圭は浅い息とともに目を覚ました。
薄暗い天井が視界に映る。外からは微かに雨の音が聞こえる。カーテンの隙間から差し込む灰色の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
いつもの夢だ。
冷たい水。濁った川。そして――消えていく志貴の背中。
圭は額を押さえ、小さく息を吐いた。
ここ最近、まともに眠れた記憶がない。目を閉じるたびに、同じような夢を見る。志貴が死ぬ夢。手を伸ばしても、決して届かない。
ぼんやりと天井を見上げたまま、昨日のことを思い出す。
白い塀に書かれた『人殺し』の文字。
それから、スマートフォンで見た動画。AI音声が淡々と無責任な言葉を並べ立て、コメント欄は悪意の言葉で埋め尽くされていた。
志貴は、ずっとあんなものを見ていたのだ。
町で噂されて、陰口を叩かれて……あんな落書きまでされて。
なのに、自分は何も知らなかった。
知らないまま、呑気にゲームの話なんかして、笑っていた。
胸の奥が、じくじくと痛む。
『――鬱陶しいんだよ』
ふいに、昨日の声が蘇る。
本心じゃないことくらい、分かっている。あのときの志貴は、自分なんかよりずっと、痛そうな顔をしていた。
ただ、そんな言葉を言わせてしまった自分に、「やっぱり」という諦念に似た感情が浮かんだ。
圭は目を閉じる。
結局、自分はいつもそうだ。誰のことも、助けられない。
志貴のことも――兄と、母のことも。
圭は怠い体を無理やり起こして、窓へ向かった。今日は母の見舞いにいく約束をしている。
いつまでも、逃げていてはいけない。……頭では、分かっている。
カーテンを開けて、ぼんやりと外を眺める。そこでふと、異変に気づいた。
反射的に窓を開け、身を乗り出す。雨に煙る道の向こう。電柱の影に紛れるように、黒い染みのようなものが揺れていた。
影だ。
ぞわりと背筋が粟立つ。けれど次の瞬間、別の考えが頭をよぎった。
――志貴。
あれが出るとき、いつも志貴がいる。
呼吸が浅くなる。考えるより先に、圭は部屋を飛び出していた。
「圭……!? どこ行くの?」
「すぐ戻るから!」
祖母に答えて、雨の中、傘も差さずに外へ飛び出す。
雨粒があっという間に全身を濡らした。息を吸うたび、肺の奥がひりつく。
「待て!」
誰に向かって叫んだのか、自分でも分からない。黒い影は、住宅街の角を曲がっていく。圭は無我夢中で後を追った。濡れたアスファルトを蹴る。息が切れる。雨が目に入り、視界が滲む。
曲がり角を抜けた。だが、そこに影の姿はない。
「は……っ」
足を止める。
いない。見失った。
息を切らしながら辺りを見回した、そのときだった。
少し先にある川沿いの遊歩道に、人影が見えた。雨の中を、ふらふらと歩いている。
「……志貴?」
傘も差さず、制服姿で濡れたまま歩く後ろ姿。見間違えるはずがなかった。
圭は駆け出す。
「おい! 志貴!」
叫んでも、振り返らない。背筋がぞくりと粟立つ。
ここ最近降り続いていた雨で、川は増水していた。濁った水が、轟音を立てながら流れている。
志貴は、そのまま川岸へ近づいていく。
「待てって!」
圭が手を伸ばす。その瞬間、志貴の身体がぐらりと傾いた。足が、川へ踏み出される。
「志貴!」
反射的に飛びついた。腕を掴もうとして、前へ倒れ込む。濁った水が顔に跳ね、濁流に足を取られそうになる。
「圭!」
突然、背後から、強く腕を引かれた。
「――っ!」
身体が後ろへ引き戻される。圭は荒い息のまま振り返った。
そこに立っていたのは、志貴だった。
グレーのシャツに、黒のパンツ。――制服ではない。
「……え」
一瞬、思考が止まる。
でも、さっき確かに。
弾かれたように前を向く。川岸には、もう誰もいなかった。ただ濁流だけが、激しい音を立てて流れている。
志貴は圭の腕を掴んだまま、険しい顔でこちらを見ていた。
「……何してるんだ、お前」
「ち……違う、俺じゃないんだって! さっき、お前が川に入っていくのが見えて、それで……」
言葉尻がどんどん萎んでいく。志貴は圭を掴む手に力
を込めた。痛いほどの力だった。
まるで、圭がどこかへ行くのを恐れているように。
「俺には、お前が影を追って、川に入っていくように見えた」
――まさか。そんなはずない。
そう言おうとして、だけど、喉の奥が張り付いたように声が出ない。
「やっぱり……」
志貴が小さく息をつく。
「影が憑いていたのは、お前だったんだな」
「……は?」
