きみが死ぬ夢を見たから

 ……何だ?
 訝しく思いながら志貴の方を見る。
 志貴は壁際にひとりで立ち、クラスメイトの試合を静かに眺めている。あれだけの活躍をしたというのに、誰も話しかけようとはしない。
 クールで、完璧すぎて近寄りがたい――昔からよく言われていたが、それにしても、皆少し距離を取りすぎじゃないか。

「……志貴!」

 圭は笑顔を浮かべ、志貴のもとへ駆け寄った。

「お前〜! せっかく俺が注目浴びてたのに、さらっと全部持っていきやがって!」
「……悪い。そんなつもりはなかった」

 一拍置いて、視線をそらしながら志貴が返す。

「な……なんだよ、冗談だろ! マジに受け取るなって!」

 志貴の背中を軽く叩き、空気を変えようと慌てて話題を探す。

「あー……その、お前ってまだ道場通ってるのか?」
「……いや。祖父の道場はもう閉めたんだ」
「え?」

 思わず目を見開く。
 高一の夏まで通っていた、あの柔道道場が。

「……師範ももう歳だからな。今でもたまに、個人的に指導はしてもらってるが」
「そうなのか……」

 たった一年ほど前のことなのに、ずいぶん昔の話のように思える。
 畳の匂い。夕暮れの道場。
 汗だくで倒れ込んだあと、天井を見上げた記憶。
 志貴も同じことを思い出しているのか、試合を眺める横顔がふっと遠くなる。

「三人で通っていた頃が、懐かしいな……」
「…………」

 何か言おうとして、喉の奥がひりつくように詰まる。
 声にならないまま、視線だけが畳へ落ちた。

「おーい、榎本、深山! 次、お前らが試合しろ!」
「あ……はい!」

 先生の声にはっとして顔を上げる。圭は志貴と道場の中央へ進み、静かに向かい合った。礼をして、顔を上げる。

「始め!」

 合図と同時に志貴が踏み込む。肩を押さえられ、腕を取られた。圭も踏み込み、足を払うが半歩遅い。志貴の重心移動が視界の端をかすめる。

 ――足、運べ。

 低く落ち着いた声が、耳の奥で響いた気がした。心臓が大きく跳ねる。志貴の横顔が、懐かしい面影と重なった。

 ――背中、甘いぞ。

 思わず振り向きかける。いるはずがないのに、すぐそばに立っている気配がした。その一瞬、足が止まる。
 志貴の身体が深く入った。

「あ――」

 視界が傾き、身体が浮く。受け身を取ろうとするが、腕が動かない。耳鳴りがして距離感が狂う。
 次の瞬間、ご、と鈍い衝撃が走った。
 後頭部に激痛が走り、視界が白く染まる。息が詰まり、空気が入らない。
 ざわめきと足音が近づいた。

「おい、圭!」

 志貴の声がひどく焦っている。返事をしなければと思うのに、指一本動かせない。

 ――大丈夫か、圭。

 さっきの声が、すぐそばで響く。懐かしい響きだった。
 けれど、その距離は埋まらない。
 霞んでいく意識の中、圭はゆっくりと瞼を閉じた。





 湿った土の匂いが鼻を刺す。どこかで、ちゃぷん、と水面が揺れる音がした。
 薄暗い体育館裏。小さな池の水面だけが、風もないのにかすかに波立っている。
 その脇に、体操着姿の志貴が佇んでいた。
 水面がゆらりと歪み、そこから黒い腕のようなものが音もなく現れる。腕は静かに伸び、志貴の足首に絡みついた。

「やめろ!」

 叫ぶと同時に、志貴が振り向く。助けを求めるでもなく、ただ何かを諦めたような目だった。
 影が強く引き、志貴の身体がゆっくりと傾く。とっさに手を伸ばすが、その指先は虚しく空を切った。
 次の瞬間、志貴は音もなく水に沈む。水面はすぐに閉じ、何事もなかったかのように薄闇だけが残った。
 遅れて、ちゃぷん、と小さな波紋だけが広がった。





 目を開けると、白い天井がぼやけていた。
 鼻をつく消毒液の匂い。カーテン越しのやわらかな光。ゆっくりと瞬きを繰り返していると、保健室の先生が気づいて顔を覗き込む。

「よかった。気がついたのね」

 頭の奥が重い。額を押さえ、目を閉じる。
 ――いつもの夢じゃなかった。
 濁流も橋もなく、体操着姿の志貴が、体育館裏の池の前に立っていた。
 まるで、今この時間に起きている出来事を、そのまま覗き見たかのように。
 身体を起こしかけて、ふと足先にひやりとした違和感を覚えた。視線を落とすと、靴下が濡れている。じわりと染みた水が、冷たく肌に張りついていた。

「深山くんがここまで運んでくれたのよ。さっき授業に戻ったけど」

 志貴の名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわつく。
 嫌な予感がした。

「もう行くの? もう少し休んでいったら?」

 ベッドから飛び降りた圭を見て、先生が慌てて声をかける。

「大丈夫です。ありがとうございました」

 答えながら、もう足は廊下へ向いていた。制止の声を背に、渡り廊下を走り抜け、そのまま体育館裏へ向かう。
 夢で見た場所。
 昼間だというのに、そこだけが薄暗く、じっとりとした空気が漂っている。体育館の外壁には、うっすらと泥色の線が残っていた。去年の豪雨でついた水位の跡だと、誰かが言っていた気がする。
 池は静まり返り、水面は何事もない顔をしている。
 その前に、志貴が立っている。

