その言葉を聞いた瞬間、呼吸が止まった。周囲の音が消え、目の前の濁流が、あの日の光景と重なる。
茶色く濁った水。鳴り続けるサイレン。叫び声。
――あの日も、雨が降っていた。
「なぁ、雨やばくない?」
窓の外から聞こえる激しい雨音に、圭はふと、コントローラーを動かす手を止めた。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた母が、「そうねぇ」と振り返り、手を伸ばす。レースカーテンを捲ると、庭はすでに水浸しになっていた。祖母が軒先で育てていたミニトマトはぐったりとうつむいてしまっている。
「でも、明日には止むって」
台所に行っていた壮一が、スマートフォンを見ながら戻ってくる。もう片方の手には、オレンジとりんごのパックジュースがある。
「俺、りんご〜」
「はいはい」
手を伸ばすと、壮一がりんごジュースを投げてくれる。さっそくストローをさして飲みながら、圭はコントローラーを振ってみせた。
「なぁ、もう一回戦しよ」
「げ、まだやんのか? 俺もう目疲れたからパス」
壮一は苦笑して、母と祖母の座るダイニングテーブルについた。
「えー、やだ! もう一回!」
「やだって、お前……もうガキじゃねぇんだから。志貴に遊んでもらえよ」
壮一の言葉に、圭は口を尖らせる。
「課題やるからって断られた。不真面目なやつめ」
こっちは朝からエイム練してるっていうのに。
「どっちが不真面目だよ……」
壮一がため息をつく。祖母と母も呆れたようにこちらを見た。
「圭はちゃんと課題やってるの?」
「夏休みが終わる頃になって、志貴くんに泣きつくんじゃないよ」
「や、やってるし。大丈夫だって」
まずい。話の雲行きが怪しくなってきた。
コントローラーを置き、自室へ退散しようと腰を上げる。そのとき、壮一のスマートフォンが着信を知らせた。
「はい。榎本です」
声の硬さで、友人からではないと分かった。壮一は何度か相槌を打って、通話を切る。
「誰から?」
「上司。緊急招集かかった」
言いながら、壮一はもう出かける準備を始めている。母はテレビのチャンネルを変え、眉をひそめた。画面には、避難情報のテロップが流れている。
「避難情報出てたのね。気づかなかった」
「警察官って大変だな〜」
でも、こういう時の壮一は、ちょっとかっこいい。
着替えてリュックを背負った壮一を見上げる。
「まあでも、大事なことだからな。行ってくるよ」
「気をつけてね」
「いってらっしゃい」
壮一は手を振って、居間を出ていく。玄関の扉が閉まる音を聞きながら、圭は再びコントローラーを手に取った。
翌日の明け方だった。圭は耳を劈くような激しい音に目を覚ました。
「……え」
ぼんやりした頭のまま体を起こす。まるで石礫でも降っているかのような音だ。一拍遅れて、ようやくそれが雨の音だと気づく。
「圭! 起きて!」
一階から母の悲鳴のような声が聞こえた。ベッドから飛び降りて、階段を駆け降りる。
玄関に立つ母は、顔が真っ青だった。
「水が……っ、水が入ってきてるの!」
声が震えている。
見ると、濁った水が玄関に流れ込んでいた。
昨日の夜からずっと降り続いていた雨。夜中にも何度か警報が鳴っていたのを思い出す。
「ばあちゃんは!?」
「二階! まだ寝てる!」
母は早口に言いながら、スマートフォンを握りしめていた。画面には、無情に『圏外』の文字が出ていた。
「壮一が……っ」
母が呟く。
「電話、繋がらなくて……」
圭の胸がざわついた。昨夜、壮一から一度だけ電話があった。
『圭か? 今から避難誘導行ってくる』
雨音の向こうで、兄の声がしていた。
『いいか、夜は危ないから、絶対外に出るなよ。母さんとばあちゃんのこと、頼んだからな』
その声が、耳に焼きついて離れない。
「壮一はどこ……?」
母は、何度も同じ言葉を繰り返す。
「なんで帰ってこないの……っ」
水はじわじわと嵩を増し、玄関を越えて床に溢れてくる。
このまま二階まで浸水したら、助からない。
圭は唇を噛んだ。
「……俺、ちょっと見てくる」
「駄目!」
母がすぐに叫ぶ。
「外なんか行っちゃ駄目! 危ない!」
「避難所まで行けそうか、確かめるだけだから。外に救助の人もいるかもしれないし」
無理やり笑って、玄関へ向かう。
ただ、母を安心させたかった。
「すぐ戻るから!」