雨の中、圭は瞬きをした。一歩後ずさると、引き戻そうとするように、志貴に腕を引かれる。
「な……何言ってるんだよ。影が憑いてるのは、志貴だろ」
「じゃあどうして、池で脚を掴まれたのはお前だったんだ?」
真っ直ぐ見据えられ、答えに窮する。
「それは……」
「自転車屋の前で俺が見た影も……『お前の』影が揺れていたんだ」
志貴が言って、視線を落とす。
「あのときは、俺に憑いている影が、お前に影響しているのかと思った。……だけど、俺は一人でいるとき一度も影を見ていない」
志貴の声は静かで、けれど、どこか確信に満ちている。
「夢の話を聞いていたから、先入観があった。……だけど、お前に憑いてたんだとしたら、すべて辻褄が合うんだ」
圭は何も言えず、黙って志貴の話を聞いていた。
……もし。もしも、志貴の話が本当なら。自分はただ、志貴を危険に巻き込んでいただけで、最初から、ずっと――。
「影に憑かれる人には共通点があるはずだって、前に話しただろ」
志貴の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
「SNSで、影を見て自殺した人のアカウントを見つけたんだ。……三木さんとは、性別も、年齢も、家族構成も、何もかも違う。だけど、一つだけ共通点があった」
「……なに?」
尋ねると、志貴は圭の腕を握り直した。確かめるように、強く。
「二人とも……洪水で大切な人を失って、罪悪感を抱いている」
心臓が強く脈打った。小さく息をのむと、志貴がじっとこちらを見つめる。
「罪悪感から……死にたいと思う気持ちが、影を呼び寄せているんじゃないか?」
うまく息が吸えない。雨脚が強くなり、周りの音が遠のいていくような気がした。
志貴は圭を見つめたまま、何かを押し殺すように、唇を引き結ぶ。
「……ずっと、そんなわけないと思っていた。だけど……今、お前の顔を見て確信した」
一度目を伏せ、ゆっくりと視線を上げる。
「圭、お前……死にたいのか?」
違う。
そう言おうとしたけれど、声にならない。目の前の濁流みたいに、胸の中が荒れ狂っていた。
奥底に押し込めていたものが、無理やり引きずり出される。
「本当はずっと、気になってた」
雨に濡れた、志貴の長いまつ毛が震える。
「あの日――一年前の洪水の日、何があったんだ」
薄暗い天井が視界に映る。外からは微かに雨の音が聞こえる。カーテンの隙間から差し込む灰色の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
いつもの夢だ。
冷たい水。濁った川。そして――消えていく志貴の背中。
圭は額を押さえ、小さく息を吐いた。
ここ最近、まともに眠れた記憶がない。目を閉じるたびに、同じような夢を見る。志貴が死ぬ夢。手を伸ばしても、決して届かない。
ぼんやりと天井を見上げたまま、昨日のことを思い出す。
白い塀に書かれた『人殺し』の文字。
それから、スマートフォンで見た動画。AI音声が淡々と無責任な言葉を並べ立て、コメント欄は悪意の言葉で埋め尽くされていた。
志貴は、ずっとあんなものを見ていたのだ。
町で噂されて、陰口を叩かれて……あんな落書きまでされて。
なのに、自分は何も知らなかった。
知らないまま、呑気にゲームの話なんかして、笑っていた。
胸の奥が、じくじくと痛む。
『――鬱陶しいんだよ』
ふいに、昨日の声が蘇る。
本心じゃないことくらい、分かっている。あのときの志貴は、自分なんかよりずっと、痛そうな顔をしていた。
ただ、そんな言葉を言わせてしまった自分に、「やっぱり」という諦念に似た感情が浮かんだ。
圭は目を閉じる。
結局、自分はいつもそうだ。誰のことも、助けられない。
志貴のことも――兄と、母のことも。
圭は怠い体を無理やり起こして、窓へ向かった。今日は母の見舞いにいく約束をしている。
いつまでも、逃げていてはいけない。……頭では、分かっている。
カーテンを開けて、ぼんやりと外を眺める。そこでふと、異変に気づいた。
反射的に窓を開け、身を乗り出す。雨に煙る道の向こう。電柱の影に紛れるように、黒い染みのようなものが揺れていた。
影だ。
ぞわりと背筋が粟立つ。けれど次の瞬間、別の考えが頭をよぎった。
――志貴。
あれが出るとき、いつも志貴がいる。
呼吸が浅くなる。考えるより先に、圭は部屋を飛び出していた。
「圭……!? どこ行くの?」
「すぐ戻るから!」
祖母に答えて、雨の中、傘も差さずに外へ飛び出す。
雨粒があっという間に全身を濡らした。息を吸うたび、肺の奥がひりつく。
