼子が母を慕うような、あるいは信徒が聖女を仰ぐような、盲目的なまでの心酔。

「志野様……。いえ、姉上と呼ばせてください。……私の凍てついた魂を、貴女のこのしょこらが……っ、溶かしてしまった……!」

「だれが『姉上』だ、この痴れ者がッ!!」

 本日最大の不機嫌を炸裂させた朔夜が、鏡夜の襟首を掴んで強引に引き剥がす。
 だが鏡夜は、投げ飛ばされてもなお、うっとりとした表情で「姉上のしょこら……素晴らしかった……おかわりしたい」と呟き続けている。



 その光景を、つぶさに壁際で見ていたセンは、密かに震える手で懐の報告書にこう記した。

『水無月の娘が作製した菓子を摂取した鳴神鏡夜殿、即座に自我を喪失し、屈服。菓子を媒介とした高度な洗脳術、あるいは伝説級の霊薬である可能性が極めて高い。早急なる調査を要する』

 センのそんな不穏な勘違いなど露知らず、志野は頬を染めあどけなく微笑む。

「ふふ、お口に合ったようで良かったです。……朔夜様、また作りますね」

「ああ。だが、次は二人きりの時にしろ。絶対にだ」

 朔夜は志野をこれ以上ないほど抱きしめ、二度と誰にもこの奇跡を見せまいと心に誓った。

 帝都の中央、鳴神の屋敷。
 志野のもたらした無自覚な奇跡は、呪われた一族の絆を、思わぬ方向へと書き換え始めていた。