結局、夏休みに入るまで、圭が学校へ来ることはなかった。
終業式の日も圭の席は空いたままで、またメッセージを送ってみたが、二日たった今も既読はついていない。
自室の机で夏休みの課題をしていた志貴は、息を吐いて教科書を置いた。さっきから、目が滑って同じところばかりを読んでいる。
集中できていない。その理由は、わかっていた。
志貴は机の端に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。SNSのアプリを開き、ブックマークしていたアカウントを開く。
影を見たあと、自殺したという人物。
後日、如月から連絡があり、その人に関する情報を教えてもらった。志貴は条件に当てはまりそうなアカウントをいくつか辿り、このアカウントに行き着いた。
投稿は多くない。
だが、洪水のあとから、内容が変わっている。
『どうして俺だけ、生き残ってしまったんだろう』
『あの日、俺がそばにいられたら』
『朝が来るのが怖い。このまま二度と、目が覚めなければいいのに』
そこに残っているのは、強い悲しみと後悔だった。
投稿には、写真が何枚も添付されている。
流された家の跡地。
更地になった土地に、ぽつんと残る基礎。
泥に覆われたままの庭。
同じ場所を、角度を変えて何度も撮った写真が並んでいる。
その一枚を、指で止め、拡大する。
写真の端に、影が落ちている。建物の残骸が作る影とは、明らかに形が違う。細く、歪み、どこか輪郭が溶けているように見える。
おかしいのは、この写真だけではない。別の写真にも、似たようなものが写り込んでいた。
やはり、彼にも影が憑いていたのだろうか。
志貴はスマートフォンを持つ手に力を込めた。
圭に、このことを伝えるべきか。
できれば体調が戻るまで待ちたい。だが、このまま返事もない状態が続けば、いつ話せるかも分からない。
だからといって、具合の悪い相手を無闇に不安にさせたくもなかった。
考えを整理するように、志貴は立ち上がる。窓際へ向かい、少しだけカーテンを引いた。
眩しい日差しが部屋を照らす。今日は久しぶりに、朝から晴れていた。
志貴は何気なく、視線を窓の向こうへ向ける。そのとき、通りの向こうから、こちらへ向かってくる人影に気づいた。
最初は、ただの通行人だと思った。だが、その歩き方に見覚えがあった。
距離が少しずつ縮まり、顔がはっきりする。
――圭だ。
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間には、体が動いていた。
志貴は部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。スニーカーをつっかけ、玄関の扉を開ける。
外の熱気が、一気に流れ込んできた。
そのまま外へ出ると、門を抜け、通りへ出たところで足を止める。圭は、もうすぐそこまで来ていた。
「圭!」
「……お、志貴!」
圭が顔を上げて、笑顔で手を振る。
まだ、あの落書きには気づかれていない。
志貴は圭に駆け寄ると、軽く腕を引いて、体の向きを変えさせた。
「どうしたんだ? 熱は?」
「今日はなんか体調よくてさ。で、お前のキーホルダー返し忘れてたから届けにきた」
圭はポケットから、柔道着を着た犬のキーホルダーを取り出して見せる。そういえば、あの日、圭に渡したまま返してもらっていなかった。
志貴にキーホルダーを手渡しながら、圭はパタパタとシャツで顔を扇ぐ。
「今日暑いなー……。水飲ませてくんない? 久しぶりに志貴の家も行きたいし」
「駄目だ」
反射的に返す。圭は笑いながら、歩き出した。
「何だよ、パンツでも干してんのか? んなの気にしないって」
「違う……っ、圭!」
思わず強い声が出る。
その瞬間だった。
圭の視線が、ふと門の横へ向いた。
「見るな!」
制止の声は、一瞬遅かった。
「何……?」
圭が足を止める。
白い塀。その表面に、赤いスプレーで乱暴に書かれた『人殺し』の文字。
圭の表情から、笑みが消えた。
「何だよ、これ……」
圭の視線が揺れる。振り返り、志貴の肩を強く掴んだ。