圭はシューズボックスから長靴を引っ張り出して、足を突っ込んだ。水はまだ膝下までしかない。まだ、歩ける。
背後で母が何か叫んでいたけれど、雨音に掻き消されて聞こえなかった。
扉を開けた瞬間、激しい雨風が身体を叩く。
「っ……!」
息が詰まる。道路はもう、ほとんど川だった。茶色く濁った水が、轟音を立てて流れている。
どこが道で、どこが側溝なのかも分からない。
「確か、避難所は……」
周囲を見回し、ここより高台にある避難所の位置を確認する。圭は水を掻き分けるように進んだ。一歩踏み出すたび、足を持っていかれそうになる。
怖い。
でも、それ以上に、母と祖母を守れないことの方が怖かった。
激しい雨音以外、ほとんど何の音も聞こえない。サイレンの音だけが、遠くで鳴り続けている。
圭は唇を噛んで足を踏み出した。――その瞬間だった。
「え――」
足元が、急に消えた。
身体が傾く。濁流が、一気に脚を攫った。
「うわっ……!」
流される。とっさに手を伸ばすと、指先が道路脇の石垣に引っかかった。必死で爪を立て、しがみつく。
「っ、ぁ……!」
激流が、全身を引きずっていく。
冷たい。苦しい。腕が抜けそうだった。
雨で何も見えず、息もまともにできない。
「た、す……っ」
声にならない。指が滑る。
もう駄目だと思った、そのとき。
「圭!」
声がして、誰かが腕を掴んだ。強い力で引き上げられる。
「壮兄……!」
石垣の上に、壮一の顔が見えた。
制服姿のまま全身ずぶ濡れで、腰につけた無線機からはひっきりなしに逼迫した声が響いている。
「掴まれ!」
兄が叫ぶ。圭は夢中で壮一の腕にしがみついた。
引っ張り上げられる。濁流から、身体が浮く。
「は、ぁ……っ」
助かった。そう思った瞬間だった。
ぐらり、と壮一の身体が揺れた。
「……え?」
足元を、濁流が呑み込む。踏ん張っていたはずの兄の脚が、泥水に滑った。
「壮兄!」
圭が身を乗り出す。壮一は、とっさに圭を突き飛ばした。
圭の身体が石垣の上に転がる。その代わりに、兄の身体が、濁流へ引きずり込まれていった。
「っ、待っ――」
必死で手を伸ばす。すぐ目の前に、兄がいる。だけど、伸ばした手は宙を掻き、何も掴めなかった。
茶色い水が、兄の姿を呑み込む。
「壮兄!」
叫び声が豪雨の中に掻き消される。どれだけ名前を呼んでも、兄の姿は、もうどこにも見えなかった。
「……圭」
ふと、志貴の声が聞こえた。ゆっくりと現実へ引き戻され、顔を上げる。
志貴は何か言おうとするように口を開け、そのまま閉じた。その様子をじっと見つめ、視線を落とす。
「……志貴には、関係ないだろ」
絞り出すみたいに言う。はっと息をのんだ志貴の手が、わずかに緩んだ。
圭は志貴の手を振り払い、踵を返して走り出した。
「圭!」
雨音に混じって、志貴の声が聞こえた。だけど、振り返らない。立ち止まらない。
俯いたまま、走り続ける。
雨が顔を叩く。息が上がり、脚が重くなる。
「――っ!」
ふいに脚がもつれ、圭は勢いよく地面に倒れ込んだ。コンクリートに全身を打ちつけ、一瞬息が止まる。
水溜まりの中で、圭はしばらく動けなかった。
川の流れる音がする。ひとつ瞬きをして、自分が橋の上にいることに気づいた。山道へ続く、人気のない薄暗い橋の上。
ゆっくりと体を起こす。いつの間にか、雨の音が止んでいた。全身を打ちつける雨は止んでいないのに、音だけがしない。
焦点の合わない目で、辺りを見回す。
「圭」
ふいに、懐かしい声が聞こえた。ずっと聞きたかった、とても懐かしい声。
「壮兄……?」
目を向けると、欄干の前に人影が立っていた。その顔は、雨で霞んでよく見えない。
「……壮兄」
引き寄せられるように、圭は立ち上がった。
それが、本当に兄かどうかなんて、どうでもよかった。
人影は、圭が近づくにつれて黒く濁っていく。輪郭は雨に滲むように曖昧に崩れ、まるでこちらを誘うみたいに、ゆらゆらと揺れていた。
錆びついた欄干に手をかける。雨に濡れた鉄は、ぞっとするほど冷たい。
圭は吸い寄せられるように橋の外へ身を乗り出した。
――そのとき。鈍い金属音が響く。
「……え?」
手をかけていた欄干が、根元から崩れ落ちた。
赤茶けた鉄片が濁流へ呑まれていく。それを追うように、圭の身体も宙へ投げ出された。
――落ちる。
「圭!!」
