きみが死ぬ夢を見たから

 休日の病院は、少し静かで、空気がゆっくりと流れている気がした。外の光が大きな窓から差し込み、院内を明るく照らしている。
 母の入院している隣町の病院を訪れた圭は、ひとり、受付に向かっていた。面会の希望を伝えると、病室の番号を告げられる。
 部屋の番号を確認しながら廊下を歩き――ひとつの病室の前で、足を止める。
 逃げたい、と思った。
 扉を開けてしまえば、もう見ないふりはできない。兄の死も、母の苦しさも、自分の弱さも。
 けれど、圭は小さく息を吸い込み、ゆっくりと扉を開けた。

「……母さん」

 窓際のベッドにいた母が、顔を上げる。

「圭……」

 以前より痩せていた。けれど、圭の姿を見た瞬間、母の目が少しだけ揺れる。
 圭はベッドのそばまで歩み寄り、椅子に腰を下ろした。

「ずっと、来られなくてごめん」

 母はすぐには答えなかった。ただ、布団の上で指先をぎゅっと握りしめている。
 圭はうつむいて、深く息を吸った。

「俺……怖かったんだ」

 絞り出すように言葉を続ける。

「壮兄が死んで……母さんのこと頼むって言われたのに、母さんのことも守れなかったら、どうしようって」

 喉の奥が詰まる。

「俺じゃなくて、壮兄が生きてたら……こんなことにはならなかったんじゃないかって」

 声が震えた。母は小さく首を振る。

「そんなことない」

 掠れた声だった。

「ごめんね……お母さんが、もっとちゃんとしてなきゃいけないのに……」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
 違う。
 誰か一人のせいで、壊れてしまったわけじゃない。
 雨みたいに、少しずつ積もって、気づかないうちに、みんな限界になっていただけだ。
 圭はゆっくりと顔を上げ、母の手にそっと触れた。

「ひとりで、頑張らなくていいんだ」

 母の肩が、小さく震える。

「俺と、ばあちゃんがいるから」

 母が顔を上げ、こちらを見る。圭はぎこちなくなりながらも、微笑んでみせた。
 胸の奥はまだ、うまく息ができないみたいに痛い。
 それでも、不思議と逃げ出したい気持ちはなかった。
 完璧にできる自信なんてない。
 これから先、また苦しくなる日もきっとある。
 それでも――

「一緒に、生きていこう」

 窓の外では、雲の切れ間から差した光が、静かに木々を照らしていた。






「お待たせ」

 一階の待合室で、ひとり本を読んでいた志貴に声を掛ける。志貴は顔を上げ、静かに本を閉じた。

「もういいのか?」
「うん。ちゃんと話できたし」

 圭はそう答えて、小さく息を吐く。
 病室を出る前、母は少しだけ泣いていた。けれど最後には、「また来てね」と笑ってくれた。

「次からは、ひとりでも来れるから。……またすぐ来るよ」
「……そうか」

 志貴が短く頷く。
 それだけなのに、なぜだか少し肩の力が抜けた。
 病院を出ると、雨上がりの匂いが微かに漂っていた。にわか雨が降ったらしい。濡れたアスファルトが夕陽を反射して、街全体が淡く光っている。夏の湿った風が頬を撫で、どこからかひぐらしの鳴く声が聞こえた。

「あー、なんか気抜けたら腹減ってきた!」

 朝から緊張していたせいで、朝ご飯兼昼ご飯として、スティックパンを一本食べたきり、何も食べていなかった。

「ラーメンでも食べに行くか」
「今日こそ大食いチャレンジする?」

 ふざけて言うと、志貴は少し考えてからうなずいた。

「今日は特別に、付き合ってやってもいい」
「えっ、マジ? ――あ、でも待て!」

 圭が立ち止まり、思い出したように声を上げる。

「なあ、今日、夏祭りの日だったよな?」
「ああ……確か」
「じゃあ帰ってから、屋台で何か食おうよ」

 声を弾ませて、志貴を見る。

「そうだな……急げば花火の時間にも間に合いそうだ」

 志貴が腕時計で時間を確認して、うなずく。

「如月さんに会えるかな〜」
「どうだろうな。神主は忙しいんじゃないか?」

 話しながら、駅までの道を並んで歩く。
 神社の前に着く頃には、すっかり日が落ちていた。道沿いに吊るされた提灯や屋台の灯りが辺りを照らし、まるで昼間みたいに明るい。

「うわー、いい匂い」

 屋台から漂うソースやイカ焼きの匂いに、思わず腹が鳴りそうになる。

「とりあえず、何か食べるか」
「何食おう! たこ焼きと焼きそばと、イカ焼きとはしまきと……あ、ヨーヨー掬いあるぞ!」
「ヨーヨーは食べられないからな」
「言われなくても分かってる」
「念のためだ」

 志貴は、自分のことを何だと思ってるんだろう。
 いくら空腹とはいえ、ヨーヨーに齧り付いたりはしないが。
 眉間に皺を寄せて志貴を見るが、志貴はその視線を無視してたこ焼きを買う。

「……で、次は焼きそばだったか」

 当然のように、そんなことを言うので、怒る気が失せてしまった。
 ため息をついて、志貴の肩に腕を回す。

「何だよ、志貴は食べたいものないのかよ〜」
「だからお前は……暑いからひっつくな」

 軽く言い合いながら、屋台を回っていく。

「おや、お二人とも来てたんですね」

 イカ焼きを齧りながら、はしまきを売る屋台の列に並んでいると、ふいに声を掛けられた。振り返ると、如月と立石が手を上げて近づいてくる。
 如月は神主の衣装ではなく、シャツにハーフパンツというラフな格好で、黒縁の眼鏡を掛けている。