「待て!」
誰に向かって叫んだのか、自分でも分からない。黒い影は、住宅街の角を曲がっていく。圭は無我夢中で後を追った。濡れたアスファルトを蹴る。息が切れる。雨が目に入り、視界が滲む。
曲がり角を抜けた。だが、そこに影の姿はない。
「は……っ」
足を止める。
いない。見失った。
息を切らしながら辺りを見回した、そのときだった。
少し先にある川沿いの遊歩道に、人影が見えた。雨の中を、ふらふらと歩いている。
「……志貴?」
傘も差さず、制服姿で濡れたまま歩く後ろ姿。見間違えるはずがなかった。
圭は駆け出す。
「おい! 志貴!」
叫んでも、振り返らない。背筋がぞくりと粟立つ。
ここ最近降り続いていた雨で、川は増水していた。濁った水が、轟音を立てながら流れている。
志貴は、そのまま川岸へ近づいていく。
「待てって!」
圭が手を伸ばす。その瞬間、志貴の身体がぐらりと傾いた。足が、川へ踏み出される。
「志貴!」
反射的に飛びついた。腕を掴もうとして、前へ倒れ込む。濁った水が顔に跳ね、濁流に足を取られそうになる。
「圭!」
突然、背後から、強く腕を引かれた。
「――っ!」
身体が後ろへ引き戻される。圭は荒い息のまま振り返った。
そこに立っていたのは、志貴だった。
グレーのシャツに、黒のパンツ。――制服ではない。
「……え」
一瞬、思考が止まる。
でも、さっき確かに。
弾かれたように前を向く。川岸には、もう誰もいなかった。ただ濁流だけが、激しい音を立てて流れている。
志貴は圭の腕を掴んだまま、険しい顔でこちらを見ていた。
「……何してるんだ、お前」
「ち……違う、俺じゃないんだって! さっき、お前が川に入っていくのが見えて、それで……」
言葉尻がどんどん萎んでいく。志貴は圭を掴む手に力
を込めた。痛いほどの力だった。
まるで、圭がどこかへ行くのを恐れているように。
「俺には、お前が影を追って、川に入っていくように見えた」
――まさか。そんなはずない。
そう言おうとして、だけど、喉の奥が張り付いたように声が出ない。
「やっぱり……」
志貴が小さく息をつく。
「影が憑いていたのは、お前だったんだな」
「……は?」
雨の中、圭は瞬きをした。一歩後ずさると、引き戻そうとするように、志貴に腕を引かれる。
「な……何言ってるんだよ。影が憑いてるのは、志貴だろ」
「じゃあどうして、池で脚を掴まれたのはお前だったんだ?」
真っ直ぐ見据えられ、答えに窮する。
「それは……」
「自転車屋の前で俺が見た影も……『お前の』影が揺れていたんだ」
志貴が言って、視線を落とす。
「あのときは、俺に憑いている影が、お前に影響しているのかと思った。……だけど、俺は一人でいるとき一度も影を見ていない」
志貴の声は静かで、けれど、どこか確信に満ちている。
「夢の話を聞いていたから、先入観があった。……だけど、お前に憑いてたんだとしたら、すべて辻褄が合うんだ」
圭は何も言えず、黙って志貴の話を聞いていた。
……もし。もしも、志貴の話が本当なら。自分はただ、志貴を危険に巻き込んでいただけで、最初から、ずっと――。
「影に憑かれる人には共通点があるはずだって、前に話しただろ」
志貴の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
「SNSで、影を見て自殺した人のアカウントを見つけたんだ。……三木さんとは、性別も、年齢も、家族構成も、何もかも違う。だけど、一つだけ共通点があった」
「……なに?」
尋ねると、志貴は圭の腕を握り直した。確かめるように、強く。
「二人とも……洪水で大切な人を失って、罪悪感を抱いている」
心臓が強く脈打った。小さく息をのむと、志貴がじっとこちらを見つめる。
「罪悪感から……死にたいと思う気持ちが、影を呼び寄せているんじゃないか?」
うまく息が吸えない。雨脚が強くなり、周りの音が遠のいていくような気がした。
志貴は圭を見つめたまま、何かを押し殺すように、唇を引き結ぶ。
「……ずっと、そんなわけないと思っていた。だけど……今、お前の顔を見て確信した」
一度目を伏せ、ゆっくりと視線を上げる。
「圭、お前……死にたいのか?」
違う。
そう言おうとしたけれど、声にならない。目の前の濁流みたいに、胸の中が荒れ狂っていた。
奥底に押し込めていたものが、無理やり引きずり出される。
「本当はずっと、気になってた」
雨に濡れた、志貴の長いまつ毛が震える。
「あの日――一年前の洪水の日、何があったんだ」