「……志貴!」

 駆け寄ると、志貴が振り向いた。

「圭? もう動いて平気なのか」

 驚いたように眉をひそめる。足元も、身体も、どこにも異変はない。

「なんでここに……」
「柔道場への近道だからだが……。どうかしたのか?」

 当たり前の口調だった。
 ほっと息をつきかけた、そのとき――水面がわずかに揺れる。

「志貴、離れろ!」

 反射的に背を押す。志貴の身体がよろめいた、その視界の端で黒いものが跳ねた。水の中から伸びた影のような腕が、圭の脚を掴む。
 冷たい感触が一瞬、皮膚に食い込んだ。

「――……っ」

 息が止まる。
 だが次の瞬間、影は水の中へと引き戻された。何事もなかったかのように、水面は静まり返る。
 荒い呼吸だけが、やけに大きく響いていた。

「……今の、見たか?」

 掠れた声で問う。志貴は眉を寄せた。

「何のことだ?」

 本気で分からない、という顔だった。
 見えていなかったのか。あの影が。
 脚に残る冷たい感触が、あれが現実だったと告げている。数日前の放課後に見た影と、同じものなのかもしれない。

「とにかく、ここを離れよう」

 圭は志貴の腕を掴み、その場を離れた。体育館裏を抜けるころには、ようやく呼吸が少し落ち着いてくる。それでも胸の奥のざわつきは消えない。

「何なんだ、さっきから。何かあったのか?」

 志貴の目には、はっきりと心配の色が浮かんでいた。
 少し躊躇ってから、圭は口を開く。

「さっき……お前が死ぬ夢を見たんだ」
「……俺が死ぬ夢?」
「いや、はっきり死ぬところを見たわけじゃないけど」

 怖がらせないように、慌てて言い添える。池のこと、黒い影のこと、志貴が水に沈んだこと。言葉にするほど、胸の奥が冷えていく。

「……ただの夢だろう」
「でも、最近ずっと似たような夢を見るんだ。それに、さっきも――夢で見たみたいな黒い影が出て、足を掴まれて」

 必死で食い下がると、志貴の視線が足元に落ちた。

「泥がついている。……保健室に運んだときは、なかったはずだが」

 はっとして見ると、ふくらはぎに泥がこびりついている。さっきまでなかったはずの汚れだ。
 志貴は口元に手を当て、しばらく黙り込んだ。

「正直、信じがたい話だが……」

 そう前置きしてから、圭を見る。

「……顔色、悪いな」

 その声音は、否定よりも先に心配があった。

「さっき池のそばを通ったとき、水面が少し揺れていた。風もないのに、変だとは思ったんだ」

 落ち着いた口調で、状況を一つずつ確かめるように言う。圭の話をそのまま受け入れるわけでも、頭から退けるわけでもない。
 その冷静さが、今は不思議と心強かった。

「あの影が何なのか分からないけど、とにかく嫌な予感がするんだ。俺たち二人じゃどうしたらいいかも分からないし……誰かに相談しないか?」
「誰か? ……誰にだ?」

 志貴に問われ、言葉に詰まる。
 こんな話をまともに取り合ってくれる相手なんて、思い当たらない。霊媒師、という言葉が一瞬浮かぶが、どうにも胡散臭い。もし詐欺まがいの相手だったらと思うと、踏み出せそうもなかった。
 考えあぐねていると、不意に今朝の会話がよみがえる。

「そうだ……神社だ」

 思わず声が弾む。
 圭は志貴の腕を掴み、顔を上げた。

「……神社?」
「灘守神社。神主さんが霊感あって、お祓いもできるって。県外からも人が来るくらい、すごいらしい」

 今朝は半信半疑で聞き流していた小谷の話を、今は縋るような気持ちで口にする。

「とりあえず、一回行ってみて変なもの憑いてないか、見てもらおう。な?」

 さっきは本当に、志貴が影に引き摺り込まれて死んでしまうかと思った。
 もう二度と、あんな思いはしたくない。
 志貴の腕を掴む手に、無意識に力がこもる。
 志貴はその手元に一度視線を落とし、少しだけ迷うように間を置いた。それから小さく息を吐く。

「……分かった。それでお前の気が済むなら」
「ありがとう、志貴」

 胸の奥の緊張がふっと緩み、思わず笑みがこぼれる。志貴は困ったように眉を下げた。

「どうしてお前がお礼を言うんだ」

 呆れたような声音。けれど、どこかやわらかい。
 それが嬉しくて、圭は勢いのまま志貴の肩に腕を回した。

「放課後、迎えに行くから帰るなよ!」
「……おい、離れろ」
「神社、ここからちょっと遠いよな。コンビニ寄って、何か買ってく?」
「遠足じゃあるまいし……」

 志貴が小さくため息をつく。
 圭は笑いながら、志貴と並んで柔道場へ戻った。