雨の中を、圭が歩いている。
全身ずぶ濡れで、足元には黒い影がまとわりついていた。
「圭!」
呼んでも振り返らない。声が、届かない。
茶色く濁り、水嵩を増した川の前で、圭は立ち尽くした。
黒い影が足首に絡みつき、膝まで這い上がる。
それでも圭は気づかずに、ただ一歩前へ足を踏み出す。
やめろ、と叫ぼうとした。
その瞬間、圭の身体がぐらりと傾き――濁流の中へ、呑まれるように消えていく。
雨音が、急に大きくなった。
志貴は息を呑んで目を覚ました。
薄暗い部屋。荒い呼吸だけが静かに響く。
「……夢」
掠れた声が、静かな部屋に落ちた。
額に張りついた前髪をかき上げ、ゆっくりと息を吐いた。
ベッドから下り、カーテンを開ける。窓の外では、また雨が降っていた。
妙に胸がざわつく。
時計を見ると、まだ朝早い時間だった。手近な服に着替えると、一階へ降りる。玄関で靴を引っ掛け、傘を差して外へ出た。
湿った空気が肌にまとわりつく。
門を出たところで、志貴は足を止めた。視線を塀へ向ける。
白い壁。雨に濡れた表面には、もう何も書かれていなかった。
赤いスプレーの文字が、消えている。
志貴はしばらく黙ってその跡を見つめた。薄く塗り直された部分だけが、わずかに色を変えている。
誰がやったのか、考えるまでもなかった。
――圭だ。
昨日は、あんなふうに突き放したのに……いつの間に。
胸の奥が、鈍く痛む。
そのまま家へ戻る気になれず、志貴は町を歩き出した。雲に覆われた空は薄暗く、湿った風が頬を撫でる。
住宅街を抜けた先、小さな公園の前で足を止めた。ロープで囲われた木のそばに、見覚えのある背中が見えた。
「……立石さん?」
声を掛けると、紺色の雨合羽を着た男が振り返る。
「お、志貴か」
立石は軍手を外しながら笑った。足元には脚立と、剪定道具が置かれている。
「仕事ですか」
「ん。この木、もう危なくてな。倒れる前に切っとけって町内会から頼まれた」
立石は顎で木を示す。
「去年、ここも浸水したらしい。……そりゃ弱るわけだ」
志貴もつられるように木を見上げる。
枝葉はまだ青い。ぱっと見た限りでは、どこも悪くなさそうに見える。
「でも……一年前の話ですよね?」
視線を根元へ落とす。
濡れた土の上に、雨粒が細かく弾けていた。
「水が長くつくと根が傷む。引いたあとも、土が締まって空気が抜けるんだ」
立石は靴先で地面を軽く蹴る。
「木って、すぐには枯れないんだよ。弱ったあともしばらく持つ。一年くらいしてから、急に駄目になることもある」
立石が蹴った土が、ぱらりと崩れる。
「原因も一つじゃない。水もあるし、虫もあるし、去年の剪定かもしれない。……いろいろ重なって、ある日ぽきっといく」
立石は小さく笑った。
「……人間と同じだな」
その言葉が、妙に耳に残る。
一年前の洪水。壮一の死。そして――最近の圭の不調。
志貴は小さく首を振った。
ただの木の話だ。さっきあんな夢を見たから、重ねて考えてしまっているだけ。……そのはずだ。
自分に言い聞かせながらも、立石と別れたあとも胸のざわつきは消えなかった。
三木の家に行ったときの、圭の様子。
埃を被ったゲームのコントローラー。
既読のつかないメッセージ。
これまで感じていたいくつもの違和感が、今になって蘇る。
志貴はポケットからスマートフォンを取り出した。
昨日、あんなことを言ったばかりなのに。
一瞬ためらう。けれど、込み上げる不安に急き立てられるように、通話ボタンを押した。呼び出し音が、雨音に混じって響く。
だが、何度鳴っても圭は出なかった。
通話を切ると、少し迷ってから、今度は圭の家の番号を押した。数回のコールのあと、聞き慣れた声が出る。
『はい、榎本です』
「……志貴です。圭、いますか」
『あら、志貴くん?』
