きみが死ぬ夢を見たから

 圭は弾かれたように顔を上げた。
 橋の縁に身を伏せるようにして、志貴がこちらへ手を伸ばしていた。雨に濡れた髪が頬に張りつき、苦しそうに歯を食いしばっている。

「し、き……」

 指が食い込むほど強く腕を掴まれ、骨が軋む。
 足元では濁流が唸りを上げていた。橋脚にぶつかった水が白く泡立ち、轟音を立てながら流れていく。
 足場はない。
 圭の身体は、志貴の腕一本だけで辛うじて繋がっていた。

「……っ、放せ!」

 反射的に叫ぶ。

「お前まで落ちるだろ!」
「黙れ!」

 志貴が怒鳴った。
 雨音を切り裂くような鋭い声に、圭は息をのむ。

「手、伸ばせ! 反対側!」

 欄干を掴んでいた手を離し、志貴がこちらへもう片方の腕を伸ばす。

「っ……!」

 途端に、体がずるりと沈んだ。志貴の身体まで橋の外へ引きずられる。
 ――駄目だ。

「志貴……やめろ。俺はいいから」

 橋の縁に打ちつけられた志貴の膝が鈍い音を立てた。それでも志貴は手を放さない。顔を歪めながら、さらに圭の腕を引き寄せる。

「放せって……!」

 喉から掠れた声が漏れる。
 脳裏を、壮一の姿がよぎった。
 濁流。伸ばした手。掴めなかった指先。

「もう……嫌なんだ!」

 震える声で叫ぶ。
 志貴まで、自分のせいで死んだら。

「頼むから、放せよ……!」

 喉が焼けるほど叫んでも、志貴は決して手を緩めなかった。
 雨粒が、何度も志貴のこめかみを伝い落ちる。

「なんで……来たんだよ」

 どうして志貴は、いつも間に合ってしまうんだろう。
 間に合わなくても、よかったのに。

「……お前が、死ぬ夢を見たんだ」

 ぽつりと落ちた声に、圭は顔を上げる。

「ずっと……大丈夫なんだと思ってた」

 雨が、志貴の睫毛を濡らして落ちる。

「お前……笑ってたから」
「…………」
「気づいてやれなくて、ごめん」

 志貴の腕が小さく震えている。雨音が、静かに響いていた。
 圭は震える息を吐いて、うつむく。

「……やっぱ、リセットボタンあったらいいのにな」

 笑おうとして、うまく笑えない。

「一回くらい、押させてくれたっていいのに」

 ――あの日、外へ出なければ。
 あのまま家にいたら。

「俺が行かなかったら、壮兄は死ななかった」

 絞り出すように言う。

「全部、俺のせいなんだよ」

 一度溢れてしまえば、もう止まらなかった。

「どうやって、生きればいいんだよ……」
「圭……」
「何もなかったみたいに……どうやって」

 顔を歪める圭を、志貴は見つめる。
 志貴の荒い呼吸だけが、近くで聞こえた。

「……リセットなんて、できない」

 静かな声が落ちる。

「それは、お前が一番分かってるだろ」

 その言葉は、容赦なく胸に刺さった。
 分かっている。
 分かっているから、こんなにも苦しい。

「俺だって……思ったことくらいある」

 頭上で微かに空気が揺れた。圭はゆっくりと、顔を上げる。

「だけど……終われなかった」

 志貴は困ったような顔で笑っていた。
 掴まれた腕に、さらに力がこもる。

「こうやって、生きてる」

 強く、痛いほどに。

「……お前がいるから」

 視界が滲む。
 瞬きをすると、溢れた涙が頬を伝って落ちた。

「だから、放さない。――絶対に」

 志貴の声は、わずかに震えていた。息を切らしたまま、それでも圭を見ている。
 気づけば、圭は左手を伸ばしていた。
 雨に濡れた橋の縁を掴もうと、必死に指先を伸ばす。
 何度も滑る。
 それでも手を伸ばし続け――

「……っ」

 ようやく濡れたコンクリートを掴む。次の瞬間、強く身体を引き上げられた。
 もう片方の手でも橋の縁を掴むと、志貴が圭の腕を掴み直し、少しずつ身体を引き寄せていく。上体が橋の上へ乗り、足が縁に引っかかった瞬間、勢いよく引き上げられた。
 橋の上へ転がり込む。
 胸が激しく上下していた。息が苦しい。腕が痛い。
 だけど――生きている。
 隣では、志貴も仰向けに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返していた。
 いつの間にか、雨が止んでいる。雲間からは太陽の光が溢れていた。微かで、だけど確かな光が、やわらかく降り注ぐ。

「手……伸ばしたんだ」

 眩しさに目を細めながら、呟く。

「壮兄が、俺を助けて流されたとき……」

 志貴がこちらを向いた気配がした。けれど、圭は空を見上げたまま、動かない。
 小さく、息を吸う。

「でも……届かなかった」

 声が震えた。降り注ぐ光がぼやけ、瞼に手の甲を押し当てる。

「ごめん……壮兄……」

 喉の奥が熱い。瞳から溢れたものが、手の甲を濡らしていく。
 隣で体を起こす気配がした。それからそっと、肩に手を載せられる。
 濡れたシャツ越しでも、その熱ははっきり分かった。慰めることも、励ますこともない。ただ、そばにいることを伝えてくれる。
 その感触だけが、確かに胸に残った。