「人殺しって、何のことだ? 誰がこんなの書いたんだよ!」
「圭、落ち着け。声が大きい」
「落ち着けるかよ! なんでそんな冷静なんだ!」
圭の声が、通りに響く。
遠くで蝉が鳴いている。白い塀が、日差しを反射して痛いほど眩しかった。
志貴は目を伏せ、圭の腕を押した。掴まれていた肩を、そっと放させる。
「……一年前の洪水。あれが、町長の責任だって噂になってるんだ」
「は……?」
圭の目が大きく見開かれる。
「あの日、大切な人を亡くした人が大勢いる。みんな、やり場のない気持ちを抱えてるんだ」
志貴は静かに続けた。
「だから……仕方のないことだ。もっと時間がたって、少しずつ傷が薄れて……冷静になれたら。いつか、分かってもらえる」
言いながら、自分でも空虚だと思った。
そんな保証は、どこにもない。
「でも……それじゃあ、志貴は?」
圭の声が震える。
「志貴と、志貴の父さんはどうするんだよ」
志貴は答えなかった。代わりに、小さく息を吐く。
「……もう、慣れてる」
「慣れるなよ!」
強い声と同時に、胸ぐらを掴まれる。
揺れた視界の向こうで、圭がこちらを睨んでいた。
怒っている。けれど、それ以上に――悔しそうだった。
「なんでそんな、平気みたいな顔してんだよ! ちゃんと怒れよ……!」
掴む手が、小さく震えている。
志貴は何も言えなかった。
何を言えばいいのか、分からない。
圭は唇を噛みしめ、乱暴に手を離した。そのまま踵を返し、足早に歩き出す。
志貴はとっさにその腕を掴んだ。
「待て。どこに行く気だ」
「決まってるだろ。こんなこと、やめるように言いに行く」
振り返った圭の目は、本気だった。
「誰に言うつもりなんだ」
志貴は眉をひそめる。
「お前はそんなことしなくていい。……キリがない」
「キリなんか知るか!」
圭が叫ぶ。
「十人だろうが百人だろうが、志貴にこんなことするやつは許さない! 一人もいなくなるまで説得する!」
真夏の日差しの下で、圭の声だけが真っ直ぐ響く。
あまりにも馬鹿みたいで。
あまりにも、圭らしかった。
終業式の日も圭の席は空いたままで、またメッセージを送ってみたが、二日たった今も既読はついていない。
自室の机で夏休みの課題をしていた志貴は、息を吐いて教科書を置いた。さっきから、目が滑って同じところばかりを読んでいる。
集中できていない。その理由は、わかっていた。
志貴は机の端に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。SNSのアプリを開き、ブックマークしていたアカウントを開く。
影を見たあと、自殺したという人物。
後日、如月から連絡があり、その人に関する情報を教えてもらった。志貴は条件に当てはまりそうなアカウントをいくつか辿り、このアカウントに行き着いた。
投稿は多くない。
だが、洪水のあとから、内容が変わっている。
『どうして俺だけ、生き残ってしまったんだろう』
『あの日、俺がそばにいられたら』
『朝が来るのが怖い。このまま二度と、目が覚めなければいいのに』
そこに残っているのは、強い悲しみと後悔だった。
投稿には、写真が何枚も添付されている。
流された家の跡地。
更地になった土地に、ぽつんと残る基礎。
泥に覆われたままの庭。
同じ場所を、角度を変えて何度も撮った写真が並んでいる。
その一枚を、指で止め、拡大する。
写真の端に、影が落ちている。建物の残骸が作る影とは、明らかに形が違う。細く、歪み、どこか輪郭が溶けているように見える。
おかしいのは、この写真だけではない。別の写真にも、似たようなものが写り込んでいた。
やはり、彼にも影が憑いていたのだろうか。
志貴はスマートフォンを持つ手に力を込めた。
圭に、このことを伝えるべきか。
できれば体調が戻るまで待ちたい。だが、このまま返事もない状態が続けば、いつ話せるかも分からない。
だからといって、具合の悪い相手を無闇に不安にさせたくもなかった。
考えを整理するように、志貴は立ち上がる。窓際へ向かい、少しだけカーテンを引いた。
