帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 鳴神邸の広々とした厨房には、帝都の洋菓子店顔負けの、甘く芳醇な香りが満ちている。
 
「左様です、志野様。温度はそこから絶対に上げないでください。加加阿(カカオ)の油分は非常に繊細です。五十度を超えれば成分が分離し、一気に風味が飛んでしまいますから」

「は、はい! 左近さん!」

 志野は、真っ白な割烹着姿で、真剣な眼差しで湯煎にかけた銅鍋の中を見つめていた。

 昨夜、朔夜からもらった舶来の高級菓子「しょこら」。
 そのあまりの美味しさと、幼き日の約束を果たしてくれた嬉しさに胸を打たれた志野は、出来るならば、自分でも朔夜様に作って差し上げたいと思い立ったのだ。

 水無月の家では、舶来の菓子が振舞われることは皆無だった。
 幼き頃、母が苦心しながらも見様見真似で作ってくれた飴玉……はちみつに野いちごの果汁を混ぜ固めたといった程度の代物、や、薩摩芋と栗をとろとろになるまで煮詰めたものが、志野の知る甘味である。
 近場の女学校には通っていたものの、志野の一日は決まりきったスケジュールで時間管理されており、級友たちと放課後に甘味処に繰り出すというような自由は無かった。
 
 志野のささやかな願いに、可能な限り対応したいというのは、朔夜の側近でもある右近と左近の希望でもある。
 幸い、鳴神の厨房には、長官への献上品として届けられた最高級の加加阿や砂糖が眠っていた。
 そして何より、禁衛府に所属する軍人でありながら、家事から製菓まで完璧にこなす、デキる男左近という、この上ない指南役がいた。

「次に、氷水に当てて、二十八度まで一気に下げます。……この『温度調整』こそが、しょこらに美しい艶と、口溶けの魔法をかける最大の秘訣なのです」

 左近の指導は、まるで軍事作戦のように精密だった。
 志野は木べらを握りしめ、言われた通りに鍋底を冷やしながら、とろりとした黒褐色の液体を懸命にかき混ぜる。

 その、和気藹々とした甘い空気の流れる厨房の片隅。
 戸棚の影に溶け込むようにして、一切の音を立てずに直立不動で立っている影がひとつ。
 長老衆から「監視役」として送り込まれた新たな女中、センである。

(……報告書には何と記すべきか。『水無月の娘、厨房にて異国の菓子を作製中。禁衛府の左近殿もこれに加担』……いや、これではまるで平和な遊戯だ)

 鉄面皮の奥で、生真面目な思考がぐるぐると回っていた。
 長老衆からは「あの女が何らかの呪術を用いて朔夜を誑かしていないか、一挙手一投足を監視しろ」と命じられている。
 しかし、朝からセンの視界に映っているのは、かいがいしく夫の着替えを手伝い、今は額に汗して菓子作りに奮闘する、ごく普通の、いや、普通以上に純朴な女の姿だけだった。

「あっ、左近さん! 大変です、飾りに使う予定だった胡桃を砕いておくのを忘れていました!」

 志野が焦った声を上げた。
 しょこらの温度管理は秒単位の勝負であり、今この手を止めるわけにはいかない。
 左近が「私がやりましょう」と懐中時計をしまったその時、厨房の裏口から右近が顔を出した。

「左近! 悪い、ちょっと表門の警備の件で確認したい書簡が――」

「間が悪いですね、右近。今、私は志野様と重大な任務の真っ最中なのですが」

「いや、三十秒で終わるから! 朔夜様が帰還される前に処理しておかないとマズイやつだから来て!」

 右近のただならぬ様子に、左近は小さく舌打ちをした。

「……志野様、申し訳ありません。三十秒だけ、このまま温度を維持して混ぜ続けてください。すぐに戻ります」

「はい、わかりました。いってらっしゃいませ」

 左近が足早に厨房を去り、右近の姿も消える。
 広い厨房に残されたのは、鍋をかき混ぜる志野と、無言で壁際に立つセンの二人だけになった。