大丈夫、今だけ。



昇降口での騒がしいひと幕を抜けて、鈴と乙葉は校舎の中へと足を踏み入れた。

磨き上げられた床に、春の光が細長く伸びている。
大きな窓から差し込む陽射しが、廊下の空気をやわらかく照らしていた。
けれど、その穏やかな空気とは裏腹に。

「北条さんだわ!可愛いー!」
「マジかよ、近くで見たら天使すぎるだろ!」
「隣の子も美人じゃね?」

ひそひそ、ざわざわ。
まるで波紋のように視線が広がる。
鈴は、ちらりと横目で見てくる男子に、にこっと微笑む。
小さく手を振り、時には軽くウィンクまで添える。

「おはよっ♪」
そのたびに、
「やば……」
「俺、今日もう無理……」

と男子たちが崩れ落ちそうになる。
乙葉はその様子を見て、呆れたように言った。

「歩くだけでイベント発生するのやめてくれる?」
「え~?減るもんじゃないし?」

鈴はくるりと回って、スカートの裾をひらりと揺らす。

「皆と仲良くなるのは良いことでしょ?」
「なんの陣取り合戦してんのよ」

乙葉はため息をつきながらも、口元はほんの少し緩んでいる。
教室の前にたどり着き、扉を開けると――
一斉に視線が集まった。
ざわめきが、また広がる。
鈴は名簿を確認し、自分の席を探す。

「あ!」

ぱっと顔が明るくなる。

「乙葉!席隣だよ!」
「ほんとだね」

鈴はにっこりと乙葉微笑み、
「乙葉~!三年間よろしくねっ!」
ぱちり、とウィンクをした。
乙葉は「はいはい」とそっけなく答えるが、頬がほんのり赤い。

「もう~照れないの!」

その様子を見ていたクラスの男子が、また小さく悲鳴をあげる。

「尊い……」
「なんだこの破壊力…そして同クラかよ!!」
「くっそ!可愛いすぎんだろ~」




ホームルーム前の教室は、まだ少し落ち着かない空気に包まれていた。
新しい机、新しい席、騒ぎだす新しいクラスメイト。
窓から差し込む朝の光が、黒板の端をやわらかく照らしている。
桜の花びらが一枚、ひらりと舞い込んで、床にそっと落ちた。


その瞬間。
「きゃーーー!!」
教室の空気が、ぱん、と弾けた。
鈴は思わず目を瞬かせる。
扉の前に立っていたのは――
アッシュグレーの髪を軽くかき上げた、背の高い男子生徒。
さらりと揺れる髪の隙間からのぞく、澄んだ琥珀色の瞳。
整いすぎている輪郭に、くっきりとした二重。
制服さえどこか違って見える、洗練された雰囲気。

「「「キャー!響くーん!」」」

女子たちの声が一斉に重なる。
彼は軽く微笑み、まるでステージに立つモデルのように視線を巡らせた。

「皆、おはよう。」

爽やかに、完璧に形どった笑顔。
教室の空気が一段明るくなる。

鈴は、目を見開いたまま、その様子を眺めていた。

(……なんか、似たような境遇の人が入ってきたなぁ~)

無意識に頬がゆるむ。

「ねぇ、乙葉。あの男の子すごいよね~」

隣を見ると、乙葉はほんのり頬を染めて視線を逸らしていた。

「ん、そうね……」

声が少しだけ小さい。
鈴は目を細める。

「え?ちょっと乙葉……大丈夫?」

「な、なんでもないわよ!」

乙葉は慌てて教科書を机に並べる。
でも指先が少し震えて落ち着きがない。
鈴は心の中でにやりとしていた。

(ははーん?これは……フラグの匂いってやつだなぁ~?)

そのとき、アッシュグレーの彼が鈴たちの席の前を通りがかっていた。
足取りはゆったりと自信に満ちている。

「おはよ。」

ふと立ち止まり、鈴達を見下ろす。

「そこの君、主席で挨拶してた子だよね?」

琥珀色の瞳が、まっすぐに鈴を捉える。

「俺は夏目 響(なつめ ひびき)。よろしくね?」

ぱちり、と長い睫が煌めくウィンク。
鈴は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐににっこり笑った。

「はじめまして!私は北条 鈴!」

首を少し傾け、上目遣いをしてみる。

「そして、隣でもじもじしてる美人が水瀬 乙葉だよ。よろしくね?」

「ちょっと、鈴!もじもじなんてしてないわよ!」

乙葉は耳まで真っ赤になって抗議する。
響はくすりと笑った。

「鈴ちゃんと、乙葉ちゃんでいいかな?」

少し距離を詰める。

「ふたりとも可愛いから、すぐ目に入ったよ。」

さらりと甘い言葉を落としていく。
鈴は軽く笑い、
「ふふ、ありがとう♪ じゃあ、私も響くんって呼ぶね~」
乙葉も小さく、
「……よろしく」
と呟いたが、その視線は何度もちらちらと響のほうへ泳いでいる。

響が席に着くと、たちまち女子たちに囲まれて、質問責めをうけていた。

「響くん、どこの中学だったの!?」
「その時計かっこいい!」
「今日放課後空いてる?」

鈴は頬杖をつきながら、その様子を眺めた。
すると、何かを思い出したように閃いた。

(あ、思い出した!)

「ねぇ乙葉」

こっそり耳打ちする。

「響くんって、あのファッションブランドの夏目グループの御曹司だよ!どこかで見たことあるし、聞いた名前だなぁと思ってたんだ!」

乙葉の目が丸くなる。

「え、そうなの?」
「うん、有名だよ~!広告とか、ファッション雑誌でよく見かけるし。」

鈴は肩をすくめる。

「すごいクラスになったよねぇ~」

乙葉はそわそわと指を絡める。

「なんだか……本当に乙女ゲームみたいなメンバーね……」

「乙葉」

鈴はにやりと笑う。

「響くんが気になるなら、私、協力してもいいけど~?」

「ちょ、ちょっと!そんなんじゃないし!」

珍しく慌てる乙葉。
鈴は声を殺して笑った。

「はいはい、否定はフラグってやつですかぁ~?」

乙葉がさらに赤くなる。
その様子を楽しみながらも、鈴の胸の奥では、別の鼓動が小さく鳴っていた。

朝の昇降口。
桜の花びらの中で、一瞬だけ合った視線。
グレーのスーツ。
落ち着いた声。

(……そう言えばあの人)

鈴は無意識に窓の外を見る。
青い空が、どこまでも澄んでいる。

「ま、そのうち会えるよね!」

小さく呟く。
目の前では、御曹司が中心になって教室が騒がしい。
けれど。
鈴の心の中心は、まだ別の場所にあった。
春は賑やかに始まっていた。