次の瞬間、右腕に激痛が走った。
誰かが、腕を掴んでいる。
茶色く濁った水。鳴り続けるサイレン。叫び声。
――あの日も、雨が降っていた。
「なぁ、雨やばくない?」
窓の外から聞こえる激しい雨音に、圭はふと、コントローラーを動かす手を止めた。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた母が、「そうねぇ」と振り返り、手を伸ばす。レースカーテンを捲ると、庭はすでに水浸しになっていた。祖母が軒先で育てていたミニトマトはぐったりとうつむいてしまっている。
「でも、明日には止むって」
台所に行っていた壮一が、スマートフォンを見ながら戻ってくる。もう片方の手には、オレンジとりんごのパックジュースがある。
「俺、りんご〜」
「はいはい」
手を伸ばすと、壮一がりんごジュースを投げてくれる。さっそくストローをさして飲みながら、圭はコントローラーを振ってみせた。
「なぁ、もう一回戦しよ」
「げ、まだやんのか? 俺もう目疲れたからパス」
壮一は苦笑して、母と祖母の座るダイニングテーブルについた。
「えー、やだ! もう一回!」
「やだって、お前……もうガキじゃねぇんだから。志貴に遊んでもらえよ」
壮一の言葉に、圭は口を尖らせる。
「課題やるからって断られた。不真面目なやつめ」
こっちは朝からエイム練してるっていうのに。
「どっちが不真面目だよ……」
壮一がため息をつく。祖母と母も呆れたようにこちらを見た。
「圭はちゃんと課題やってるの?」
「夏休みが終わる頃になって、志貴くんに泣きつくんじゃないよ」
「や、やってるし。大丈夫だって」
まずい。話の雲行きが怪しくなってきた。
コントローラーを置き、自室へ退散しようと腰を上げる。そのとき、壮一のスマートフォンが着信を知らせた。
「はい。榎本です」
声の硬さで、友人からではないと分かった。壮一は何度か相槌を打って、通話を切る。
「誰から?」
「上司。緊急招集かかった」
言いながら、壮一はもう出かける準備を始めている。母はテレビのチャンネルを変え、眉をひそめた。画面には、避難情報のテロップが流れている。
「避難情報出てたのね。気づかなかった」
「警察官って大変だな〜」
でも、こういう時の壮一は、ちょっとかっこいい。
着替えてリュックを背負った壮一を見上げる。
「まあでも、大事なことだからな。行ってくるよ」
「気をつけてね」
「いってらっしゃい」
壮一は手を振って、居間を出ていく。玄関の扉が閉まる音を聞きながら、圭は再びコントローラーを手に取った。
翌日の明け方だった。圭は耳を劈くような激しい音に目を覚ました。
「……え」
ぼんやりした頭のまま体を起こす。まるで石礫でも降っているかのような音だ。一拍遅れて、ようやくそれが雨の音だと気づく。
「圭! 起きて!」
一階から母の悲鳴のような声が聞こえた。ベッドから飛び降りて、階段を駆け降りる。
玄関に立つ母は、顔が真っ青だった。
「水が……っ、水が入ってきてるの!」
声が震えている。
見ると、濁った水が玄関に流れ込んでいた。
昨日の夜からずっと降り続いていた雨。夜中にも何度か警報が鳴っていたのを思い出す。
「ばあちゃんは!?」
「二階! まだ寝てる!」
母は早口に言いながら、スマートフォンを握りしめていた。画面には、無情に『圏外』の文字が出ていた。
「壮一が……っ」
母が呟く。
「電話、繋がらなくて……」
圭の胸がざわついた。昨夜、壮一から一度だけ電話があった。
『圭か? 今から避難誘導行ってくる』
雨音の向こうで、兄の声がしていた。
『いいか、夜は危ないから、絶対外に出るなよ。母さんとばあちゃんのこと、頼んだからな』
その声が、耳に焼きついて離れない。
「壮一はどこ……?」
母は、何度も同じ言葉を繰り返す。
「なんで帰ってこないの……っ」
水はじわじわと嵩を増し、玄関を越えて床に溢れてくる。
このまま二階まで浸水したら、助からない。
圭は唇を噛んだ。
「……俺、ちょっと見てくる」
「駄目!」
母がすぐに叫ぶ。
「外なんか行っちゃ駄目! 危ない!」
「避難所まで行けそうか、確かめるだけだから。外に救助の人もいるかもしれないし」
無理やり笑って、玄関へ向かう。
ただ、母を安心させたかった。
「すぐ戻るから!」