眩しい日差しが部屋を照らす。今日は久しぶりに、朝から晴れていた。
志貴は何気なく、視線を窓の向こうへ向ける。そのとき、通りの向こうから、こちらへ向かってくる人影に気づいた。
最初は、ただの通行人だと思った。だが、その歩き方に見覚えがあった。
距離が少しずつ縮まり、顔がはっきりする。
――圭だ。
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間には、体が動いていた。
志貴は部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。スニーカーをつっかけ、玄関の扉を開ける。
外の熱気が、一気に流れ込んできた。
そのまま外へ出ると、門を抜け、通りへ出たところで足を止める。圭は、もうすぐそこまで来ていた。
「圭!」
「……お、志貴!」
圭が顔を上げて、笑顔で手を振る。
まだ、あの落書きには気づかれていない。
志貴は圭に駆け寄ると、軽く腕を引いて、体の向きを変えさせた。
「どうしたんだ? 熱は?」
「今日はなんか体調よくてさ。で、お前のキーホルダー返し忘れてたから届けにきた」
圭はポケットから、柔道着を着た犬のキーホルダーを取り出して見せる。そういえば、あの日、圭に渡したまま返してもらっていなかった。
志貴にキーホルダーを手渡しながら、圭はパタパタとシャツで顔を扇ぐ。
「今日暑いなー……。水飲ませてくんない? 久しぶりに志貴の家も行きたいし」
「駄目だ」
反射的に返す。圭は笑いながら、歩き出した。
「何だよ、パンツでも干してんのか? んなの気にしないって」
「違う……っ、圭!」
思わず強い声が出る。
その瞬間だった。
圭の視線が、ふと門の横へ向いた。
「見るな!」
制止の声は、一瞬遅かった。
「何……?」
圭が足を止める。
白い塀。その表面に、赤いスプレーで乱暴に書かれた『人殺し』の文字。
圭の表情から、笑みが消えた。
「何だよ、これ……」
圭の視線が揺れる。振り返り、志貴の肩を強く掴んだ。
「人殺しって、何のことだ? 誰がこんなの書いたんだよ!」
「圭、落ち着け。声が大きい」
「落ち着けるかよ! なんでそんな冷静なんだ!」
圭の声が、通りに響く。
遠くで蝉が鳴いている。白い塀が、日差しを反射して痛いほど眩しかった。
志貴は目を伏せ、圭の腕を押した。掴まれていた肩を、そっと放させる。
「……一年前の洪水。あれが、町長の責任だって噂になってるんだ」
「は……?」
圭の目が大きく見開かれる。
「あの日、大切な人を亡くした人が大勢いる。みんな、やり場のない気持ちを抱えてるんだ」
志貴は静かに続けた。
「だから……仕方のないことだ。もっと時間がたって、少しずつ傷が薄れて……冷静になれたら。いつか、分かってもらえる」
言いながら、自分でも空虚だと思った。
そんな保証は、どこにもない。
「でも……それじゃあ、志貴は?」
圭の声が震える。
「志貴と、志貴の父さんはどうするんだよ」
志貴は答えなかった。代わりに、小さく息を吐く。
「……もう、慣れてる」
「慣れるなよ!」
強い声と同時に、胸ぐらを掴まれる。
揺れた視界の向こうで、圭がこちらを睨んでいた。
怒っている。けれど、それ以上に――悔しそうだった。
「なんでそんな、平気みたいな顔してんだよ! ちゃんと怒れよ……!」
掴む手が、小さく震えている。
志貴は何も言えなかった。
何を言えばいいのか、分からない。
圭は唇を噛みしめ、乱暴に手を離した。そのまま踵を返し、足早に歩き出す。
志貴はとっさにその腕を掴んだ。
「待て。どこに行く気だ」
「決まってるだろ。こんなこと、やめるように言いに行く」
振り返った圭の目は、本気だった。
「誰に言うつもりなんだ」
志貴は眉をひそめる。
「お前はそんなことしなくていい。……キリがない」
「キリなんか知るか!」
圭が叫ぶ。
「十人だろうが百人だろうが、志貴にこんなことするやつは許さない! 一人もいなくなるまで説得する!」
真夏の日差しの下で、圭の声だけが真っ直ぐ響く。
あまりにも馬鹿みたいで。
あまりにも、圭らしかった。