「如月さん、目悪かったのか?」
「変装ですよ。こっそり抜け出してきたので」

 にこりと笑って如月が答える。志貴が困惑したように眉を寄せた。

「大丈夫なんですか?」
「町内会のうるさいお爺さんに、神楽鈴を持たせてきたので、大丈夫です」

 全然大丈夫じゃなさそうだ。
 神楽鈴を手に参拝客の前で右往左往する姿を想像し、気の毒になった。
 如月の隣で、立石は目を閉じて耳を塞ぐ。

「俺は何も見てないし、聞いてないからな。巻き込むなよ」
「駄目だろー、保護者が役目放棄したら」

 笑って言うと、立石にじっとりと睨まれる。

「保護者になった覚えはないし、言っとくけど、こいつのほうが三つも歳上だからな」
「ええ!?」

 驚いて、立石と如月を見比べる。勝手に立石の方が歳上なのだと思っていた。

「おや、そんなに若く見えますか?」
「中身の問題だろ」

 立石の言葉に如月は「失礼ですね」と肩をすくめる。

「そういえば、お二人とも『影』の件は無事に解決したとのことで」

 ふと、少し真面目な顔になって、如月が言う。圭は微笑んで頷いた。

「うん……。いろいろありがとな」

 あれから、影は一度も圭の前に現れていないし、志貴が死ぬ夢を見ることもなくなった。
 影とは一体何だったのか。はっきりと分かったわけではないけれど、たぶん、志貴の推測が当たっていたのだと思う。

「実は、そんなお二人を見込んで、頼みがあるのですが」
「頼み?」

 首を傾げた圭に、如月が頷く。

「父が亡くなったことを知らない方が、今でもうちに心霊体験や怪異の相談に来られるんです。ですが、お二人も知っての通り、私には霊感が全くありません……」

 如月は頬に手を当て、悩ましげにため息をつく。

「そこで、です」

 如月はぐっと身を乗り出して、圭と志貴の手を取った。

「お二人に、解決の手伝いをしていただけないかと思いまして」

 圭は志貴と顔を見合わせた。

「俺たちも、別に霊感があるわけじゃないですけど」

 志貴が戸惑ったように言う。圭はけろりと笑った。

「まあ、いいじゃん。怪異ハンターみたいで、ワクワクするだろ」
「調子に乗るな」
「えー」

 呆れた顔をする志貴に、口を尖らせる。

「バイト代は払いますので、前向きに考えておいてください」

 如月は握った二人の手を何度か振って、立石と去っていった。

「……お前、本気なのか?」
「え?」
「怪異ハンターとかいう……」
「違う名前がよかった?」
「そういうことを言ってるんじゃない」

 むっとしたように志貴が言う。圭は「冗談だって」と笑った。

「なんか、いいかなって思って」

 イカ焼きを一口齧り、視線を落とす。

「人助け、みたいなの。俺にできるか、あんま自信はないけど……」

 爪先で小石を蹴ると、思いの外、遠くまで飛んでいった。転がっていく小石を目で追い、それから志貴を見上げる。

「志貴は一緒にやらない?」
「……仕方ないな」

 ため息混じりに志貴が言う。圭は思わず笑った。
 一通り屋台を回り、それなりに腹も満たされてくると、屋台のある通りから離れた細い山道へ向かった。暗い夜道をスマートフォンの灯りで照らしながら、慎重に進む。しばらくすると、開けた場所に出た。
 木々の切れ間から、町が一望できる。昔、ふたりで見つけた場所だった。
 二人並んで木の下に腰を下ろすと、眼下に広がる町の灯りをぼんやりと見つめる。

「……そういえば、これ」

 手持ち無沙汰に、食べ残していたベビーカステラを摘んでいると、ふいに志貴がポケットを探った。手を差し出され、手のひらを出すと、そっと何かが載せられる。

「直したから、返す」

 それは、志貴に預けていたキーホルダーだった。壮一に貰った、柔道着を着た芝犬のキーホルダー。壊れていた金具は新しくなっていて、そこだけ少し色が違っていた。

「傷がついてて……そこは直せなかったけど」

 手の中でキーホルダーを転がすと、芝犬の柔道着に小さな傷がついていた。その傷を、そっと指でなぞる。

「ううん、これでいい。……このままでいい」

 つぶやくように言った、そのとき。
 ドン、と低い音が響き、夜空が明るくなった。

「うわぁ……!」

 空に咲いた鮮やかな花火を見上げて、思わず声を上げる。赤、緑、青。色とりどりの光が夜空に弾ける。

「前にお前……山で迷ったときの話しただろ」

 その光を見上げたまま、志貴がぽつりと言った。

「お前、俺に助けられたって言ったけど……俺も同じだった。お前がいなくなったって聞いたとき、頭が真っ白になったんだ」

 ゆっくりと視線を志貴に向ける。

「あのときから、ずっとだ」

 志貴は眉尻を下げ、微笑んだ。

「……お前がいないと、困る」

 祭囃子や人の笑い声が遠くに聞こえる。
 なんだか急に、鼻の奥がツンとして、圭は慌てて空を見上げた。

「なあ、来年もさ……」

 手の中のキーホルダーを握りしめ、夜空を見つめる。

「また一緒に見ような」

 花火が上がり、一瞬だけ志貴の横顔を照らす。

「……ああ」

 志貴は笑って、空へ視線を戻した。
 夜空に、大きな花が咲く。音が遅れて、胸に響く。
 隣に志貴の気配があって、ふたりで同じ空を見上げている。
 それだけで、十分だった。