きみが死ぬ夢を見たから

 圭の腕を掴んでいた手を、力なく下ろす。

「……やめてくれ」

 拳を握り、浅く息を吸う。

「お前の勝手な正義感で、引っ掻き回さないでくれ」
「ちが……っ、俺は」
「迷惑だ」

 小さく息をのむ音が聞こえた。
 圭を、傷つけている。

「だから言ったんだ、俺に関わるなって」

 息を吸うたびに、胸に鋭い痛みが走る。

「――鬱陶しいんだよ」

 吐き出すように言って、踵を返した。
 景色が、熱に揺らぐみたいに滲む。蝉時雨が耳鳴りのように聞こえた。

「志貴!」

 圭の声が追いかけてくる。けれど、志貴は振り返らず、後ろ手に門を閉めた。

「待てよ、志貴!」

 門を叩く音が響く。その音から逃げるように、玄関に入り、扉を閉めた。

「開けろ!」

 圭はしばらくの間、門を叩き、志貴を呼び続けていた。何度も扉を開けそうになるのを、目を閉じたままじっと耐える。
 やがて圭の声が聞こえなくなり、志貴は上り框に腰を下ろした。居間から流れ出すエアコンの風が、腕を撫でる。冷房の温度を下げすぎたのかもしれない。外はあんなに暑かったのに、今は少し寒かった。
 硬く握りしめていた手をそっと開く。そこには、さっき圭から受け取ったキーホルダーがあった。
 本当は、捨ててしまおうと思っていた。
 父の噂を知ったとき、もう圭とは一緒にいるべきでないと分かったから。
 圭を巻き込みたくない。だけど……結局、捨てきれないまま、ずっと持ち歩いていた。
 志貴は目を伏せ、唇を引き結ぶ。
 ――圭は知らない。
 自分がどれだけ、周りの人を救っているのか。


***


「志貴くんのおうちって、おかあさんいないんだって」

 小学三年生のときだった。
 きっと誰かが、先生か親から聞いてきたのだろう。昼休みの教室は、あっという間にその話で持ちきりになった。

「そうなの? なんで?」
「ビョウキで死んじゃったんだって」
「へーそうなんだ」

 口々に話す声は、好奇心を隠そうともしない。

「なんか、かわいそうだね」

 誰かが言った、取ってつけたような同情の言葉。
 気づけば、持っていた本を強く握っていた。本のページが、くしゃりと曲がる。

「おい、お前ら!」

 そのとき、教室に声が響いた。

「かわいそうってなんだよ! 勝手に決めつけるな!」

 ゆっくりと視線を上げる。そこに立っていたのは、同じクラスの榎本圭だった。
 三年になって、初めて同じクラスになったけど、これまでほとんど話したことはない。いつも騒がしくて、よく先生に怒られているやつだった。自分とは正反対で、きっとこれからも話すことなんてないだろうと思っていた。

「は……はぁ? なに怒ってんだよ」
「圭にはカンケーないだろ」

 教室がざわつく。圭はずんずんと足音を立てて歩み寄り、胸ぐらを掴んだ。

「あやまれ!」
「うわっ、放せよ!」
「今すぐ志貴にあやまれ!」

 胸ぐらを掴まれた男子が、必死に振りほどこうとする。

「放せって……!」

 その拍子に、男子の腕が圭の鼻にぶつかった。圭の鼻から血が流れ、女子が悲鳴を上げる。先生が駆け寄ってきて、教室はあっという間に大騒ぎになった。



 放課後になる頃には、昼間の騒ぎはすっかり学校中に広まっていた。
 圭は保健室で鼻血を止められたあと、先生にこっぴどく怒られたらしい。帰りの会でも、「暴力はいけません」と担任がわざわざ念押ししていた。
 志貴はランドセルを背負い、教室を出る。廊下を歩いていると、後ろから足音が追いかけてきた。

「志貴!」

 振り返る。
 圭が、鼻に白いガーゼを貼ったまま立っていた。

「……なんだ」
「いや、なんかさ」

 圭は頭を掻く。

「その……大丈夫だったか?」

 一拍遅れて、志貴は口を開く。

「別に……」
「そっか」

 圭は笑って、志貴の隣に並ぶ。なんとなく、二人で昇降口へ向かって歩き出した。

「……俺もさ、父さんいないんだ」

 軽い口調で、圭が言う。志貴は思わず顔を上げた。

「赤ちゃんの頃にいなくなったから、あんま覚えてないけど」

 圭が話すのを聞きながら、志貴は急に胸の奥が冷えていくのを感じていた。
 ――だから、俺の気持ちが分かるって言いたいのか。
 圭から顔を逸らし、上履きからスニーカーに履き替える。
 結局こいつも、さっきのやつらと同じだ。
 勝手に『かわいそう』だと決めつけて、分かったような顔をする。
 けれど、圭は次の瞬間、けろりと笑った。

「でもさ、ラッキーじゃん?」
「……は?」
「夕飯からあげの日、父さんいない分いっぱい食えるし」

 あまりにも予想外の言葉に、志貴は固まった。
 圭は気にした様子もなく続ける。

「母さんの作るからあげ、うまいんだ〜。店で買うやつと全然違うんだよ。あ、今度食べにくる?」
「……なに言ってるんだ、お前」
「え?」

 圭はきょとんとする。

「志貴は、からあげ嫌い?」

 本気で言っているらしい。
 志貴はしばらく圭を見つめ、それから小さく息を吐いた。
 何なんだ、こいつは。

「なあ、今から山行かない?」
「は?」
「秘密基地あるんだ。案内してやるよ」

 話が飛びすぎていて、頭が追いつかない。
 けれど、圭は当然のように志貴の腕を掴み、そのまま校門の方へ引っ張っていった。
 山道を登りながら、圭はずっと喋っていた。
「この辺カブトムシいるんだ」とか、「この前、壮兄が蛇見つけてさ」とか、どうでもいい話ばかりだ。
 その声を聞き流しながら、志貴は前を歩く圭の背中を見ていた。
 ふと、気づく。
 気まずくない。母親の話をされたあとなのに。
 同情されていない。慰められてもいない。
 それは、初めてのことで……

「なあ」

 気づけば、志貴の方から口を開いていた。

「お前の父親……なんでいないんだ」
「んー?」

 圭は木の枝を避けながら振り返る。

「よく分かんないけど、リコンって言ってた」
「……嫌じゃないのか」
「別に?」

 圭はあっさり答えた。

「俺、お母さんもばあちゃんも壮兄も好きだし。毎日たのしいよ」

 迷いのない声だった。
 志貴は少しだけ目を伏せる。

「……志貴は?」

 視界に割り込むように、ひょい、と圭が顔を覗き込んできた。

「父さんと暮らしてるんだろ?」

 足が止まる。
 少しだけ迷ってから、志貴は小さく口を開いた。

「……俺も、父さん好きだ」
「そっか!」

 圭はぱっと笑った。

「じゃあ俺たち、ラッキーだな!」
「……何がだ」
「だって、好きな家族ちゃんといるじゃん」

 当たり前みたいに言って、圭はまた前を向く。
 夕焼けの光が、木々の隙間から差し込んでいた。
 その背中を見ながら、志貴は胸に浮かんだ感情を、うまく言葉にできずにいた。

***