圭はシューズボックスから長靴を引っ張り出して、足を突っ込んだ。水はまだ膝下までしかない。まだ、歩ける。
背後で母が何か叫んでいたけれど、雨音に掻き消されて聞こえなかった。
扉を開けた瞬間、激しい雨風が身体を叩く。
「っ……!」
息が詰まる。道路はもう、ほとんど川だった。茶色く濁った水が、轟音を立てて流れている。
どこが道で、どこが側溝なのかも分からない。
「確か、避難所は……」
周囲を見回し、ここより高台にある避難所の位置を確認する。圭は水を掻き分けるように進んだ。一歩踏み出すたび、足を持っていかれそうになる。
怖い。
でも、それ以上に、母と祖母を守れないことの方が怖かった。
激しい雨音以外、ほとんど何の音も聞こえない。サイレンの音だけが、遠くで鳴り続けている。
圭は唇を噛んで足を踏み出した。――その瞬間だった。
「え――」
足元が、急に消えた。
身体が傾く。濁流が、一気に脚を攫った。
「うわっ……!」
流される。とっさに手を伸ばすと、指先が道路脇の石垣に引っかかった。必死で爪を立て、しがみつく。
「っ、ぁ……!」
激流が、全身を引きずっていく。
冷たい。苦しい。腕が抜けそうだった。
雨で何も見えず、息もまともにできない。
「た、す……っ」
声にならない。指が滑る。
もう駄目だと思った、そのとき。
「圭!」
声がして、誰かが腕を掴んだ。強い力で引き上げられる。
「壮兄……!」
石垣の上に、壮一の顔が見えた。
制服姿のまま全身ずぶ濡れで、腰につけた無線機からはひっきりなしに逼迫した声が響いている。
「掴まれ!」
兄が叫ぶ。圭は夢中で壮一の腕にしがみついた。
引っ張り上げられる。濁流から、身体が浮く。
「は、ぁ……っ」
助かった。そう思った瞬間だった。
ぐらり、と壮一の身体が揺れた。
「……え?」
足元を、濁流が呑み込む。踏ん張っていたはずの兄の脚が、泥水に滑った。
「壮兄!」
圭が身を乗り出す。壮一は、とっさに圭を突き飛ばした。
圭の身体が石垣の上に転がる。その代わりに、兄の身体が、濁流へ引きずり込まれていった。
「っ、待っ――」
必死で手を伸ばす。すぐ目の前に、兄がいる。だけど、伸ばした手は宙を掻き、何も掴めなかった。
茶色い水が、兄の姿を呑み込む。
「壮兄!」
叫び声が豪雨の中に掻き消される。どれだけ名前を呼んでも、兄の姿は、もうどこにも見えなかった。
「……圭」
ふと、志貴の声が聞こえた。ゆっくりと現実へ引き戻され、顔を上げる。
志貴は何か言おうとするように口を開け、そのまま閉じた。その様子をじっと見つめ、視線を落とす。
「……志貴には、関係ないだろ」
絞り出すみたいに言う。はっと息をのんだ志貴の手が、わずかに緩んだ。
圭は志貴の手を振り払い、踵を返して走り出した。
「圭!」
雨音に混じって、志貴の声が聞こえた。だけど、振り返らない。立ち止まらない。
俯いたまま、走り続ける。
雨が顔を叩く。息が上がり、脚が重くなる。
「――っ!」
ふいに脚がもつれ、圭は勢いよく地面に倒れ込んだ。コンクリートに全身を打ちつけ、一瞬息が止まる。
水溜まりの中で、圭はしばらく動けなかった。
川の流れる音がする。ひとつ瞬きをして、自分が橋の上にいることに気づいた。山道へ続く、人気のない薄暗い橋の上。
ゆっくりと体を起こす。いつの間にか、雨の音が止んでいた。全身を打ちつける雨は止んでいないのに、音だけがしない。
焦点の合わない目で、辺りを見回す。
「圭」
ふいに、懐かしい声が聞こえた。ずっと聞きたかった、とても懐かしい声。
「壮兄……?」
目を向けると、欄干の前に人影が立っていた。その顔は、雨で霞んでよく見えない。
「……壮兄」
引き寄せられるように、圭は立ち上がった。
それが、本当に兄かどうかなんて、どうでもよかった。
人影は、圭が近づくにつれて黒く濁っていく。輪郭は雨に滲むように曖昧に崩れ、まるでこちらを誘うみたいに、ゆらゆらと揺れていた。
錆びついた欄干に手をかける。雨に濡れた鉄は、ぞっとするほど冷たい。
圭は吸い寄せられるように橋の外へ身を乗り出した。
――そのとき。鈍い金属音が響く。
「……え?」
手をかけていた欄干が、根元から崩れ落ちた。
赤茶けた鉄片が濁流へ呑まれていく。それを追うように、圭の身体も宙へ投げ出された。
――落ちる。
「圭!!」
次の瞬間、右腕に激痛が走った。
誰かが、腕を掴んでいる。