圭の祖母の声は穏やかだったが、いつもより、少しだけ声が硬かった。
『それがねぇ……朝から出ていっちゃって』
「出ていった?」
『今日は、お母さんのお見舞いに行く予定だったんだけど……急に、「すぐ戻るから」って飛び出して、まだ帰ってこないのよ』
志貴は思わず息を止めた。
『君、もしかして——前に、病院に来なかった?』
『先月だっけ。おばあさんと一緒に、面会で……』
三木の夫が、圭に尋ねた言葉。
圭が知られたくないと思っているのに、無理に暴くことはしたくないと思っていた。だけど——……
「あの、お見舞いって……おばさん、何かあったんですか?」
圭の家に遊びに行ったときや柔道の試合で何度も見た圭の母の顔を思い出す。おっとりとした、いつも穏やかな母親だった。
『あら……あの子、志貴くんにも話してなかったの?』
困ったような声で、圭の祖母が話す。
『壮一が亡くなってから、ずっと塞ぎがちだったんだけどね……二ヶ月前に、急に職場で倒れて。お医者さんは心の問題だろうって』
二ヶ月前。一年ぶりに、圭と言葉を交わした頃だ。
志貴はスマートフォンを握りしめた。
圭が夢を見始めて――影が現れるようになった頃。
『しばらく入院することになったんだけど、あの子、あんまりお母さんに会いたがらなくて。今日も、本当は行きたくなかったのかねぇ……』
志貴は返事をしなかった。
ふいに、立石の言葉が脳裏をよぎる。
――いろいろ重なって、ある日ぽきっといく。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……すみません。俺、少し探してみます」
『え? でも――』
最後まで聞かずに通話を切る。
気づけば、志貴は走り出していた。
雨が傘を激しく叩く。湿った風が頬を打ち、足元で水が跳ねた。
圭。
胸の内で名前を呼ぶ。
嫌な予感だけが、雨音のように頭の奥へ張りついていた。
全身ずぶ濡れで、足元には黒い影がまとわりついていた。
「圭!」
呼んでも振り返らない。声が、届かない。
茶色く濁り、水嵩を増した川の前で、圭は立ち尽くした。
黒い影が足首に絡みつき、膝まで這い上がる。
それでも圭は気づかずに、ただ一歩前へ足を踏み出す。
やめろ、と叫ぼうとした。
その瞬間、圭の身体がぐらりと傾き――濁流の中へ、呑まれるように消えていく。
雨音が、急に大きくなった。
志貴は息を呑んで目を覚ました。
薄暗い部屋。荒い呼吸だけが静かに響く。
「……夢」
掠れた声が、静かな部屋に落ちた。
額に張りついた前髪をかき上げ、ゆっくりと息を吐いた。
ベッドから下り、カーテンを開ける。窓の外では、また雨が降っていた。
妙に胸がざわつく。
時計を見ると、まだ朝早い時間だった。手近な服に着替えると、一階へ降りる。玄関で靴を引っ掛け、傘を差して外へ出た。
湿った空気が肌にまとわりつく。
門を出たところで、志貴は足を止めた。視線を塀へ向ける。
白い壁。雨に濡れた表面には、もう何も書かれていなかった。
赤いスプレーの文字が、消えている。
志貴はしばらく黙ってその跡を見つめた。薄く塗り直された部分だけが、わずかに色を変えている。
誰がやったのか、考えるまでもなかった。
――圭だ。
昨日は、あんなふうに突き放したのに……いつの間に。
胸の奥が、鈍く痛む。
そのまま家へ戻る気になれず、志貴は町を歩き出した。雲に覆われた空は薄暗く、湿った風が頬を撫でる。
住宅街を抜けた先、小さな公園の前で足を止めた。ロープで囲われた木のそばに、見覚えのある背中が見えた。
「……立石さん?」
声を掛けると、紺色の雨合羽を着た男が振り返る。
「お、志貴か」
立石は軍手を外しながら笑った。足元には脚立と、剪定道具が置かれている。
「仕事ですか」
「ん。この木、もう危なくてな。倒れる前に切っとけって町内会から頼まれた」
立石は顎で木を示す。
「去年、ここも浸水したらしい。……そりゃ弱るわけだ」
志貴もつられるように木を見上げる。
枝葉はまだ青い。ぱっと見た限りでは、どこも悪くなさそうに見える。
「でも……一年前の話ですよね?」
視線を根元へ落とす。
濡れた土の上に、雨粒が細かく弾けていた。
「水が長くつくと根が傷む。引いたあとも、土が締まって空気が抜けるんだ」
立石は靴先で地面を軽く蹴る。
「木って、すぐには枯れないんだよ。弱ったあともしばらく持つ。一年くらいしてから、急に駄目になることもある」
立石が蹴った土が、ぱらりと崩れる。
「原因も一つじゃない。水もあるし、虫もあるし、去年の剪定かもしれない。……いろいろ重なって、ある日ぽきっといく」
立石は小さく笑った。
「……人間と同じだな」
その言葉が、妙に耳に残る。
一年前の洪水。壮一の死。そして――最近の圭の不調。
志貴は小さく首を振った。
ただの木の話だ。さっきあんな夢を見たから、重ねて考えてしまっているだけ。……そのはずだ。
自分に言い聞かせながらも、立石と別れたあとも胸のざわつきは消えなかった。
三木の家に行ったときの、圭の様子。
埃を被ったゲームのコントローラー。
既読のつかないメッセージ。
これまで感じていたいくつもの違和感が、今になって蘇る。
志貴はポケットからスマートフォンを取り出した。
昨日、あんなことを言ったばかりなのに。
一瞬ためらう。けれど、込み上げる不安に急き立てられるように、通話ボタンを押した。呼び出し音が、雨音に混じって響く。
だが、何度鳴っても圭は出なかった。
通話を切ると、少し迷ってから、今度は圭の家の番号を押した。数回のコールのあと、聞き慣れた声が出る。
『はい、榎本です』
「……志貴です。圭、いますか」
『あら、志貴くん?』
圭の祖母の声は穏やかだったが、いつもより、少しだけ声が硬かった。
『それがねぇ……朝から出ていっちゃって』
「出ていった?」
『今日は、お母さんのお見舞いに行く予定だったんだけど……急に、「すぐ戻るから」って飛び出して、まだ帰ってこないのよ』
志貴は思わず息を止めた。
『君、もしかして——前に、病院に来なかった?』
『先月だっけ。おばあさんと一緒に、面会で……』
三木の夫が、圭に尋ねた言葉。
圭が知られたくないと思っているのに、無理に暴くことはしたくないと思っていた。だけど——……
「あの、お見舞いって……おばさん、何かあったんですか?」
圭の家に遊びに行ったときや柔道の試合で何度も見た圭の母の顔を思い出す。おっとりとした、いつも穏やかな母親だった。
『あら……あの子、志貴くんにも話してなかったの?』
困ったような声で、圭の祖母が話す。
『壮一が亡くなってから、ずっと塞ぎがちだったんだけどね……二ヶ月前に、急に職場で倒れて。お医者さんは心の問題だろうって』
二ヶ月前。一年ぶりに、圭と言葉を交わした頃だ。
志貴はスマートフォンを握りしめた。
圭が夢を見始めて――影が現れるようになった頃。
『しばらく入院することになったんだけど、あの子、あんまりお母さんに会いたがらなくて。今日も、本当は行きたくなかったのかねぇ……』
志貴は返事をしなかった。
ふいに、立石の言葉が脳裏をよぎる。
――いろいろ重なって、ある日ぽきっといく。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……すみません。俺、少し探してみます」
『え? でも――』
最後まで聞かずに通話を切る。
気づけば、志貴は走り出していた。
雨が傘を激しく叩く。湿った風が頬を打ち、足元で水が跳ねた。
圭。
胸の内で名前を呼ぶ。
嫌な予感だけが、雨音のように頭の奥へ張りついていた。
